睦月と竹下
あの事件から数週間後。
ようやく退院できた睦月は、家に帰るよりも先に、久方ぶりにあの事務所へ向かった。神無に向かわせた、あの場所へ。
体はまだ万全とは言えないが、長時間の移動が不可能というほどではない。タクシーを使い、事務所の前で降りる。
受付に足を運ぶと、見慣れた顔が三人いた。
訪問者としてではなく、きちんと揃えた制服を身にまとって。
「師匠、ここに来るなら言ってくださいよ。迎え、よこしたのに」
睦月のことを師匠と呼ぶのは彼らだけだ。
「お前らがここにいるなんて聞いてないんだけど」
「言ってなかったっけ?」
三人は顔を見合わせて笑い、そのまま受付を出ると、陸がちゃっかり睦月をおぶった。
「歩けるけど?」
「社長命令だから」
そのまま事務所の奥へと連れて行かれ、案内された社長室は相変わらず書類で溢れかえっていた。
「お久しぶりです」
「お、久しぶりだね。大丈夫かい?」
「はい」
忙しいのは承知の上で、顔を出したが、ここまでとは思っていなかった。
「神無は、どうなった?」
「入社はしたけど、それっきり」
音沙汰なし、というところだろう。
信じた人間しか家に上げない神無だ。様子を見に行っても居留守を使われて終わりだろう。
「今度様子を見に行ってくる」
「睦月」
社長が、不意に真剣な声で名を呼んだ。
「君が来た理由は、顔を出しだけじゃないだろう」
図星だった。
睦月は背もたれに身を預け、天井を見上げる。
「神無を、表に出すきはない」
「だろうね。でも、完全に切り捨てるわけでもないんでしょ」
睦月が笑い話しかけると、社長の体が少しはねた。
社長の指が、机の上の位置枚の資料を叩いた。
「だから準備だけはしてある。君が倒れている間もね」
差し出されたのは、薄い封筒だった。
「神無本人には、まだ渡していない」
「……逃げ道?」
「居場所、かな」
睦月は封筒を受け取り、少しだけ黙った。
万里が居なくなり、Donect が終わり、それでも、神無の時間は止まっていない。
「行ってくる」
「無理はするなよ」
「それは無理」
そう言って、睦月は小さく笑った。
神無は、きっと拒む。
それでも、伝えなければならないことがある。
――終わったままにしないために。
神無の家は、事務所から電車を一本乗り継いだ先にあった。
以前、送ってもらったことが一度だけある。住所を覚えるほどの付き合いではなかったが、曲のデータを受け取りに行った帰り道、たまたま一緒になっただけだった。
インターフォンを押す指が、途中で止まる。
この扉の向こうにいるのは、相方を失い、居場所を失い、なお表に立つことを選ばされた人間。
自分が来ていいのか。
来たところで、何を言えるのか。
――それでも。
睦月は、インターフォンを押した。
反応はない。もう一度押そうとして、やめる。
信じた人間にしか家に上げない神無が、いまこの状態で他人の呼び鈴に応じるとは思えなかった。
扉の横に寄り、壁に背を預けて座り込む。
立っていると、まだ足元が覚束ない。
「……」
しばらくして、扉の向こで物音がした。
鍵の回る音ではない。足音でもない。
誰かが、底にいる気配。
「……帰れ」
扉越しに、低く枯れた声が落ちてきた。
睦月は返事をしなかった。
代わりにポケットから封筒を取り出し、扉の前にそっと置く。
「開けなくていい」
それだけ言って、少し息を整える。
「入らない。今日は、渡しに来ただけ」
沈黙。
時間が伸びる。
「社長に、怒られた?」
神無の声だった。
攻めるでもなく、ただ乾いた調子で。
「ちょっとだけ」
睦月が答える。
「相変わらず、勝手だって」
小さく、息を吐く音が聞こえた。
わらったのか、ため息なのかはわからない。
「……解散、公開したのは」
言い淀む。
「俺の意思じゃない、だろ」
睦月は、少しだけ視線を伏せた。
「間違ってはいない」
そう前置きをしてから、続ける。
「でも、相談はするべきだった」
扉の向こうで、何かがぶつかる音がした。
拳か、額か。どちらでもいい。
「……今更だ」
「いまさらだよ」
同意するように、睦月はいった。
その静かな工程が、逆に神無のしゃくに触ったのか、息が荒くなる気配がつたわってくる。
「じゃあ、何をしにきた」
真正面からの問い。
睦月は、少しだけ間をおいた。
「神無を、表に引き戻しに来たわけじゃない」
神無は何も言わずにただ静かに聞いていた。
「でも、逃げ切るのも違うと思ってる」
封筒の存在を声で示す。
「それ、居場所の候補」
「仕事?」
「いや、選択肢」
再び、沈黙が訪れる。
しばらくして鍵の外れる音がした。
扉はほんのわずかだけ開く。
人一人通れるほどではない。
神無の顔は、半分しか見えなかった。
目の下に濃い隈。整えられていない髪。
「……中、入る?」
睦月は首を横に振る。
「今日はいい」
扉の隙間に封筒を差し込む。
「読まなくてもいい。捨ててもいい」
ただし、と一言添える。
「自分で決めろ」
神無の手が、封筒を掴んだ。
その瞬間、視線がぶつかる。
何かを言いかけて、神無は口を閉じた。
「……ありがと」
それは、感謝なのか、別れなのか。
睦月は答えず、ゆっくりと立ち上がる。
帰り際、振り返らずに行った。
「歌、嫌いにならないで」
扉が、静かに閉まった。
ガギの音が、確かに鳴った。




