封筒
玄関の扉が閉まる音を背に、睦月は歩き出した。
夜風が思ったより冷たい。
季節の変わり目がだと言うことを、体が先に思い出させてくる。
足取りは問題ない。
少なくとも、今は。
角を曲がったところで、一度立ち止まる。
息を整えるためだ。そう思っていた。
次の瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
郁出したはずの足が、地面を捉えない。
世界が一瞬、傾く。
慌てて塀に手をつく。
指先に伝わる冷たさが、妙に遠い。
心臓の音が、耳の内側でうるさい。
ドクン、ドクンと一定でない。
――まだ、動ける。
そう思った直後、膝が抜けた。
倒れる、と思ったが体は反射でしゃがみ込み、完全に崩れるのだけは避けた。
アスファルトに膝が触れ、鈍い痛みが遅れてくる。
「……やっぱり無理か」
誰に言い聞かせるでもない声。
呼吸が浅い。
肺が、うまく膨らまない。
神無の家の明かりが少し離れた場所に見える。
さっきまで、あの扉の前に立っていたことが、もう随分前のことのように感じた。
ポケットに入れたままの形態が、震えた。
表示された名前にほんの一瞬だけ迷う。
――陸。
出るべきか。出たら迎えに来ると言い出すだろう。
通話のボタンを押さず、握りしめる。
「……もうちょいだけ」
塀にもたれ、ゆっくりと立ち上がる。
視界の端が暗くなる。
頭の奥で、医者の声がよぎった。
「無理をしないでください。隊員は、回復したという意味ではありません」
わかっている。それでも、今日じゃないとだめだった。
神無が、扉を締める前に。完全に、何かを断ち切る前に。
足を一歩、前に出す。
視界が白くなり、音が遠のく。
倒れるより前に、誰かの声がした。
「……師匠!」
腕を捕まれ、体が引き戻される。
地面にぶつかる衝撃はなかった。
代わりに、見慣れた声が耳元で重なる。
「言ったでしょ、迎え呼べって!」
陸だった。
その後ろに天と海の姿もある。
「尾行?」
睦月がそう言うと、三人は同時に視線をそらした。
「念のためです」
「社長命令」
「あと、師匠信用ない」
言い返す気力はなかった。
陸に肩を課され、歩き出す。
振り返ることはしなかった。
それでも、背中の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
いうべきことは言った。
後は神無が決める番だ。
扉を締めた後、神無はそのバカラ動かなかった。
鍵を掛ける音が、やけに大きく響いた気がした。
すぐに後悔して、指を離す。
玄関灯は消したまま。
暗闇に目がなれるのを、ただ待つ。
帰ったことを確認するために、カーテンの端を少しだけ持ち上げた。
外套の明かりに、細かい影が伸びている。
睦月だった。
歩いている。遅いが、確かに。
声を掛ける理由はなかった。
開けなくていい、と言われた。
入らない、とも。
それでも、角を曲がる前に、睦月が立ち止まった。
神無の胸が、嫌な音を立てる。
影が揺れる。
次の瞬間、体が沈んだ。
「……は?」
思考より先に、足が動きかける。
扉に手をかけて、止まった。
――出るな。
誰かの声かもわからない理性が、腕を引き留める。
もう、関わるな。
これ以上、引きずるな。
外では、睦月が塀に手をついている。
しゃがみ込み、しばらくは動かない。
呼吸をしているのはわかる。
倒れては居ない。
そのとき、別の影が、現れた。
見覚えのある背格好の三人。
「陸」
名前を、声に出さずに呼ぶ。
陸が睦月の腕を掴み、引き上げる。
天と海が、左右から支える。
睦月は抵抗しなかった。
その様子を、神無は窓越しに見ていた。
最後まで。
角をまがり、四人の姿が完全に見えなくなるまで。
カーテンを閉める。
その動作がやけに重い。
「最低だな、俺」
誰に向けた言葉でもない。
倒れかけた人間を見送っただけ。
無意識に皺が増えた封筒を見る。
選択肢。
睦月はそういった。
自分で決めろ。その言葉が、やけに重くのしかかる。
ゆっくりと、封を切った。
中に入っていたのは、数枚の書類と、一通の手紙。
書類は、事務所名、条件、活動内容。どれも現実的で、逃げ場のない文字ばかりだ。
手紙は短かった。
「歌うことをやめる選択も、続ける選択も、どちらも正しい。ただし、誰かの代わり地して歌う必要はない」
紙を握りしめる。
「……勝手なことを言いやがって」
続けるのも正しい。
やめるも正しい。
そんな便利な言葉で、割り切れるなら、苦労しない。
視線がテーブルのマイクに落ちる。
この汚れた部屋で埃一つもなく、収納されたマイク。
万里と、一緒に選んだやつだ。
軽くて、音が素直で、「二人の声に合う」と言われた。
一本しかない。
神無は、マイクを手に取った。
電源は入れない。
歌わない。
ただ、口元に近づける。
声を出そうとして、喉が詰まる。
出てきたのは、音にもならない息だけ。
万里の声が、脳裏に蘇る。
ハモるとき、少しだけ遅れる癖。
ライブ前に必ず言っていた「大丈夫」
マイクをテーブルに戻す。
両手で顔を覆った。
「俺一人じゃ、歌えないんだよ」
しばらくして、立ち上がる。
カーテンを少しだけ開けると、夜の街が滲んで見えた。
封筒をゴミ箱に入れる。
迷って、取り出す。
そして、引き出しの奥へ押し込んだ。
まだ、決められない。
でも。
――歌、嫌いになるな。
睦月の声が、耳のおくで、繰り返された。
神無は、マイクをケースに姉妹、そっと蓋を閉じた。
その夜も、音楽は流さなかった。
それでも、眠れなかった。




