ロビー
病院のロビーは、夕方になると少しだけ騒がしくなる。
見舞いを終えた人間、仕事帰りの職員、どこか疲れた顔をした患者たち。
神無は、自動ドアの内側で一度立ち止まった。
消毒液の匂い。
聞き慣れない電子音。
苦手な場所だ。
あの日の光景が、どうしても頭をよぎる。
「……来た?」
声は、背後からだった。
振り向くと、ソファの端に睦月が座っている。
点滴はない。
ただ、まだ顔色は良くない。
「来た」
それだけ返す。
近づくと、睦月は一つ隣の席を軽く叩いた。
「そこ」
指示は短い。
神無は、言われた通り腰を下ろす。
距離は、肩が触れない程度。
「体調は?」
「生きてる」
あの夜と同じ返答に、神無は息を吐いた。
「……倒れたって聞いた」
「見たんでしょ」
視線を合わせないまま、睦月が言う。
否定はしなかった。
「病院に戻されただけ。怒られた」
「それで済んでるなら、よかった」
しばらく、会話が途切れる。
ロビーのテレビが、無音でニュースを流している。
画面の下に流れるテロップだけが、やけに目に入った。
「条件、覚えてる?」
睦月が先に切り出した。
「覚えてる」
「じゃあ、聞く」
ようやく、睦月がこちらを見る。
「今、何が一番怖い?」
直球だった。
神無は、少し考える。
「……俺が歌う理由が、万里になること」
睦月は、すぐに頷かなかった。
「続けなきゃ、って思われるのも」
「それで、壊れるのも」
言葉が、静かに落ちる。
「万里が、いない場所で歌うのは――」
続きが、喉で詰まる。
「裏切りみたいに感じる」
睦月は、視線を落としたまま言った。
「それなら」
少し間を置いて。
「今は、歌わなくていい」
神無が、驚いたように睦月を見る。
「事務所には、そう伝える」
「……勝手じゃない?」
「俺の専権」
小さく、笑う。
「それに、条件に入ってた」
確かに。
神無は、拳を握りしめた。
「じゃあ、俺は何をすればいい」
睦月は、少しだけ考えてから答える。
「休め」
即答だった。
「歌わなくていい。決めなくていい。逃げてもいい」
その言葉は、優しすぎた。
神無は、視線を逸らす。
「……それが、一番苦手なんだけど」
「知ってる」
あっさり返される。
ロビーに、アナウンスが流れた。
面会終了を告げる、機械的な声。
「今日は、ここまで」
睦月が立ち上がる。
「次は?」
神無が聞く。
「次があると思えるなら、また連絡する」
それは、約束でも、拒絶でもなかった。
ただの事実。
睦月は、一歩だけ離れてから振り返る。
「……見てた件」
「うん」
「責めない。条件だから」
そう言って、軽く手を振る。
神無は、その背中を見送った。
今回は、目を逸らさなかった。




