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この世界の感情は全部作られていた ~共鳴しない僕だけが「ノイズ能力」でフェイク・レゾナンスを壊すまで~  作者: ひろボ


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第4話:廃棄層の亡霊たち

 肺の奥底が、錆びついた鉄と湿ったカビの匂いで満たされていく。

 地上の、あの不自然なまでに清浄で、計算し尽くされた人工香料が漂っていた空気とは正反対の、生々しくて、汚らわしくて、それでいて堪らなく「生きている」と感じさせる重苦しい匂い。


「……ハァッ、ハァッ……っ、がはっ……」


 俺は冷たいコンクリートの壁に肩を預け、ズルズルと膝をついた。

 脳髄の芯を、赤く焼けた太い鉄の釘で直接貫かれたような、強烈で鋭利な痛みが断続的に走る。


 右手のノイズを無理やり増幅させ、フェイク・レゾナンスの網を力任せに食い破った代償。

 視界は水に落とした濃いインクをぶちまけたように濁り、自分の指先すらまともに形を結ばない。


『共鳴疲労』。

 それは精神が肉体の檻を突き破ろうとした結果の、魂の摩耗だった。


「無理をしないで。あなたの波形は、今にも霧散してしまいそうなほど乱れています。シナプスの結合が、物理的な熱を持って焼き切れようとしている……」


 暗闇の中から、鈴を転がすような、だが確かな温度を持った声が響いた。


 神崎ミナ。

 彼女は、つい数時間前まで俺の命を「処理」しようとしていた白い制服のジャケットを脱ぎ捨て、ハルが用意した無骨な黒いタクティカルウェアを羽織っていた。


 彼女は俺の傍らに跪くと、白く震える手で俺の肩を支えた。

 その指先からは、調整局時代に染み付いた冷徹な規律ではなく、一人の人間としての狼狽と、微かな「熱」が伝わってくる。


「今のあなたに必要なのは、システムによる『調整』ではなく、ただの休息です。……目を閉じて。私の波長で、あなたのノイズを少しだけ抑え込みます」


「……あ、ああ。悪いな。まさか、あんたに介抱されるなんて、一秒前まで想像もしてなかったよ」


「私も、自分がシステムを裏切り、バグと手を取るなんて……私の演算ロジックには存在しない未来でした」


 ミナは自嘲気味に微笑んだ。

 その表情は、地上の巨大スクリーンに映し出されていた冷徹な聖女のそれではなく、ただの十七歳の少女としての、脆く、不器用なものだった。


 ここは、ネオ・トーキョーの地下深層。

 地図にも載っていない、あるいは歴史から抹消された『第零ゼロ廃棄層』。


 地上の「幸福」を維持するために、システムが排出した熱気と汚水、そして『社会の不純物』が流れ込む、都市の内臓。

 壁面には、血管のようにはね出す極太の光ファイバーがのたうち回り、ドクンドクンと一定のリズムで不気味な明滅を繰り返している。


 それは、地上の華やかなネオンを灯すために吸い上げられた、市民たちの「生の断片」が流れる音のようにも聞こえた。


「よう。バグ共の傷の舐め合いは終わったか?」


 モニターの山に囲まれたハルが、不敵な笑みを浮かべて椅子を回転させた。

 彼の背後の巨大なモニター群には、地上で俺たちを血眼になって捜索する調整局の動向が、無数の赤い光点となって映し出されている。


「ハル。あんた、さっき言ってたよな。この街は俺たちの感情を『吸い取ってる』って。……単なる比喩じゃないんだろ。その証拠を見せてくれ」


 俺は激しい頭痛に耐え、血の滲んだ目でハルを睨みつけた。


 ハルは一瞬、いつもの軽薄な笑みを消し、静かにキーボードを叩いた。

 その顔は、青白いモニターの光に照らされ、ひどく冷酷に見えた。


「……見せてやるよ。あんたたちが今まで無邪気に享受してきた『平和』の、本当の対価。この街の『心臓』に流れている血の色をな」


 中央の巨大なモニターに、ある隠しカメラの映像が映し出された。


 それは、この廃棄層のさらに数キロ深部にある『感情処理プラント』の内部映像。

 そこに広がっていたのは、地上のコバルトブルーの空の下では一生かかっても想像し得ない、ネオ・トーキョーの「絶対的な禁忌」だった。


 広大な空洞。

 天井まで届くほどの巨大な円筒状の冷却タンクが、幾百、幾千と整然に並んでいた。


 タンクの中は、淡いエメラルドグリーンの培養液で満たされ、その中には……無数の「人間」が、まるで標本のように浸されていた。


 彼らの頭部からは、神経組織に直接突き刺さった無数の電極と、そこから伸びる太い光ファイバー。

 それらが、鼓動するように一定の周期で明滅している。


「……な、んだ……これ……。何なの、これ……っ!」


 ミナが、その光景に絶句し、口元を両手で覆った。


共鳴炉レゾナンス・コアだ。地上で『調整』に失敗した連中、あるいはシステムにとって『非効率』だと判断された不適合者たちのなれの果てだよ」


 ハルの声には、怒りすら通り越した、地を這うような虚無が混じっていた。


「死なせない程度に肉体を維持し、脳内に直接、脳内麻薬エンドルフィンを分泌させる幻覚を見せ続ける。そうやって純粋培養された『高純度な幸福の共鳴波』を、この街は動力源バッテリーとして使ってるんだ。


 ネオ・トーキョーの街灯が一つ灯るたびに、このタンクの中の誰かが、魂の最後の一滴まで精神を搾り取られている。

 平和という名の『生贄』だよ」


 カメラが、一人の少女の顔をアップにする。


 タンクの中で、彼女の瞳はゆっくりと開かれた。

 だが、その虹彩には意志の光はない。


 ただ、システムが流し込む「偽りの天国」という毒を見せられ、その快楽の代償として、自分という存在そのものを磨り潰されている。


 彼女は微笑んでいた。

 だが、その目からは、培養液に混ざる一筋の涙が溢れていた。


「……調整局のトップは、私にこう言いました。『不協和音を消すのは、すべての人を幸福にするためだ』と。……これが、その『幸福』の正体だったなんて……!」


 ミナの拳が、爪が食い込むほどに強く握りしめられる。

 彼女の整えられた波形が、激しい憤りによって鋭い鋸刃のようにささくれ立っていく。


「だろうな。これは一部の特権階級と、レゾナンスAI『ガブリエル』の最深部だけが共有している究極の秩序ロジックだ。


 ……あんたがさっき学校で救ったあの男子生徒も、あの中庭で調整しきれなければ、一週間後にはこのタンクの肥やしになってたはずだぜ」


 キィィィィィィィィィィィィィィィィィン!!


 脳を焼くような、かつてないほど不快な耳鳴りが俺を襲った。


 いや、これはシステムの干渉音じゃない。

 この地下に閉じ込められた、数万人の「殺された心」が発する、声なき、物理的な絶叫。


 俺の『ノイズ共鳴』という異能が、逃げ場のない奴らの絶望と、無意識のうちにリンクし始めている。


「……ふざけるな。こんなことが……平和なものか。こんなのは、ただの……巨大な『屠殺場』だ……!」


 俺の右手のノイズが、俺自身の激情を燃料にして、爆発的な熱量を帯び始める。

 漆黒の稲妻が腕を駆け巡り、周囲の鉄屑を弾き飛ばし、拠点の照明をチカチカと明滅させた。


「許されない。だから、俺はここにいる。……そして、俺たちだけじゃない」


 ハルがモニターを切り替えると、地下のさらに奥深くに潜伏する、武装した集団の姿が映し出された。


「『自由戦線リベリオン』。システムの鎖を引きちぎって、この汚泥の中で爪を研いできた反逆者たちだ。


 あんたのノイズを観測して、連中も色めき立ってるぜ。……だが、喜び勇んで合流する前に、一つ、絶望的な知らせがある」


 ハルが指し示した最新の政府公報。

 そこには、調整局のトップである局長が、緊急事態を宣言している姿があった。


『――反逆者、朝霧レンおよび神崎ミナの排除を、特A級事項として更新。これより、全居住区に「感情封鎖エモーショナル・ロック」を発令する。市民は直ちに深層共鳴モードへ移行せよ』


「感情封鎖……? それ、どういうことだ」


「都市全体のフェイク・レゾナンス出力を限界まで引き上げるんだよ。

 市民一人一人の感情を、システムのシールドとして利用する。


 あんたのノイズを物理的に『圧殺』するための、巨大な静寂の壁だ。


 ……さらに、あんたたち専用の特別部隊が投入された。……これを見ろ」


 画面に映し出されたのは、純白の調整局の制服とは真逆の、漆黒の強化装甲に身を包んだ部隊。

 彼らの顔面には、表情を読み取るためのスリットすら存在しない、無機質なバイザーが装着されていた。


「『無音の処刑人サイレント・エグゼキューター』。

 感情を、薬物とナノマシンで完全に去勢キャトされ、痛みも恐怖も、そして共鳴すらも感じない。


 ガブリエル直属の、ただの殺戮人形たちだ。


 ……ミナ、あんたの元同僚たちが持つ『説得の音』も、そいつらには一ミリも届かない」


 凍りつくような静寂が、地下拠点を支配した。


 自分たちが踏み出した一歩が、どれほど巨大で、血も涙もない怪物に挑んでいるのか。

 その全貌が、徐々に露わになっていく。


 だが。


 俺の胃の底には、恐怖ではなく、どす黒く煮えたぎる『歓喜』があった。


「……上等だよ」


 俺はふらつく足で立ち上がり、黒い火花を撒き散らす右拳を、自分の心臓の上に強く叩きつけた。


「幸福を奪い取って、絶望をリサイクルして動く世界。

 ……そんなクソみたいな正解、俺がこの『不協和音ノイズ』で、根こそぎブチ壊してやる。


 一秒でも長く、奴らの耳元で、この消えない不快音を響かせてやるんだ」


「……私も、もう迷いません。

 私の『調律』は、誰かの心を無理やり黙らせるためのものではなかったはず。


 ……この世界の真実を、本当の声を取り戻すために使います。


 朝霧レン……私を、あなたの隣に」


 ミナが俺の目を見つめ、静かに、だが岩のように揺るぎない覚悟を告げた。


「へっ、最高だ。不協和音のデュオ(二重奏)か。

 ……地上の連中、耳栓を用意しても無駄だってことを教えてやろうぜ」


 ハルが不敵に笑い、コンソールの最終スイッチを叩いた。


「作戦を開始する。目標は、共鳴増幅塔の地下重要拠点ハブ


 ……そこを叩けば、第七居住区のフェイク・レゾナンスを数分間だけ強制遮断できる。


 ……世界をひっくり返しに行くぞ、お二人さん!」


 地下廃棄層の暗闇の中で。

 俺のノイズが、かつてないほど激しく、鋭く爆ぜた。


 偽りの空が赤く燃え上がるまで。

 俺たちの、本当の産声は止まらない。

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