選びし道
久しぶりに池のほとりを散策する。爽やかな風が気持ちよい。離れたところに亭屋が見える。若い官吏たちが書物を手に議論でもしているのだろうか、かつての自分たちのように。
脳裏に若き日の情景が浮かび上がった。
謹甫・成三問とは同期だった。同じ年の科挙に合格し、共に官職に就いた。年齢が近いこともあり、気が付いたら親しくなっていた。
人当たりが良く、学問を始めとして何事にも熱心に取り組む彼は、主上からも同僚からも愛されていた。もちろん、自分も彼のことを敬愛し、学問や政事のことなど、様々なことを語り合い、互いに切磋琢磨しあった。
当時の王は、学問を奨励し、その事業の一つとして正確な漢字音を調べるために、数人の若手官吏を明国に派遣した。謹甫と共に自分もその一員として初めて異国の地に足を踏み入れた。それはとても貴重な体験だった。
名君が治めるこの時代は、国家にとっても自分自身にとっても良き時期だった。謹甫と共に集賢殿の学士に選ばれ、日々、書を読み、議論をしながら過ごした。将来は、学んだことを生かして、民と国家のために尽くそうと考えていた。それは謹甫も同じだった。
時は流れ、王が世を去り王世子が後を継いだ。
新王は身体が弱く、在位期間は長くないだろうと言われていた。そのため、朝廷の人々の関心は次の時代に集まった。
現在の王世子はまだ幼かった。それゆえ、政事が不安定になるのではないかと人々は心配した。
そんななか、王弟の一人である首陽大君は密かに玉座を目指し、その準備を着々と進めていた。
予想通り、王はまもなく世を去り、王世子が即位した。
王が幼い場合、母親あるいは祖母が垂簾聴政を行うが、彼には母親も祖母も既になかった。先王は、今わの際に弟たち及び重臣である金宗瑞と皇甫仁を呼び寄せ、幼い息子を輔弼し、善政を行って欲しいと言い残した。
金宗瑞も皇甫仁も私心の無い忠臣だった。だが、彼らを取り巻く人々がそうとは限らない。二人の地位を利用して私利私欲に走る者がいないとは言えないだろう。やはり、自身で判断を下せる成人した王が必要なのではないだろうか。
そんななか、首陽大君は、この二人を謀反の疑いありと除去した。そして、遂に自身が王位に就いた。
良いこととは言えないが仕方がないのではないかと自分は思ったが、謹甫は違った。
彼は王弟の不義に怒り、現王を廃し上王となった先王を復位させようと同志を募り、計画を練った。
だが、計画は事前に漏れて失敗に帰した。謹甫たちは処刑され、上王は王族の身分を剥奪され、山奥へ配流となった。
その後も新王に対する反発は止むことなく反旗を翻す事件が続いた。
自分はそうしたものとは関わることなく、新王の朝廷の一員となって働いた。社会を安定し、民の暮らしを守っていくのが士大夫としての自分の務めだからだ。
その後、自分は三代の王に仕え、政事に参与した。十分
とはいえないが、国家と民のために尽くしたつもりだ。
こうして振り返って見ると、首陽大君が王位に就いた時が、自分と謹甫の分水嶺だったのかも知れない。
あくまで正道を進んだ謹甫は、“忠義の士”となり、謀反人なのに人々から崇敬され続けている。
対する自分は、理想より現実を選び、大君の側に身を寄せた。
世間は、こんな自分を単に私欲に目が眩んだ愚かな者だと非難するだろう。だが、世の中は理想のみでは動いていない。国を営んでいくには汚いことにも手を付けなくてはならないのである。
今後もずっと、忠義の士・成三問は称えられ、自身の栄達のみを追求したとして、申叔舟という人物は非難され続けられるだろう。
だが、自分の選んだ道を後悔していない。自分は自分のやり方で国家と民のために人生を捧げたのだから。