第2話:漂白された街
肺が焼ける。
吸い込む空気の一点一点が、熱く熱せられた砂粒のように気管の粘膜を無慈悲に削り取っていく。
校門を突き破り、無機質なアスファルトを蹴って、俺はひたすら走り続けていた。
背後からは、何十台もの装甲車が発する、神経を逆撫でするような甲高いサイレンの音が、巨大な波となって迫っている。
空を覆う極彩色のホログラムは、俺の逃走ルートを先回りするように、どす黒い赤色で『最重要排除対象』の文字列を明滅させていた。
「ハァッ、ハァッ……、がふっ……!」
喉の奥からせり上がってきた生温かい鉄の味を、無理やり飲み込む。
足は濡れた泥を吸ったスポンジのように重く、地面を蹴り上げるたびに、悲鳴を上げる足首の関節から脳天へと、鋭利な杭を打ち込まれるような鈍い痛みが突き抜けた。
だが、そんな肉体的な疲労など、今の俺には取るに足らない問題だった。
もっと深刻で、もっと致命的なダメージが、俺の細胞を内側から食い破ろうとしている。
「あ、頭が……っ!」
ズキリ、と。
脳髄のど真ん中を、赤く焼けた太い鉄の釘で直接貫かれたような、強烈で不快な痛みが走った。
視界が、水に落とした濃いインクのようにぐにゃりと歪む。
路地裏に積み上げられた廃棄コンテナも、壁の配管も、すべてが二重、三重にブレて重なり合い、世界のピントがまったく合わない。
三半規管が狂い、強烈な吐き気が胃袋の底から食道を通ってせり上がってくる。
これが、能力を限界を超えて引き出したことによる代償。
『共鳴疲労』。
人間の精神エネルギーを物理的な力に変換するレゾナンス能力は、使用者のシナプスに多大な負荷をかける。
ましてや俺はさっき、学校の中庭で。フェイク・レゾナンスという名の巨大な網を打ち砕くために、文字通り全開の『不協和音』を解放してしまった。
その過剰な出力の反動が今、俺の脳神経をショートさせ、内側からドロドロに焼き切ろうとしているのだ。
「動け……っ。ここで止まったら、本当に……殺される……」
俺は、壁に押し当てていた手のひらに力を込め、血の滲んだ指先で強引にコンクリートを突き放した。
*
カビ臭い路地を抜け、眩しい光の差し込む大通りへと飛び出す。
そこは、市民の住宅や商業施設が規則正しく立ち並ぶ、見慣れたはずの第七居住区のメインストリートだった。
ゴミ一つ落ちていない真っ白な歩道。
寸分違わぬ間隔で配置された街灯。
計算し尽くされた彩度の街並み。
だが、その無菌室のような光景は、今の俺には背筋が凍るほどの『底知れぬ恐怖』でしかなかった。
『緊急手配。コードネーム・ノイズ。対象は極めて危険な共鳴異常を引き起こしています。市民の皆様は、穏やかな波形を維持してください』
通り沿いのあらゆるデジタルサイネージ、そして空を塞ぐ巨大ホログラム。
そのすべてに、瞬きもしていない俺の無表情な顔写真が、真っ赤な警告色とともに映し出されている。
上空では、黒光りする監視ドローンが獲物を探すハゲタカのように飛び回り、血走った赤いセンサー光を地上へ向けて忙しなく瞬かせている。
それなのに。
街を行き交う市民たちの反応は、あまりにも「静か」だった。
「あら、今日はなんだか騒がしいわねぇ」
オーガニック野菜の袋を提げた主婦が、俺の顔写真がデカデカと映るモニターを見上げながら、のんびりとした声で呟いた。
彼女の目の前を、血を流した俺が肩を上下させて通り過ぎようとしているのに。
彼女の顔には、慈愛に満ちた、気味の悪いほど穏やかな微笑みが貼り付いている。
「システムの定期調整が入っているんだろう。こんな日も素晴らしい共鳴を維持するために、調整局の人たちも大変だね」
仕立ての良いスーツを着たサラリーマンが、ドローンから照射される異常な赤い光を全身に浴びながら、一切の淀みないトーンで隣の同僚に語りかけた。
同僚もまた、分度器で測ったように同じ角度で頷き、穏やかに口角を上げている。
彼らは、逃げない。
誰一人として、怯えない。
この異常な状況に、ほんの僅かな疑問すら持たない。
フェイク・レゾナンスの微弱な信号によって、彼らの脳は「恐怖」や「違和感」という回路を強制的にバイパスされているのだ。
怒りも、パニックも、生存本能すらも奪い取られ、ただシステムにとって都合の良い「電池」として生かされているだけの、漂白された笑顔の群れ。
「……狂ってる」
背筋を、巨大なムカデが這い上がるような強烈な悪寒が駆け抜ける。
ふと、道端で母親と手を繋いでいた幼い少女と目が合った。
彼女は、血塗れの俺を見て悲鳴を上げる代わりに、首を傾げ、お気に入りの人形で遊ぶような無邪気さで微笑みかけてきた。
「お兄ちゃん、波形が汚れてるよ。早く調整してもらうといいよ」
鈴を転がすような、あまりにも清浄で、あまりにも残酷な声。
俺は吐き気を押し殺し、彼ら「人間だったもの」たちの視線から逃れるように、再び裏路地の暗がりへと身を隠した。
こんなものが、平和だと言うのか。
心を麻酔で眠らされて、自分で何かを感じることも許されない。
それがお前たちの言う『幸福』だと言うのなら、俺はそんな世界、絶対に認めない。
『――ターゲット、第4ブロックの裏路地にて捕捉。排除プロセスへ移行』
突然、頭上から氷柱を突き刺すような無機質な電子音が降ってきた。
「しまっ……!」
見上げれば、ビルの隙間から三機のドローンが、赤いカメラアイを不気味に瞬かせて俺を見下ろしていた。
音もなく高度を下げ、その下部にあるデバイスがジリッ、と空気を焦がす予兆音を鳴らす。
ジジジジッ!!
放たれたのは、青白い高出力のパルスレーザー。
俺が咄嗟に真横へ跳んだ直後、コンマ数秒前まで足があった場所のコンクリートがドロリと溶解し、黒く焦げた悪臭を放った。
直撃していれば、足首から先が炭化して消し飛んでいた。
「くそっ……、しつこいんだよ……!」
俺は、壁に背中を打ち付けながらも、右手を頭上へと振りかぶった。
再び、脳髄をハンマーで直接叩き潰されるような激しい頭痛。
意識が途切れそうになる。
膝がガクガクと震え、立っていることすらままならない。
(来い……っ!!)
俺は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、指先に意識を集中させた。
偽りの共鳴を破壊し、システムの波を削り取る『ノイズ共鳴』の力。
真っ黒な稲妻のような粒子が、俺の右手にバチバチと音を立てて集束していく。
「落ちろぉぉぉっ!!」
俺は、掌に集めた黒いノイズの塊を、頭上のドローンへ向けて全力で放り投げた。
バチィィィン!!
漆黒の波形が空中で一機に直撃する。
フェイク・レゾナンスの干渉波を叩き壊すために生まれた俺のノイズは、ドローンの精密な電子回路を一瞬で狂わせた。
「ピィィィィッ!」というエラー音と共に、火花を散らした鉄の塊が、ビルの壁面に激突して粉々に砕け散った。
だが、残りの二機は仲間が破壊されたことなど意に介さず、すぐさま無機質な動きでフォーメーションを組み直し、路地裏の出口へと回り込んだ。
俺の逃げ道を完全に塞ぐ。
赤いセンサー光が、俺の胸元を正確にロックオンした。
(……くそっ、限界だ……)
右手の指先から、黒いノイズの粒子がパラパラと零れ落ち、力なく消えていく。
精神エネルギーは、最後の一滴まで枯渇していた。
袋小路。逃げ場のない、薄暗いコンクリートの壁。
この完璧に管理されたネオ・トーキョーという名の檻の中で、システムから逃げ切ることなど、最初から不可能なゲームだったのか。
俺は、ひどく荒い息を吐きながら、冷たい壁に背中を預けた。
意識のピントが、大きくズレては戻る。
その時だった。
カツン。
カツン。
狂ったように鳴り響くサイレンの音を切り裂いて。
異常なほどに規則正しく、冷徹で、氷のように硬い靴音が。
袋小路の入り口から、ゆっくりと、こちらへ向かって響いてきた。
一歩、また一歩。
その靴音が近づくたびに、路地裏の湿った空気が、物理的な重圧を伴って凝固していく感覚。
ドローンたちの駆動音が小さくなり、まるで主を迎える臣下のように、俺へのロックオンを維持したまま後退していく。
暗がりの中から現れたのは、白い制服に身を包んだ、銀髪の少女。
神崎ミナ。
胸元のエンブレムが目に入った。共鳴調整局、第三部隊。……あの学校で俺に銃口を向けた、あの少女だ。
彼女の手に握られた巨大な音響デバイス『調律の奏』が、周囲のホログラムの残光を受けて、鈍い銀色の輝きを放っている。
彼女の瞳には、一切の熱も、揺らぎもなかった。
ただ、壊れた部品を淡々と処理するエンジニアのような、冷酷なまでの「正解」だけがそこにあった。
「朝霧レン。……捜索に、予定以上のリソースを費やしました」
彼女が静かに、デバイスを水平に構える。
その動作一つ一つが、システムの計算通りに、無駄なく、美しく完結していた。
俺の全身の細胞が、彼女の放つ圧倒的な『秩序』の波動に触れ、悲鳴を上げる。
「あなたの放つ不協和音は、この都市の最適化された社会システムにとって、明白なバグ。……ここで排除します」
その声が、俺の死刑宣告のように、冷たく、そしてどこまでも平坦に響き渡った。
俺は、血の滲んだ拳を握りしめ、彼女を睨みつけた。
意識が遠のく中、俺の耳の奥には、自分自身の心臓が打ち鳴らす、不格好で激しい鼓動だけが、意地を張るように響き続けていた。




