連絡
部屋は静かだった。
冷蔵庫のモーター音と、壁掛け時計の秒針。
それだけが、まだ時間が進んでいる証拠だった。
神無は、机の前に座ったまま動けずにいた。
封筒は、開いた状態で置かれている。
書類も、手紙も、そのまま。
視線が、机の端に置いたスマホへ落ちる。
画面は伏せたまま。
通知はない。
当たり前だ。
あれだけの態度を取って、向こうから連絡が来るわけがない。
「……」
スマホを手に取る。
ロックを解除して、連絡先を開く。
スクロールするまでもない。
上の方に、名前があった。
二海道 睦月。
一度、画面を消す。
早すぎる。
今さら何を言うんだ。
倒れかけていた。
それを、見ていた。
それでも声をかけなかった人間が、今さら。
もう一度、画面を点ける。
通話ボタンに、指を置く。
震えた。
電話は、駄目だ。
声を聞いたら、言葉が崩れる。
メッセージアプリを開く。
白い入力欄が、やけに広い。
――なんて送る?
『さっきはごめん』
軽すぎる。
『体、大丈夫?』
それを言える立場か?
文字を打っては消し、消しては打つ。
五分、十分。
画面は、ほとんど空白のままだ。
神無は、深く息を吸った。
そして、短く打った。
『さっきの帰り道、窓から見えた』
送信。
既読は、すぐにつかなかった。
当然だ。
病院に戻っているかもしれない。
画面を伏せようとして、もう一文打つ。
『倒れそうだった。声、かけなくてごめん』
指が止まる。
言い訳になるかもしれない。
それでも、消さなかった。
送信。
スマホを置き、両手で顔を覆う。
「……最悪だ」
それでも、これが限界だった。
しばらくして、振動。
画面が光る。
心臓が跳ねる。
表示されたのは、短い返信だった。
『生きてる』
それだけ。
余計な言葉はない。でも、返してくれた。
神無は、ゆっくりと息を吐く。
指が、自然に動いた。
『それならいい。無理は、もうすんな』
送信。
数秒後。
『それ、医者にも言われた』
ほんの少しだけ、笑った。
ほんの少しだけ。
画面を見つめたまま、次の言葉を考える。
――歌。
――封筒。
――これから。
全部、まだ怖い。それでも。
『また、話してもいい?』
送信。
今度は、返事が来るまで時間がかかった。
神無は、スマホを握ったまま待つ。
逃げなかった。
それだけで、今日は十分だった。
返事は、すぐには来なかった。
神無は、画面を伏せたり、また点けたりを繰り返しながら待った。
焦っているのが自分でも分かる。
ようやく、振動。
表示された名前に、息を止める。
『話すだけなら』
短い。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
続けて、もう一通。
『ただ、条件がある』
条件。
神無は、画面を見つめたまま動けなかった。
『俺が倒れたことを、責任にしない。同情で動かない』
喉の奥が、きしむ。
続けて、文字が増えた。
『あと、歌うかどうかは、今は決めなくていい』
それは、逃げ道でもあり、猶予でもあった。
神無は、少しだけ考える。
責任にしない。
同情しない。
簡単なようで、一番難しい。
それでも、指は止まらなかった。
『分かった。条件、飲む』
送信。
間を置かず、返事が来る。
『じゃあ、明後日。病院のロビー』
病院。
あの場所。
神無は、一瞬だけ目を閉じた。
『分かった。時間は?』
『夕方。面会時間ギリギリ』
睦月らしい。
無理をしない、逃げ場のある時間帯。
神無は、最後に一文だけ打った。
『ありがとう』
既読がついて、しばらくしてから返信。
『礼は要らない。話すだけ。』
スマホを置き、神無は背もたれに身を預けた。
胸の奥にあった重いものが、
ほんの少しだけ、位置を変えた気がした。
まだ、何も決まっていない。
Donectも、歌も、未来も。
それでも。
逃げる以外の選択肢が、
ようやく一つ、目の前に置かれた。




