第1話:不協和音(ノイズ)の産声
その空には、一片の汚れも、一筋の迷いもなかった。
西暦二一四五年、巨大都市ネオ・トーキョー。
頭上に広がる空は、一年三百六十五日、完璧なコバルトブルーに塗り潰されている。
地平線から湧き上がる積乱雲の白さも、網膜を心地よく刺激する太陽の輝度も、すべてが計算し尽くされた黄金比の中にあった。
空を塞ぐ極彩色のホログラムが、『幸福指数一〇〇%』という無機質な文字列を常に網膜に焼き付けてくる。
風は一定の湿度を保ち、街路樹の葉が揺れる音さえも、人々の精神を安らげるための「環境音楽」として、コンマ一秒単位で最適化されていた。
街を行き交う人々は、例外なく、穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
肩がぶつかれば互いに深く謝り、困っている者がいれば見知らぬ誰かが即座に手を差し伸べる。
罵声も、悲鳴も、ましてや不快な舌打ちの音さえも、この「白亜の揺りかご」の中には存在しない。
ここには、人類が数千年の血塗られた歴史の中で追い求めてきた「完璧な平和」が、完成されたシステムとして、揺るぎなく構築されていた。
(……反吐が出る)
ネオ・トーキョー、第七居住区。
第一教育特区に位置する公立高校の教室で、俺――朝霧レンは、外界を拒絶するようにヘッドホンを深く被り直した。
高性能のノイズキャンセリング機能を備えたそれは、あらゆる雑音を九十九パーセント遮断するはずの、高価な代物だ。
だが、それでも「それ」は、逃げ場のない毒のように鼓膜へ忍び込んでくる。
キィィィィィィィィィィィン……。
脳髄を直接ヤスリで削り取られるような高周波。
それは、都市全域に張り巡らされた感情統治システム『フェイク・レゾナンス』が奏でる、強制的な「幸福の旋律」だ。
この街では、都市インフラを稼働させる電力の約七十パーセントが、人間の感情共鳴――『レゾナンス』によって賄われている。
腹の底からの喜びは高出力の電圧へと変換され、波風の立たない安らぎは都市機能を維持するための安定した周波数を生む。
故に、国民には常に『正しい感情』を維持し続けるという、絶対的な義務が課せられていた。
「――諸君。感情とは単なる個人の主観ではない。それはこの都市の心臓を動かす、最も清浄で高純度なエネルギー資源だ」
教卓の教師が、あらかじめプログラムされた音声を再生するスピーカーのように、規則正しく口を開閉する。
周囲のクラスメイトたちは、全員が分度器で測ったように同じ角度で背筋を伸ばし、一様に穏やかな微笑みを浮かべていた。
欠伸を噛み殺す者も、窓の外を眺める者もいない。
プラスチックのマネキンのような、完璧にデザインされた『穏やかさ』。
だが、俺にはそれが、何百万という人間たちの首に巻き付き、一つの巨大な脳髄へと繋ぎ止めている、おぞましい『見えない鎖』のようにしか見えなかった。
俺が、この世界の異常性に気づいたのは、十年前。
西暦二一三一年の『共鳴事故』。システムが暴走し、制御を失った人々の『負の感情』が、街を焼き尽くした地獄絵図。
俺の家族は、その渦中で肉塊へと変わった。
なのに、なぜか、俺だけは。
血溜まりの中に立ち尽くしたまま、ただの一度も、瞬きすらしなかった。
恐怖も、怒りも、悲しみも。
俺の脳だけは、まるで分厚い防音ガラスの向こう側から映画を眺めているかのように、恐ろしいほど鏡のように静まり返っていた。
以来、俺の脳は、この都市の『レゾナンス』のネットワークから完全に弾き出された。
フェイク・レゾナンスがもたらす「偽りの幸福」は俺のシナプスを素通りし、代わりに、世界がひた隠しにする醜い不協和音だけが、耳の奥にこびりついて離れなくなったのだ。
「……っ」
今日の『フェイク』の波長は、いつも以上に不自然だ。
今にも千切れそうな危うい均衡。
その時だった。
「うあああああああああああああ!!」
階下の中庭から、獣のような絶叫が響き渡った。
教室内が、水を打ったように静まり返る。
だが、三十人の生徒たちの反応は、驚きではなく「検知」だった。三十個の頭部が、一斉に廊下へと傾く。
「不協和音検知……かな?」
感情の欠落した声が重なる。
俺は椅子を蹴り倒し、中庭へと駆け出した。
そこには、一人の男子生徒が四つん這いで地面に這いつくばり、自分の側頭部を拳で何度も殴りつけていた。
「やめろ……消せ! 頭の中に流し込むな! 俺は……俺はあいつを、許してないんだぁぁ!!」
地面に叩きつけられる額から、生々しい血の匂いが漂う。
この世界では、怒りは治療すべき『病』であり、憎しみは『大罪』だ。
空を覆っていたホログラムが、一瞬にして鮮血の赤に染まった。
『警告。共鳴異常を検知。直ちに感情調整を開始します』
屋上の縁から五機のドローンが急降下し、レンズが紫色に発光する。
兵器――『強制鎮静パルス』。
「あ、が……あ、あああああ……っ!!」
滝のような紫の光を全身に浴びた男子生徒が、落雷に打たれたように体を反らせる。
数秒後、光の照射が止むと、彼はゆらり、と立ち上がった。
「……あ。すみません。少し、体調が乱れていたようです。もう大丈夫、幸せです」
口角を不自然に釣り上げ、彼は微笑んだ。
瞳の奥には、ハイライトも意志も、何一つ残っていない。
「……ふざけるな」
俺の喉の奥から、乾いた声が漏れた。
「おい、お前ら! これがおかしいと思わないのか!? 彼は、たった今、自分自身の心を殺されたんだぞ!!」
中庭を囲む生徒たちへ咆哮する。
だが、返ってくるのは「調整が必要だ」という、薄っぺらい憐憫の眼差しだけ。笑顔の群れが、俺を『正解』へと押し込めようと迫り来る。
(……ああ、そうか。この世界そのものが、一つの巨大な『嘘』なんだ)
その瞬間。
十年間、分厚い氷の下で眠り続けていた『何か』が、臨界点を突破した。
キィィィィィィィィィィィィィィィィィン!!
脳血管が弾け飛びそうな耳鳴り。
俺の細胞に蓄積されていた「世界への違和感」が、真っ黒なエネルギーとなって全身を駆け巡る。
「……触るな。俺の心を、勝手に触るなぁぁぁぁぁ!!」
ドォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!
俺の体を中心に、放射状に爆ぜた『黒い衝撃波』。
それは感情の波でありながら、周囲に満ちるあらゆる波を殺す、絶対的な拒絶の振動。
バリバリバリィッ!!
ドローンがショートして弾け飛び、衝撃波は生徒たちの脳を保護していた『膜』をズタズタに引き裂いた。
「……怖い。なんで私、あんなに笑ってたの……?」
「俺……何を……」
膝をついた彼らの瞳に、困惑、恐怖、後悔が浮かび上がる。
不完全で醜い、だが間違いなく血の通った『本物の心』。
「……見つけたわ。社会のバグ」
不意に、大気を急速冷凍するような声がした。
校門の鉄柵をひしゃげさせ、黒塗りの重装甲車が乗り捨てられていた。
その車体の上に、一人の少女が立っている。
銀色の髪、軍服調の制服。
一切の温度を持たない瞳。
「共鳴調整局、第三部隊所属。神崎ミナ」
彼女が異形のデバイスをこちらへ向けた。
「あなたの放った不協和音。――ここで私が『中和』します」
ドォォォォォォォォォォ!!
放たれたのは、空気を圧縮した巨大な質量――『ソニック共鳴』。
俺の放つ黒いノイズが、彼女の暴力的な『正弦波』の前に押し戻されていく。
(強い……! 殺される……!)
背後の噴水が粉々に粉砕され、俺の頬を破片が掠める。
『おい、そこから左の路地裏、地下搬入口へ走れ!』
脳髄に直接響く、見知らぬ少年の声。
『いいから走れ! そのミナって女、本気を出されたら今のあんたじゃ肉片すら残らないぞ!』
俺は足元の砂利を蹴り上げ、黒いノイズを全方位に撒き散らした。
目眩ましの爆発。
その隙に、俺は中庭を飛び出し、入り組んだ居住区の路地裏へと身を投じた。
背後から、大気を切り裂くような鋭いサイレンの音が近づいてくる。
空を覆う巨大なホログラムには、俺の顔写真と共に『最重要排除対象』の文字が躍り始めていた。
「ハァ、ハァ……ッ」
肺を焼くような苦しさと、脳を掻き乱す激しい鼓鳴。
俺の平穏で気持ち悪かった日常は、今、完全に終わりを告げた。
今日、俺は人間としての死を拒絶し、不協和音として、この世界に産声を上げたのだ。




