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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

脚注の名前

作者: 世紀末覇者
掲載日:2026/03/08

論文から名前を消すのは、簡単だ。

選択して、削除して、保存するだけ。

けれど、消された側がそれを許さなかったら——。

研究室を舞台にした短編ホラーです。

※アカハラ/研究不正/立場を利用した性的関係の描写があります。

※カクヨム様でも公開しています


 画面に名前がある。消したはずの名前が。


 蔵前(くらまえ)理沙(りさ)——私の名前は論文ファイルの冒頭にある。筆頭著者。いつもどおり、あるべき場所に、あるべきフォントで。その一行下に、消去済みの文字列がにじみ戻っていた。


 カーソルを合わせる。範囲選択。デリート。


 消える。


 まばたき。


 戻っている。一行だったものが二行になって。


 研究室には私しかいない。窓の外が暗い。いつ暗くなったのかわからない。さっきまで——いつが「さっき」だったか、それも曖昧だった。蛍光灯の管が小さく痙攣して、光の粒が散った一瞬、床の影が不自然に伸びたように見えた。


 画面に目を戻す。名前が六つに増えている。


 水瀬花梨。

 本多詩織。

 藤原七海。

 中条真帆。

 野口響子。

 大庭灯。


 六人。全員、知っている。





 シーツが絡んでいた。


 枕が二つ。右側にはまだ凹みが残っていて、かすかにシャンプーの残り香がある。甘すぎるフローラル。ドラッグストアの、三百円くらいの。花梨の匂い。


 手を伸ばした。指先がシーツの冷えた側に触れて、止まった。温もりはもうない。花梨は夜が明ける前に消える。音を立てずに服を拾い、靴を手に持って玄関を出ていく。同じ研究室の准教授と院生が朝まで一緒にいたと知られれば、壊れるのは花梨の側だ。


 私ではなく、花梨が壊れる。


 その不均衡を、私は一度も正そうとしなかった。


 昨夜のことを思い返す。


 ミーティングの後、研究室に花梨と二人きりになった。他の院生がいなくなると、花梨はいつも少し肩の力を抜く。使い終わったマグカップを流しに運ぼうと立ち上がった——そのとき、私の視界を花梨の手首が横切った。


 白い。細い。実験とキーボードで毎日酷使しているはずなのに、華奢なまま。


 手首を掴んだのは、考えるより先だった。


 花梨の動きが止まった。マグカップが揺れた。中身は空で、こぼれなかった。


 「先生」


 花梨の声。平坦だった。驚いていないのか、驚きすぎて平坦になったのか。


 「——今夜。うちに来て」


 花梨が目を伏せた。睫毛が頬に影を落とした。長い数秒の後に、首が縦に小さく動いた。


 花梨は断らない。来年の三月に修了できるかは、私の判定ひとつにかかっている。二人ともそれを知っていた。知った上で花梨は毎回うなずき、私は毎回、そのうなずきの中に自発的な同意を見出そうとする。


 見出せているのかどうか。


 ——考えない。


 玄関のドアが閉まった。花梨が靴を脱いで、つま先を揃えた。几帳面な子だった。几帳面だから、実験のデータも論文の草稿も美しい。


 ドアが閉まって、二人の距離が消えた。


 花梨は眠ると小さくなる。膝を抱えて、呼吸が浅くなって、こちらの鎖骨のあたりに額を寄せてくる。温かい吐息が首元にかかる。そうすると花梨の顔から——日中の、私の前にいるときの怯えが消えて、ただの二十四歳の寝顔になる。


 それを見ていると、指先から何かがこぼれ落ちていく感覚がある。掴めない。名前をつけられない。朝になれば消える。朝になれば、論文のファイルを開く。


 シャワーの湯を浴びた。鏡の前に立つ。湯気の向こうの自分と目を合わせない。合わせないことに気づかないふりをする。タオルで髪を拭きながら今日の予定を並べた。午前、データの最終チェック。午後、論文の仕上げ。花梨が三ヶ月かけて集めたデータを、私の名前で国際会議に出す。花梨の名前は謝辞にも入れない。いつも迷って、いつも入れないまま提出する。


 ドライヤーの熱風をこめかみに当てすぎた。肌がひりひりした。その痛みが少しの間だけ、頭を空にしてくれた。


 携帯が震えた。暗号化アプリの通知。火曜の取引先——製薬の人間が、第三相試験のデータの「微調整」を依頼してきている。有効性の数値を、承認ラインに届くまで持ち上げる仕事。私のもうひとつの収入源。表の研究費だけでは、この部屋の家賃は払えない。


 返信を打った。指は一度も止まらなかった。


 浴室のドアを閉める前に、排水口を見た。花梨の髪が一本、黒い弧を描いて絡まっている。


 それを見て、胸の底で何かが動いた気がした。確かめなかった。排水口のカバーを閉じた。金属がはまる小さな音が、タイル張りの浴室にやけに響いた。


 以前にも同じものを見た。本多の髪。藤原の髪。六年間で六人。花梨は最新の一人。


 一人一人、研究室を去った。修了できた者もいる。できなかった者もいる。去った後のことを、私は確認しない。





 研究室のデスクで論文ファイルを開いた。


 やるべきことはシンプル。花梨の文体を私の文体に塗り替える。花梨は具体例から論を立てる。私は抽象概念から入る。語順を変え、接続詞を差し替え、段落の配置を組み直す。二時間もあれば、花梨の文章は跡形もなくなる。


 ともあれ、最初にやるのは名前の処理だ。ファイルのプロパティから作成者名を削除。本文中の「水瀬」を検索。一件ずつ確認し、一件ずつ消去する。


 十二ページの末尾に脚注があった。


 番号のない脚注。小さなフォント。ページの最下段に、見落としそうなほど小さく——


 「本稿の基礎データは水瀬花梨の未発表研究に基づく」


 選択。削除。保存。


 缶コーヒーを買いに廊下に出た。自販機に硬貨を入れる。ボタンを押す。缶が落ちる音が廊下に反響した。他に誰もいなかった。


 戻ると、画面がスリープから復帰していた。論文ファイルが開いている。閉じたはずの。


 十二ページの末尾。脚注が戻っている。


 一行長い。


 「本稿の基礎データは水瀬花梨の未発表研究に基づく。また本多詩織修士論文第三章の成果を含む」


 本多——三年前の院生。花梨の前に、同じように——


 缶コーヒーが急に冷たい。デスクに置いた。結露が木目に丸い染みを作った。


 削除。保存。ファイルを閉じる。開き直す。


 三行。藤原七海の名前が加わっている。





 蛍光灯が鳴った。


 画面は——もう論文のファイルではなかった。


 全ページの余白を文字が埋めている。脚注が本文を食い破り、マージンを越え、ヘッダーを潰し、図表の上を這い、参考文献リストを飲み込み、ページ番号を上書きしていた。


 水瀬花梨。本多詩織。藤原七海。中条真帆。野口響子。大庭灯。


 六つの名前だけで構成されたテキストが、ファイルのあらゆる余白を侵食していた。


 キーボードが応答しない。マウスが動かない。電源ボタンを長押ししても画面が落ちない。


 名前が動いた。


 文字の形を保ったまま、画面の表面を滑りはじめた。流動している。字画がほどけ、線が分離し、再びつながり、もとの配列とは違う何かに組み上がる。日本語ではなくなっていた。何語でもなかった。文字のように見えるだけの何かが、脚注の位置から溢れ出し、画面の枠へ向かって膨張していく。


 枠を越えた。


 ディスプレイの縁から、文字がデスクの天板に滲み出している。液晶の物理的な境界を無視して、木の表面を這っている。影に似ていたが、光源との対応がない。インクに似ていたが、拭きとれる質感ではなかった。触れていないのにわかった。触れてはいけないと、体のどこかが知っていた。


 椅子を蹴って立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。


 音がしない。


 蛍光灯の唸りも。空調のノイズも。窓の外の車の音も。全部が同時に消えていた。


 無音。


 無音の研究室の中で、六つの名前が壁を昇っている。


 天板から壁へ。壁から天井へ。天井から反対側の壁へ。文字が這い回って空間を覆い、やがて——立ち上がった。


 二次元だった文字列が三次元の構造を持ちはじめた。壁から突出し、天井から垂れ下がり、床から隆起する。名前と名前が接合し、字画が骨組みになり、筆順の方向が軸になり——


 描写する言葉がない。


 それは人間ではなかった。動物でもなかった。幾何学で記述できる形状でもなかった。六人の名前の文字列で構成されているのに、全体像を視覚が処理できない。目で捉えているのに、脳が受け取りを拒否する——拒否しているのではない。受け取るための枠が存在しないのだ。


 名前のない色が発光していた。光として認識できるのに、何色か言えない。可視光のスペクトルのどこにも対応しない波長。私は研究者だ。ものを測定し記述する訓練を何年も受けてきた。そのすべてが機能しなかった。


 目が閉じない。「閉じる」という運動の選択肢が、蒸発していた。


 声を出そうとした。口が開く。喉が動く。空気が声帯を通過する。


 音にならない。


 六年間、他人の名前を消してきた。花梨の言葉を消した。本多の主張を消した。藤原の成果を消した。中条の名前を消した。野口の抗議を消した。大庭が机に残したメモの「もう限界です」という一行を消した。消して消して消して、私の声だけが通る空間を作ってきた。


 いま、私の声は、通らなくなった。


 それ(・・)が近づいた。距離が縮まったのか、膨張したのか、空間自体が折り畳まれたのかわからない。六つの名前で編み上げられた理解不能の構造体が、私の目の前にある。


 構造体の一部が私の腕に触れた。


 触れた瞬間——花梨の指先がフラッシュバックした。細くて、少し冷たくて、いつもためらいを含んだ指先。夜、こちらの体に触れるとき、花梨の指は許可を求めるように震えていた。


 いま私に触れているのは花梨ではない。花梨の名前を含んだ何かだ。七画の「花」と十一画の「梨」と——人間の指の形をしていないもので、私に触れている。


 皮膚の表面から文字が浸透していく感覚。名前が真皮を通過し、筋繊維に到達し、骨膜に染み込む。痛みはなかった。痛みよりもっと根源的な——存在の輪郭が溶けていく感覚。


 ああ——これは査読だ。


 そう思った。


 私の人生が査読にかけられている。筆頭著者としての正当性を問われている。六人の査読者が、私が六年かけて踏みにじった六人が——


 リジェクト。


 棄却。掲載不可。著者資格の剥奪。


 論文から私の名前が消えていく。学会のデータベースから消える。大学の人事ファイルから消える。花梨がどんな顔で毎朝目を覚ましていたか、わかった。本多がどんな気持ちで退学届を書いたか、わかった。


 遅い。何もかも遅い。わかったところで、私は何ひとつ変えなかっただろう。花梨の手首を掴んだまま離さなかっただろう。この自覚すら、自分の身に報いが降ってから絞り出したものにすぎない。


 構造体が視界を埋めた。六つの名前が空間を埋めた。


 私の輪郭から名前が剥がれていく。名前の文字が肌に浸透し、骨に到達し、


 「蔵」の字がほどけ、


 「前」が溶け、


 「理」が


 「沙」 が



 私、が



 思考の 主語が消えている



 花梨が あの朝 ベッドの冷たい側に残していった温度の


 記憶すら



 引用元がなくなれば


 引用は成立しない



 筆頭著者のいない論文が


 ここに

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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