マイクと決断
部屋の明かりは、スタンドだけ。
時計は、もう日付が変わっていた。
神無は床に座り、背中をベッドに預けている。
膝の上には、黒いケース。
開けると、見慣れたマイクがそこにあった。
事務所の備品。
自分用に調整された一本。
久しぶりに見る気がした。
指で、そっと持ち上げる。
金属の冷たさが、手のひらに残る。
「……重いな」
実際の重さより、ずっと。
電源は入れない。
ケーブルも繋がない。
ただ、握るだけ。
喉が、無意識に動いた。
息を吸う。
音は、出さない。
出せない。
頭の中に、万里の声が浮かぶ。
笑って、ふざけて、無茶なキーで歌っていた、あの声。
――お前さ、歌うときだけ本気になるよな。
言われた言葉。
否定できなかった。
「……今は、無理」
誰もいない部屋に、低く落とす。
マイクを口元に近づけて、止める。
一歩、手前で。
睦月の言葉が、遅れて思い出される。
『休め。逃げてもいい』
神無は、マイクを胸に引き寄せた。
歌わない代わりに、呼吸だけを整える。
四つ数えて吸って、六つ数えて吐く。
それを、何度か。
少しだけ、喉の奥の硬さが解けた気がした。
歌わない。
でも、放さない。
今は、それでいい。
マイクをケースに戻す。
静かに、蓋を閉める。
パチン、という音が、やけに大きく聞こえた。
電気を消す前に、神無は小さく呟く。
「……まだ、終わってないよな」
答える声はない。
それでも、その夜は、マイクを“捨てなかった”という事実だけが残った。
午前十時。
事務所の会議室は、相変わらず無駄に広かった。
神無は、長机の端に座っている。
正面には、竹下社長。
隣に、マネージャーが一人。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、竹下社長だった。
「単刀直入に言うよ」
書類を一枚、机に置く。
「今後の進路を、決めてほしい」
紙の上には、三つの項目が並んでいる。
一、活動再開(段階的)
二、長期休養(期限なし)
三、契約解除
神無は、視線を落としたまま動かない。
「君を急かすつもりはない」
竹下社長の声は、淡々としていた。
「でも、宙ぶらりんの状態を続けるのも、君の首を絞める」
正論だった。
マネージャーが、静かに続ける。
「世間は、戻ってくると思ってます。沈黙も、ひとつのメッセージになる」
神無は、ゆっくり息を吸った。
「……俺に、選択肢はあるんですか」
「ある」
即答だった。
「だから、今日は“決めろ”じゃない」
竹下社長は、神無を真っ直ぐ見る。
「“選べ”だ」
神無は、書類を指でなぞる。
再開。
休養。
解除。
どれを選んでも、何かを失う。
「期限は?」
「一週間」
短い。
だが、無理な数字ではない。
「条件を付けてもいい」
その一言で、神無は顔を上げた。
「条件?」
「例えば」
竹下社長は、少し間を置く。
「“歌わない活動”から始める、とかね」
神無の喉が、かすかに鳴った。
「……そんなの、意味ありますか」
「あるよ」
竹下社長は笑わなかった。
「君が、歌うためだけの人間じゃないって、示せる」
沈黙。
神無の脳裏に、昨夜のマイクが浮かぶ。
握っただけで、歌わなかった夜。
「……持ち帰って、考えます」
「もちろん」
竹下社長は、書類を戻した。
「決断は、君のものだ」
会議室を出たあと、廊下で足が止まる。
スマホを取り出し、睦月の名前を見る。
まだ、何も送らない。
けれど。
決断は、思ったよりも静かに訪れた。
竹下事務所のロビーは、昼下がりの光が差し込んでいるだけで、人の気配はほとんどなかった。
神無は、受付前のソファに腰を下ろし、スマホを握ったまま動けずにいた。
一週間の期限。
だが、答えはもう決まっていた。
画面に表示された名前を見て、短く息を吐く。
「……出るか」
通話ボタンを押す。
『もしもし』
聞き慣れた、少し掠れた声。
「決めた」
『うん』
急かさない返事が、逆に重かった。
「再開する」
沈黙。
ほんの数秒。
だが、長く感じた。
『条件付き?』
「条件付き」
神無は、天井を見上げる。
「歌わない」
『……それでいいの?』
「いい」
即答だった。
「今の俺が、歌ったら壊れる」
『壊れない方法で、続けるんだね』
「そう」
睦月の声が、わずかに柔らぐ。
『それ、逃げじゃないよ』
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
「俺、アイドルじゃなくなるかもしれない」
『それでも』
迷いのない声。
『君は、神無だ』
通話が切れた。
神無は立ち上がり、受付へ向かう。
「すみません」
受付嬢が顔を上げる。
「社長に伝えてください」
少し、間を置いてから。
「——再開します。条件付きで」
ロビーに、静かな緊張が走った。
数分後、社長室。
竹下社長は、書類を閉じる。
「君の条件は?」
「歌わない」
社長は眉を上げるが、否定はしなかった。
「代わりに」
神無は、拳を握る。
「マイクは、持つ」
その言葉に、社長は小さく笑った。
「それが、君の再開か」
「はい」
「いいだろう」
ペンが紙を走る音が、やけに大きく響いた。
「正式に、再開だ」
事務所を出た神無は、空を見上げる。
歌えない夜。
それでも、マイクを手放さない夜。
それが、今の自分にできる最大の前進だった。




