水棲の生き物
水棲の生き物
真夜中の蓮池に、美しい顔が浮かび上がる。
うるおった白い肌に大きな水色の瞳、黒いまつ毛は三日月と同じ角度だ。
蓮と同じ色の唇が、開く。
「水が欲しい、水、水が欲しい」
つややかな低い声が、言う。
呼ばれた人間が駆け寄ってくる。
「水をやろう。どんな水が欲しい」
水色の瞳は、人間の顔を見つめる。
「おまえが美味いと思う水が欲しい」
人間は家にある温泉水を持ってきた。
美しい顔は口を大きく開けて、水を喉にそそいでもらう。
満足げに目を細めて、口を閉じる。
「おいしい、おいしい、もっと欲しい」
美しい顔が喜ぶので、人間はとても嬉しい気持ちになった。
蓮の花が動く。ざわざわと葉が動く。
美しい顔が浮き上がる。泥を一雫すくったような前髪がずるずると伸び、おとがいの下から細く長い首が現れる。
濡れた黒髪に純白の首を見せて、美しい顔は微笑む。
甘い微睡みの匂いが蓮池から漂う。月下の桃花色の蓮が揺らいで、クスクスと笑っているようだ。
「もっと……水が欲しい」
美しい顔の声は、いっそう艶を増して、水をくれた人間へと近づく。蓮の葉が、美しい顔を押し出すように動く。
「どのような水が欲しい」
「おまえの、水が欲しい。おまえの中にある水が欲しい」
「それは、どのようにすれば与えられる?」
「人差し指を、差し出せ」
その頃にはすっかり、人間は美しい顔に水を与えたい欲望から逃れられない。
手を、出してしまう。
人間が人差し指を差し出すと、美しい顔は薄紅の唇でぱくりと指にくわえる。
弾力のある唇がうごめき、指をちゅうちゅうと吸う。
美しい顔の頬が蓮と同じ色になる。
目を伏せて恍惚の表情で、ひたすらに指を吸う。
ひときわ大きな葉が、飛び上がる。
白い手が、現れる。
白い手のひらを天に向けて、長い指を慣らすように動かし、腕が現れ出でる。
手は、人間の手首をしっかりとつかんだ。
人間はもう、立っていられないようだ。
「もっと、水が吸いたい」
美しい顔が言うと、反対の手も現れた。
両手で人間の手首をつかみ、飲み干し乾ききった人差し指を口から抜き取り、次は親指にしゃぶりつく。
そうしてすべての指から、人間の中の水分を、美しい顔は飲みきる。
人間は骨と皮だけになって、蓮池のそばに倒れている。
美しい顔は、目を細めた慈悲深い面差しで、人間を蓮池の中に引きずり込む。
美しい顔が天に手を伸ばす。月に引き上げて、とねだるように。
三日月は応じた。
蓮池がどよめくように、波打つ。
引き上げられた美しい顔の胴体は薄く、胸はひらたく、腰はくびれている。
白い体が夜空へ、三日月に重なるように身をくるらせる。
腰より下は、あらゆる生き物の集合体。
ドジョウの体にたくさんのカエルの手足、尾はシロサギ。背びれに白い蝶の羽根とトンボの羽根が重なり合っている。
さらにカマキリのカマが腰から尾まであり、夜空に浮かべたことを誇るように、前へ振り下ろす。
美しい顔は、自分のつややかな肌の感触を、自分自身で楽しむように、うっとりとなでる。
ふぅ、と息を吐く。
そして長い人差し指を口に入れて、前後に動かして濡れた音を立てる。
美しい顔が、下を向く。
口を開けて、蓮の花に唾液を垂らす。
とろりとした唾液を受け止めた蓮は、丸まって白い球体となり、真ん中からぱっかりと割れて、美しい顔が出現した。
美しい顔は、それを見て満足げに笑って、蓮池から蝶とハチの羽根をさえずらせて飛び、シロサギの尾で月をなぞり、カマキリのカマで前進して遠くへ行く。
新しい美しい顔が言う。次は、紫の瞳をしていた。
「水が、欲しい。水、が欲しい」
その誘う声は、ハチミツを喉に流し込むような、甘い甘い声だった。
三日月の夜に蓮池に近づいてはいけない。
吸い殺される。
はたして、あの水棲の生き物がどこへ行き、何をするのかは、誰も知らない。