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この世界の感情は全部作られていた ~共鳴しない僕だけが「ノイズ能力」でフェイク・レゾナンスを壊すまで~  作者: ひろボ


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第3話:絶対零度の奏者

「排除、か」


 俺は、血の滲んだ唇の端で、乾いた笑いを漏らした。


 共鳴疲労で膝が笑い、指先はまともに動かない。精神エネルギーはほぼ底をついている。まともに戦える状態ではないことは、俺自身が一番よく分かっていた。


 だが。


「お前に……俺の心が、消せるのか」


 俺は冷たい壁から背中を剥がし、震える足に力を込めた。


 神崎ミナ。


 音響デバイス『調律のかなで』を水平に構えたまま、彼女は微動だにしない。銀糸の髪が、路地裏に吹き込む乾いた風に揺れている。その瞳だけが、石のように静止していた。


「感情論は結構です。朝霧レン」


 ミナの声は、鉄板の上に雪が積もるような、奇妙な静けさを持っていた。


「あなたの放つノイズは、今日だけで第七居住区のフェイク・レゾナンス出力を三十二パーセント低下させました。このまま放置すれば、都市機能の根幹が揺らぐ。……それは、何万人もの市民の生活を脅かすことと同義です」


「脅かす?」


 俺は、かすれた声で問い返した。


「あいつらは今、『生活』してるのか。飯を食って、笑って、眠って……それが全部、頭に流し込まれた偽物の信号で動いてるだけなのに。お前はそれを、守ると言うのか」


「……システムが人々を管理しているのは事実です」


 ミナは一瞬だけ、目を細めた。だが、デバイスの銃口はズレなかった。


「しかし、現状を維持することが、最も多くの人間を傷つけないための正解だと、私は判断しています」


「正解」


 俺は、その言葉を舌の上で転がした。酸っぱくて、吐き気がした。


「お前はずっと、その『正解』を鳴らし続けてきたのか。誰かの心を叩き潰しながら、それが正しいと信じて」


「……」


 ミナの指が、トリガーの上でわずかに止まった。


 ほんの一瞬。コンマ数秒にも満たない、微細な静止。


 だが俺は、それを見逃さなかった。


(迷ってる)


 確信した瞬間、俺は右足を力任せに地面へ叩きつけた。


「まだ終わらないぞ……!」


 バチィッ!


 指先に残った最後の粒子を振り絞り、足元のアスファルトへ向けて黒い衝撃を叩き込む。爆発的な衝撃が路地裏の粉塵を巻き上げ、視界が白く霞んだ。


 煙幕代わりの爆砕。


 俺はその一瞬を使い、ビルの壁を蹴って斜め上へと跳んだ。二階の非常階段の手すりに指が引っかかる。全身の筋肉が断末魔の悲鳴を上げたが、構わず体を引き上げた。


「無駄です」


 粉塵が晴れた先で、ミナは動いていなかった。


 彼女はデバイスを下げ、代わりに左手をゆっくりと空中へ持ち上げていた。その細い指先が、かすかな弧を描く。


 その瞬間。


 ドゴォォォン!!


 音が、見えた気がした。


 空気が圧縮され、目に見えない巨大な壁となって、俺の体に正面から叩きつけた。非常階段の手すりを掴んでいた指が、力任せに剥がされる。体が宙を舞い、対面のビルの壁面に激突した。


「ごはっ……!!」


 肺の中の空気が、一瞬で消し飛んだ。


 背中から地面へと落下し、赤黒い粉塵の中に沈む。


「……っ、は……」


 起き上がろうとした。だが、腕に力が入らない。視界が暗転しかける。


『ソニック共鳴』。


 大気中の音波を自在に操り、圧縮した空気を物理的な衝撃へと変換する能力。あの一撃は、デバイスすら使っていない素の出力だ。


(こいつ……本当に規格外だ……)


 靴音が近づいてくる。


 俺は両手を地面に押し当て、奥歯が割れるほど噛み締めながら、震える膝をなんとか立て直した。惨めでも、情けなくても。立っている間は、まだ終わっていない。


「……俺は」


 掠れた声が、勝手に口から流れ出た。


「十年前、家族を目の前で失った。血の海の中に立って……一度も泣けなかった。怒れなかった。悲しめなかった。俺の脳はずっと、感情の外にあった」


 ミナの足が止まる。


「でも今日、あの男子生徒の叫びを聞いた時。本物の感情を踏みにじられた時……俺の中で、何かが壊れた」


 俺は、右手を持ち上げた。黒い粒子は、もう一粒も残っていない。ただの血と泥で汚れた手が、そこにあるだけだ。


「これが俺の答えだ。偽物の平和に、俺は絶対に頷かない。それだけだ」


 沈黙が落ちた。


 路地裏の遠くで、サイレンが鳴り響いている。上空のホログラムが赤く明滅し、俺の顔写真を繰り返し映し出している。


 ミナは動かなかった。


 デバイスを構え直すことも、距離を詰めることも、引き金を引くことも、何もしなかった。


 ただ、透き通った銀色の瞳で、俺の右手を、まるで初めて未知の生物を見たかのような目でじっと見つめていた。


「……朝霧レン」


 彼女の声が、ほんの僅かだけ、音程を変えた。


「あなたは今、全力でこの世界に抗った。その波形は……今まで私が観測してきたどんな共鳴とも、全く違う形をしていました」


「何が……言いたい」


「ただのノイズではない。嘘のない、本物の感情の波だということです」


 ミナは目を伏せた。その長いまつ毛の影が、路地裏の薄い光の中でひどく揺れた。


「……私は、調整局に入局した時、こう言われました。『音は人を幸せにするためにある』と。だから、その力を国のために使えと」


 彼女の細い指が、デバイスのグリップをきつく握り直す。


「でも、私がこれまで鳴らしてきた音は……本当に人を幸せにするためのものでしたか。誰かの叫びを、怒りを、悲しみを、ただ黙らせるためだけの音だったのではないですか」


 問いかけは、俺にではなく、自分自身に向けられているようだった。


「私自身の能力……『ソニック共鳴』も、本当は、暴動を鎮圧して誰かを傷つけるための力なんかじゃなかった。……私はただ、本当の音を鳴らしてみたかっただけなんです」


 その言葉が、ポツリと路地裏の冷たい空気に落ちた。


 白い制服の少女の横顔に、政府の猟犬として長年自分の感情を殺し続けてきた者の、ひどく不器用で、痛ましいほどの純粋さが滲み出ていた。


 ミナは顔を上げ、俺を正面から見据えた。


「……私には、まだ答えが出ていません。でも」


 デバイスの銃口が、ゆっくりと地面へ向いた。


「今ここでその問いから目を逸らしたまま、あなたを黙らせることは……私にはできません」


「……お前、それを言ったら」


「ええ。私も逃亡者になります」


 ミナは短く、はっきりと答えた。


「構いません。もともと、正解だと思っていない仕事でした」


「なんだと? 貴様、システムに反逆する気か!」


 背後の部隊長が腰のスタン・バトンを引き抜き、ミナの背中へ向かって乱暴に歩み寄る。


 だが、ミナは微塵も怯まなかった。


 下げていた巨大なデバイスを、再び水平に構え直した。


 ――あろうことか、味方であるはずの、調整局の隊員たちに向けて。


「フェイク・レゾナンス……。人工的に波形を整えられ、無理やり作られた、気持ちの悪い『幸福』の音」


 ミナの言葉に合わせて、彼女の周囲の空気がキリキリと悲鳴を上げ始める。


「私は。そんな偽物の調和を守るために、自分の能力を使い続けたくは、ありません」


「撃て! 神崎ミナを制圧しろ!!」


 部隊長が絶叫し、数人の隊員が一斉にパルスガンを構えた。


 遅い。


「出力、60%。――不協和音を、排除します」


 ドゴォォォォォォォォォォン!!!


 限界まで圧縮し、鋭く一点に収束された『音の散弾』。


 目に見えない無数の空気の弾丸が、狭い路地裏の壁や地面で複雑に乱反射し、隊員たちの体をあらゆる死角から次々と打ち据えた。


「ぎゃああっ!」

「ぐおっ……! 波形が……崩れる……っ!」


 強烈な衝撃波を浴び、彼らの腰に装着されていた共鳴安定装置が次々とショートして火花を散らす。


 三半規管を破壊する不快音と共に、隊員たちが糸の切れた操り人形のように、次々とアスファルトの地面に崩れ落ちていった。


 殺してはいない。


 だが、彼らの意識だけを正確に刈り取る、精密極まりない暴力。


(なんだ、この圧倒的な力は……)


 俺は、息を呑んだ。


 彼女は、この狂った都市の異常性にずっと前から気づきながら。


 たった一人で、自分の心を殺し、冷徹なシステムの一部を演じながら、この組織の中に潜み、耐え続けていたのだ。


 そして今。


 俺の放った『ノイズ』を見て、遂に。


 自分を偽ることを、やめた。


 静寂が戻った、薄暗い路地裏。


 倒れ伏す共鳴調整局の隊員たちを背に、銀髪の少女は熱を持ったデバイスをゆっくりと背中に回した。


 そして、俺の目の前まで歩み寄り、白く、ひどく華奢なその手を、真っ直ぐに差し出してきた。


「……立てますか?」


 その瞳の奥には、システムに作られた『偽物の秩序』の光は、もう欠片も宿っていない。


 都市の異常に気づき、たった一人で孤独に耐え続けてきた少女の、泥臭くて、美しい、本物の感情の揺らぎだった。


 その時だった。


 バチバチバチィッ!!


 路地裏の監視カメラが一斉に火花を散らし、上空のドローンのセンサー光が乱れて激しく明滅を始めた。


『――よう、二人とも。感動の再会のところ悪いが、お時間だぜ』


 右耳の通信端末から、ノイズ混じりの生意気な声が直接脳に響いた。


『レゾナンスAIの監視リンクを六十秒だけ切った。その間に動け。背後のマンホール、今すぐ開ける』


 ガコンッ。


 俺たちの背後で、赤錆の浮いた重厚な鉄のマンホールの蓋が、鈍い音を立てて数センチだけ持ち上がった。


「行きましょう」


 ミナが、躊躇うことなく俺の血に塗れた腕を掴み、自分の華奢な肩へと回させた。


「地下へ。……あの声の主のところへ」


 遠くから、再び甲高いサイレンの音が近づいてきていた。


 隙間から見える空の巨大ホログラムには、俺の顔写真だけでなく、ミナの顔写真までが、真っ赤な『システムへの反逆者エラー』としてデカデカと映し出され始めている。


「お前、後悔しないか……?」


 マンホールの梯子に足をかけながら、俺はミナの横顔に問うた。


「偽物の日常なんて。――最初からいりません」


 それは、システムによって計算された、あの気味の悪い笑顔ではない。


 ひどく不器用で、いびつで、でも。


 彼女自身の意志で咲かせた、本物の笑顔だった。


 ガチャン、と重い鉄の蓋が内側から閉められる。


 その瞬間。


 地上の喧騒も、不気味なサイレンの音も、息苦しい空気も。


 すべてが、分厚い鉄とコンクリートによって、完全に遮断された。


 *


「……お前ら、今すぐ動ける状態か?」


 暗闇の底で、ハルの通信が耳元に響いた。珍しく、その声に緊張の色がある。


「どういうことだ」


「ハッキングで時間を稼いでいる間に、レゾナンスAIが俺たちの居場所を絞り込みにきてる。……ここから先に、もう一つ深い層がある。俺が本当に使っている拠点だ。そこへ向かえ」


「見せなきゃならないものがある、って言ってたな」


「ああ。……この街の平和が、何の上に立っているのかってことをな」


 ハルの声は、いつもの軽薄な響きを完全に失っていた。


 俺とミナは顔を見合わせ、無言で暗闇の奥へと足を踏み出した。

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