言葉になる前
時刻は深夜二時を回っていた。
事務所の仮眠室は、照明を落とすと驚くほど静かになる。
ソファに腰掛けた神無は、マイクケースを足元に置いたまま動かない。
ドアが、静かに開いた。
「起きてると思った」
霜月百だった。
「……どうぞ」
百は、向かいの椅子に座る。
缶コーヒーを一本、机に置いた。
「カフェイン、飲める?」
「今は」
百は、自分の分だけ開けた。
少し間。
「和龕、きつかったでしょ」
「……はい」
「でも、嘘は言わない人なんだ」
神無は、うなずく。
「わかってます」
百は、神無をまっすぐ見る。
「じゃあ、聞いてもいい?」
間。
「君は、どこに立ちたい?」
神無は、答えなかった。
代わりに、マイクケースに視線を落とす。
「……空いてる場所が、ある」
ぽつり。
「ずっと、空いたままの」
百は、何も言わない。
急かさない。
「そこに立ったら」
神無の声が、かすれる。
「また、失う気がする」
「何を?」
「全部」
百は、少し考えてから言った。
「失ったものって、もう戻らない?」
「……戻らないです」
やはり、神無はあの事件がトラウマとなり、行動を制限してる。
「じゃあ」
百は、静かに続ける。
「増えることは?」
神無は、顔を上げた。
「……考えたこと、なかった」
「今、増えてるよ」
百は、睦月のいる廊下の方を見る。
「少なくとも、君は一人じゃない」
神無は、唇を噛む。
「俺、前に出るの、怖いんです」
「知ってる」
即答。
「だから、今は隣でいい」
「隣?」
「うん」
百は、軽く笑う。
「睦月の後ろじゃなくて」
「和龕みたいに、前でもなくて」
「横」
神無は、少し考える。
「……それ、ずるくないですか」
「ずるいよ」
百は、あっさり認める。
「でも、逃げじゃない」
沈黙。
神無は、深く息を吸う。
「……俺」
一瞬、言葉を探す。
「また、歌いたいとは思ってる」
百の目が、わずかに見開かれる。
「今すぐじゃないけど」
「うん」
「でも、誰かの代わりとしてじゃなく」
神無は、マイクケースに手を置く。
「自分として」
百は、ゆっくり頷いた。
「それでいい」
立ち上がる。
「今日は、それが聞けただけで十分」
ドアの前で、振り返る。
「神無さん」
「はい」
「君が前に出る日」
少し、微笑む。
「僕らは、隣にいる。一人じゃない」
ドアが閉まる。
仮眠室に、静けさが戻る。
神無は、マイクケースを抱えた。
——横に立つ。
それが、今の答えだった。




