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マーマレード──ある女性の最期について

作者: 解剖タルト

〈プロローグのようなもの〉

 ここではないどこか遠くの、少し昔の話をしようと思う。私はこの話をいつ、誰から聞かされたか覚えておらず、実話なのか、それとも作り話なのか、それすら分からない。登場人物の名前などもってのほかで、〈祈り娘〉と呼ばれる主人公の名前すら全く思い出せないので、いっその事誰の名前も明かさないことにしようと考えている次第である。私が勝手に名前をつけてもよかったのだが、名付けのセンスが全くない上、その名前ですら話している途中に忘れてしまいそうだったので、私の馬鹿がばれるような提案はすっかりやめてしまおう。

 それにしても私はこの話をどこで聞いたのだろうか。どこかの酒の席で、それも隣に座った誰か(おそらく見知らぬ人なのだろう)から聞かされたのだろうか。もしくは、いつか夢でみたものを、どこかで聞いた話だと勘違いしているのかもしれない。いずれにしても出どころがはっきりせず、ひどく曖昧な話であることに変わりはない。

 そのような有様だから、この話の細かい描写に関してはすっかり忘れてしまっており、話の辻褄を合わせるのにひどく苦労した。かつての私が聞いたら、全く別のストーリーになっているではないかと驚くかもしれない。

 そのような「適当につくられた」話をなぜ聞かなければならないのか。あなたがたの意見は正しい。もし私があなたがたの立場だったら耐えられないかもしれない。私の時間を無駄にしないでほしい、と言って五分も持たずに話を切り上げてしまうだろう(大して価値のない時間を無駄にしたって、私自身、痛くも痒くもないだろうに!)

 だがあなたがたは私と違って聡明な方々だ。この取るに足らない話の中にも、ひとつの重要な教訓を見出すかもしれないし、全くくだらない話だと笑いながらそれを楽しむことができるかもしれない。あるいは私の考えなどすっかりお見通しで、それでなお、この話をしまいまで聞いて「まるで分からない」と道化を演じる余裕すらあるかもしれない。だから物は試しでこの話を最後まで聞いてほしい。

 そろそろ本腰入れて話を始めようと思うが、その前にひとつ言っておきたい。この話は祈りと愛についての話である。太宰治は『人間失格』で、罪のアントニムは罰ではないかと説いたが、それと同じように、祈りのアントニムは愛ではないかと、そう言ってしまうこともできる。これは独り言だから軽く聞き流してくれて構わない。

 祈りや愛について取り上げた話は星の数より多い。その気になればそのような話をかき集めて星座をつくって遊ぶことだってできる。私はあさりの味噌汁が好きなので、「あさりの味噌汁座」というものをつくってみたい。きっと後にも先にもそんなふざけた星座は出てこないだろうし、その星座は『星の王子さま』に出てくる「象を消化中のボア」のように、あさりやその他の具は一切見えないはずだ。

 話が逸れるのは私の悪い癖であり、それを自覚している。だからこうして戻ってこれる。「閑話休題」という言葉は、私のような「利口な」おしゃべりのためにある。

 閑話休題。

 祈りや愛に関する話はありふれている。それは先ほど述べたし、あなたがたもよく理解していることと思う。そのため既にご存知だろうが、私たちはこのような類の話を本当の意味で理解することが、おそらくできない。

〈第一部〉

 とある小さな街に、毎日熱心にお祈りをする娘がいた。街の人たちからは〈祈り娘〉と呼ばれ、可愛がられていた。

 祈り娘の年齢は十五で、瞳は澄んだ黒色をしており、微笑が似合う薄い唇をしていた。鼻は高くはないが、それがむしろ彼女の顔に年齢に見合わない上品さを与えていた。肩まで届かぬ長さの髪は、亜麻色で柔らかく、彼女の温厚で明るい性格をあらわしているようであった。身体は華奢だが病的な弱々しさはなく、むしろ春に芽吹く若葉のような力強さを感じさせた。

 彼女の美しい容姿に惚れるものもあったが、そのほとんどは街の外から来た者であった。以前、街の外から来たお金持ちの紳士に「良い話がある」と持ちかけられた際、彼女は

「良い話って今日の献立の話かしら。それなら残念。今日は私の嫌いなピーマンが出る日なの。」

と言って紳士をひどく困らせてしまった。もちろん彼女は「良い話」が何かを知っていて、あえてとぼけてみせたのである。彼女にとっては、仲間や街の人たちとの時間の方がよほど大事であり、よく知らない紳士と「上品で貴族的な時間」を過ごしたとしてもすぐ飽き飽きしてしまうだろうということは、彼女自身が一番よく知っていた。

 紳士は、「私のもとに来れば、今よりもっと優雅で贅沢な暮らしができる。」とすかさず叫び、その後も紳士と暮らすメリットや紳士自身がどれだけ優れた人間なのかを力説していたのだが、もはや彼女の耳には心地よい春風と遠くの木々で可憐に鳴く小鳥たちの声しか届いていなかった。そのうち紳士のことなどすっかり忘れ、紳士の話がまだ終わらないうちに教会に駆け込み、教会にいた仲間を引き連れて、鳥の声を聴きにピクニックに出かけてしまった。

 またこんなこともあった。若い商人の男性が物を売りにこの街に来た際、彼女を見かけ一目惚れしてしまった。

 彼はすぐさま彼女に声をかけた。だが彼女は商人にあまり興味がなさそうだった。商人はめげずに話を続けるがそれが逆効果で、むしろ素っ気ない態度で「はい、はいそうですね」という返事しかかえってこなくなった。そんな態度の祈り娘に対してしだいにイライラしてきた商人だったが、彼女の気を引くために話すのをやめることはなかった。そんな商人の様子をみた彼女がふと次のように言ったのである。

「私に物を売りに来たのかと思っていたら、違ったのね。ごめんなさい、もう一度最初から話してくださる?」

 彼女は何一つ話を聞いていなかった。男の格好で商人だと決めつけて(間違いではないが)、言葉巧みに誘惑して物を売ろうとしているのだと、そう思っていたのだ。「悪魔」の囁きに耳を貸してはならないと教え込まれていたため、何も聞いていなかったのである。もしくは話を聞いていないふりをして男を追い払うという祈り娘の「作戦」かもしれなかったが、いずれにしても商人には効果てきめんであった。商人は呆気にとられてしまって、そそくさと帰ってしまった。


 街の人たちは彼女の愛くるしさを理解しており、また彼女に親がいないことを知っていた。そのためか彼らと彼女の間にはいつでも、親と子どもの関係性においてあらわれるような、あたたかく落ち着いていて、のんびりとした時間が流れていた。彼女は親が居なくて寂しいと思うことがあったし、親がいる子を見て羨ましいと思うこともあったが、その寂しさは街の人たちや信仰によってかき消すことができた。彼女は教会で育てられながら、街の人たちと神様や季節の植物について語らい、猫が赤ちゃんを産むと、仲間や街の人たちを呼び、皆で喜んだ。

 彼女はあらゆる動物に好かれやすく、この猫も野良だったが彼女にはすっかり懐いていた。五匹の赤ちゃんが産まれたときも、彼女にだけは赤ちゃんに触れることをゆるしたのであった。彼女は赤ちゃん猫たちをよく気にかけ、赤ちゃん猫たちも彼女のことを遊び仲間として認識していた。彼女は赤ちゃん猫を積み上げて「マトリョシカ!」と言い、周りの人たちを和ませた。

 またあるとき、親切な街の人から

「何か買ってあげましょう。何が欲しいですか?」

と聞かれたことがあった。彼女は「困っている方にお恵みを」と言いかけたが、その人は熱心な信者で、もう十分すぎるほど多くの人を助けているのを知っていた。彼女は街の人たちひとりひとりをよく理解していた。そのうえで、このときは

「では、本を買ってください。」

とお願いしておいた。その人は「ほぅ」と意外そうな顔をしたが、彼は良い本をたくさん知っており、そのときは二冊の本を彼女に買い与えた。一冊は、その当時巷で流行っていた詩集で、彼女には難しいものであったが、祈りについて書かれていたページに関しては栞をはさんで何度も読み返した。もう一冊は有名なロマン主義の小説で、好きな人同士が結ばれない歯がゆい感じや人の生涯が終わるときの儚さや寂しさが彼女の心に残り続けた。


 彼女のお祈りは毎日決まった時間に行われた。といっても、時間についての厳密な決まりがあるわけではないので、同じ時間にお祈りするのは彼女の意志によるものだった。教会の鐘が鳴るやいなや、彼女は教会の中へ走り込み、目をつぶって熱心にお祈りをした。少し遅れたときには舌をぺろっと出しておどけてみせた。その様子は彼女を年齢より幼く見せた。

 彼女はなぜお祈りをするようになったのか。それは彼女自身にも分からない。もちろん、教会で育てられていたからということもあるだろうが、教会に預けられる以前、親戚の家で引き取られていたときから既にお祈りをしていたようである。

 彼女は毎日が幸せであった。毎日神に感謝し、街の人たちの幸せを祈っていた。彼女はこの暮らしが生涯続くと信じていた。

 だが(分かりきったことではあるが)幸せは長くは続かない。この世は悲劇である。もし仮にこの世が喜劇になる時があるとすれば、それは絶望を嘆いて叫び、喚く時だけである。だがそれを理解するためには、一切の希望を捨てなければならないし、彼女にそれができるはずがなかった(そしてもちろん、そんなことはすべきではない)。

 ある時、彼女は仲間とともに街から追い出されることになった。それは少し前から行われていた戦争と、戦争の後ろに卑しくへばりついて牙をむく宗教のせいであった。


 隣国(東の大国)の軍隊が街にやってきて、あっという間に征服してしまった。彼らは独自の宗教を信仰していたのだが、彼らの宗教はひどく「排他的」であった。

 軍隊は「熱心な異教徒」を処刑することはなかったが、街から一人残らず追い出してしまった。なぜ処刑しなかったのか。ひとつは「慈悲」をかけることで自らの宗教の優位性を示すためであった。

 もうひとつは祈り娘に関係している。〈隣国のよそ者〉は事前に彼女の噂を耳にしており、彼女を処刑すればたちまち市民が暴動を起こすことを予見していた。彼女の仲間を処刑することも同じく危険であろうと考えた。

 祈り娘をかのジャンヌ・ダルクと同一視するならば、素早く処刑してしまった方が得策である。しかし、彼女は〈まだ〉ジャンヌ・ダルクではない。つまり〈まだ〉その時ではない──もしジャンヌ・ダルクになったときは、そのときは残念ながら処刑するしかあるまい。

 隣国のよそ者は次のように宣言した。

「私たちは彼女らを殺さなかったが、彼女らは逃げました。彼女らはあなたがたを見捨てたが、私たちは、私たちの神は、あなたがたにパンと薔薇を、金を、恵みをもたらすでしょう。」


 祈り娘は二人の仲間とともに街の近くの地下壕(昔の戦争の際に造られたものらしい)で暮らすことになった。他の仲間とははぐれてしまい、生きているのかさえ分からない。

 仲間の一人は背の高い十七歳の女性で、街が襲われた時に両親を失った。深みのある青い瞳には、彼女の身に一気に押し寄せた苦しみと悲しみが痛いほどに窺えた。まだ齢十七でありながらこの苦しみを耐え抜くことができたのは、仲間と信仰があったからに他ならない(それがなければ、果たしてどうなっていただろうか)。もう一人は貧しい家の子どもでまだ十二歳の少女であった。先の動乱から薄香色の髪はみだれ、泣きじゃくった眼の下は赤く炎症を起こしていた。この可哀想な少女も、仲間と信仰によってかろうじて現世にとどまっていられた。

 お金は街から逃げるときに街の人たちが持たせてくれた。そのため、しばらくは買い出しで命をつなぐことができたし、街の人たちの中で彼女たちにこっそりと無償で食料を与える者も少なくなかった。最初のうちは親切な人たちがわざわざ地下壕に来てくれて、数週間分の食料やその他生活物資を届けてくれた。だが後でも述べるが、そのような者たちも遅かれ早かれ迫害を受けることになるため、後をつけられて彼女らの居場所が特定されてはまずいと行くに行けなくなってしまった。

 祈り娘は落ち着いているように見えたが、以前よりも顔色が悪く、体調を崩すこともあった。だがそのような時でも祈りを忘れることはなく、「神様はきっと私たちを見てくれている。」と二人の仲間を励まし続けた。彼女たちも祈り娘の言葉によって何度も救われ、また困難に打ち克つための気概を持つようになった。極度のストレスにさらされながら、彼女たちがついぞヒステリーにならなかったのは、祈り娘の励ましが彼女たちの心の拠り所になっていたためである。

 祈り娘の心は強かった。そして街が襲撃されたときからこの時まで涙を見せることはなかった。昔は泣き虫だったのだが、信仰が彼女の心を強くしたのである。ただやはり、悲しいときに泣けないのは辛いことであり、彼女もそれを自覚していた。お祈りをする度に悲しくなるが、泣くことができず、泣けたならどれだけ楽だろうかと思いながら、でもこれが私にできる唯一のことだからと信じてお祈りを続けた。


 街の人たちの多くは当初、祈り娘やその仲間を解放するように訴えた。しかし隣国のよそ者は、

「彼女らは捕まったのではなく、逃げたのです。あなたがたから逃げたのです。」

と言い続けた。そのようなとき、よそ者は決して市民を痛めつけたり、彼らを非難するようなことはしなかった(これはもちろん「表向き」の話である。裏ではどのような迫害が行われていたか、ほとんど記録が残っていないため明言することは難しい。ただひとつ言えることは、支配者は〈たとえ彼らにそのような意志がなかったとしても〉次第にサディスティックになっていくものである)。むしろ「慈悲」をかけて、「私たちはあなたがたとともにあります」と諭した。

 ここでひとつ注釈を入れておきたい。以上の方法は占領のためには少々回りくどいよう方法に思われる。だがこれには(おそらくだが)以上のような理由がある。その街は所謂「緩衝国」の一部であった。緩衝国とは地理的にみて大国と大国の間にあるため、文字通り緩衝材になる国のことを指す。緩衝国のおかげで大国は地理的に隣どおしにならず、したがって戦争を避けることができ、その国力を維持・発展させることができる。大国であったとしても、むやみやたらに戦争を仕掛けることは国力の低下に繋がるから避けておきたいと考えるものだ。だが、やる時はやる。そんな時、勝敗を左右するのは緩衝国の支配・占領。この話の舞台となる街は地理的にみて非常に重要な土地だったのである。

 また土地を獲るだけならば市民を大量虐殺すればそれで事足りるが、そうしなかったのは何故か。私は歴史に詳しくないため、これから話すことはあくまで私の勝手な妄想でしかない。隣国のよそ者は、もしかしたら、祈り娘を恐れながら、同時に祈り娘をこよなく「愛して」いたのかもしれない。歪んだ感情だが、彼らの愛は本物だった。だからこそ、彼女の「家族」を奪うことはせず、街に唯一あった教会を彼らが壊すことはなかった(ただ残念なことに暴徒化した街の人たちが壊してしまった)。彼らは祈り娘の力を試していたのかもしれない。……私にはこれがどうしても暴論には思われないのである。

 閑話休題。

 彼らの熱心で絶えまない働きかけが功を奏し、彼らは次第に支持されるようになった。彼らは街の人たちに恵みをもたらした。それまで貧しかった街の人たちの生活がみるみる潤っていった。

 また彼らは教育を徹底した。「異教徒」を悪とみなす教育である。彼らは徹底的に、「異教徒は災厄をもたらす」と教え込んだ。その教育方法も今では推測するしかないのだが、やはり通常の教育とはかけ離れた異質なものだったのであろう。

 あるとき祈り娘は、すっかり変わってしまった街の様子を、「命懸けの買い出し」から戻ってきた仲間から聞いた。そしてひどく悲しんだ。

「私は、私たちは、私たちの祈りは、無駄だったのでしょうか。神様、私はなぜ祈るのでしょうか。街の人たちのために祈っていたのに、彼らは私たちに敵意を向けるようになってしまいました。えぇ、分かっております。彼らは悪くないのです。悪魔に取り憑かれている、といっても過言ではないかもしれません。悪いのは東の国の侵略者たちなのです。いいえ、その侵略者でさえ、私たちはゆるしてあげなければなりません。分かっております。ですが、ですが……! 街の人たちはいまや、私たちのことを魔女と呼ぶようです。私たちは〈あなたたち〉のために祈っていたというのに。私はどうすれば良いのでしょうか。」

 彼女はそう言い、はじめて涙を流した。お祈り中ずっと泣いていた。お祈りの後涙が止まったが、泣いたあと少し心が楽になる自分が嫌で、また涙が出てきた。今度はずっと涙が止まらず、二人の仲間に囲まれて背中をさすられながら半日泣き続け、疲れてそのまま眠ってしまった。


 よそ者の教育(もはや「洗脳」と言ってしまっても過言ではないだろう)が行き届き、街の人の多くが「熱心な異教徒」を処刑するようによそ者に要求しはじめた。もちろん祈り娘たちの身を案じる者も少なくなかったが、そのような者たちは過激派によって迫害されるか、酷いときには見せしめとして殺されることもあり、祈り娘たちを擁護する意見はたちどころに圧殺された。

 よそ者は過激派の要求に対してはじめこそ乗り気だったが──はじめからそのつもりだったのだ──、西の大国が攻めてきたせいでそれどころではなくなってしまった。

「あなたがたがやらないなら、私たちがやりましょう。身を隠す魔女を聖なる炎で炙り出してみせます。私たちの神──あなたがた──は、私たちにパンと薔薇を、金を、恵みをくださったのですから。」

 ここで再び注釈を入れておこうと思う。かつてはあれほど謙虚で優しかった人間が、いまや悪魔のように意地汚く、醜く、恐ろしい存在になってしまった。そんなことがありえるだろうか。

 だがこの問いに関しては、愛についての話を飽きるほど見聞きしてきた人なら誰でも、すぐに答えを出すことができよう。今回は私が代わりに答えを申し上げておく。そのようなことは十分にありえる、と。

 愛は裏返ると憎しみになる。これは数少ない真理のひとつであり、よく知られている。そして同時に、皆が自分には全く関係のない真理だと信じてやまない(ということはあまり知られていない)。祈り娘に愛を注いだ人々は、いまや彼女が憎くて仕方がない。そして彼らはその心境の変化に気づいていない。だがこれらのことは、決して街の人たちが悪いわけではない。言ってしまえばそれが「人間の特質」なのであろう。

 もちろん先ほども述べたとおり、今でも祈り娘を愛する心優しい人はいる。そのことを忘れてはならないし、祈り娘たちもそのことを忘れることはなかった。忘恩こそ最大の罪である。

 祈り娘から優しさを教わった者たちは、そこに寂しさがあることを知る。本当の優しさには、寂しさが伴う。優しさと寂しさを知る者が不幸になってはならない。それが彼女の口ぐせであった。

 話をもとに戻すが、この後の話の展開に嫌気がさす人は少なくないだろうし、私自身もあまり話したくはない。自分がはじめた話のくせに何を言い出すのだと、そう思う人もいるだろうが、私は話したくて話しているのではなく、話さなければならないから話しているのである。

 少し疲れたので少々休憩をはさみたい。しばらくしたらまた再開しようと思う。話を聞く勇気が出てきたらまた戻って来ると良い。私は逃げも隠れもしない。だがあなたがたは逃げても良いし、隠れても良い。逃げ場を持たない私たちが生きるためには、皮肉にも逃げ続けなければならないのである。それもまた「人間の特質」なのかもしれない。ちなみに何から逃げるのか、それは私たちにも分からない。



〈第二部〉

 祈り娘たちは街の不穏を察知して、既にとある場所へ逃げていた。後でわかったことだが、別の仲間は過激派たちに残らず捕まり、その場で殺されるか、皆の前で処刑された。

 彼女たちが逃げた先は西の大国であった。彼女たちは街の情報と少しばかりのよそ者の情報をわたすことを約束され、安全な場所で保護されることになった。

 祈り娘は考えていた。神様のこと、仲間のこと、街の人たちのこと、そして自分のことを。

「神様、私は街の人たちを裏切ってしまいました。私は罪深き人間です。」

「あぁ神様、私には何ができるのでしょう。祈ることしかできない私に、何ができるというのでしょう。」

 彼女は、街の情報を流すということによって街の人たちを裏切ってしまったことをひどく後悔していた。そして街の人たちに何かあったとしたら、それは私のせいだとまで言い出すようになった。だが、仲間たちに励まされることによって何とか、「自分のせいである」という自責の念からは逃れることができた。

 だがやはり街の人たちの安否に関しての不安は拭いきれないのだろう。祈り娘は考え、そして祈った。飲食のことなどすっかり忘れ、仲間たちから声をかけられても気づかず、何日も目を閉じて祈り続けた。もしや死んでしまったのではないかと、何度も仲間を心配させたが、様子を見るたび呼吸はあり、寝ているのか起きているのか分からないような状態ではあったが、その静かな生命は普段に増して暖かな魂を燃やし続けていた。

 そんな折、ふと彼女の瞼の裏に街にいた時の記憶が思い出された。あたたかい記憶であった。これがいわゆる「啓示」であろうかと彼女は思った。

 彼女は子どもに戻った。街を駆け巡り、仲間や街の人たちと話し、猫と遊び、小鳥のさえずりを聴き、教会の周りに咲く花を愛でて、鐘の音を聴いて教会に走り込み、そして祈った。幸せな日々であった。どれだけ祈り続けただろうか。もう何日も、あるいは何年も祈り続けていたように感じられた。目を開けるのが怖かったが、暖かい光に優しく包み込まれた心は既に覚悟を決めていた。彼女は何日かぶりに目を開けた。

 彼女は涙を流した、そして全てを理解した。

「思い出は私をあたためてくれる。私の全てをあたためてくれる。」

「神様、愚かな私をお許しください。私は間違えておりました。私には足りなかったのです。愛が足りなかったのです。祈りが足りなかったのです。私には見えていなかったのです。ですがもうすっかり見えました。神様が与えてくださった全てを見ることができました。それも本当に全てです! 私は今見てきた一切のことについて、くまなく語ることができます。いえ、語らせてください。私は語りたいのです。全て、全てを! 街の人たちと過ごした、平和でゆったりとした日々。仲間と過ごした、楽しく満たされた時間。今ならば亡き両親にも逢える気がするのです! あぁ父よ、母よ。私を見ていてくださったのですね。そんなことにも気づけなかっただなんて! 神様、ねぇ神様! 本当に大事なことは、目に見えないことだったのですね。」

 そして次のように宣言した。

「あぁ神よ、この世を生きる者に、全てを包み込む愛を、隣人を愛する勇気を与え給え。」


 彼女たちは、はじめこそ緊張していたが、時が経つにつれ異国での生活にも慣れていった。

 西の大国のほうも、当初祈り娘たちに課していた諸々の制限を緩めるようになった。彼女らは小さな教会での週一回のお祈りの日をのぞいて、それぞれ別れて自由に生活するようになった。

 西国の市民の間で彼女たちは評判であった。戦争に巻き込まれた哀れな被害者としての一面はあったが、それがなかったとしてもかつての街の人たちにしてもらったように、可愛がってもらえただろうと思われる。それくらい彼女たち、特に祈り娘には人を惹きつける魅力があった。

 彼女たちが西国での生活に慣れてきた頃、ある男が祈り娘をよく訪ねるようになった。それは詩と唄が好きな青年であった。彼は学生であり、貧しい家の出身であったが、家庭教師をしてお金を稼ぎながら大学に通っていた。

 彼の緋い眼には多少の疲れが感じられたが、頬は赤みを帯び、健康的な顔つきをしていた。麦藁色の髪は整えられ、常磐色の帽子をかぶり、年相応かそれ以上の落ち着きと誠実な印象を与えていた。身体は細身だがその割に力はあり、家庭教師をする前は大変な肉体労働をしていたとか、街一番の喧嘩自慢だったとか、色々な噂があったが、彼自身が自分の過去について話したがらない性分だったため、祈り娘も彼の過去についてはあまり詮索することはなかった。だが彼女は興味本位で一度だけ、彼の友人に彼のことをこっそり聞いたことがあった。友人曰く、そのような噂は全くのでっち上げであり、彼が喧嘩をしたのは生涯で一度きり、それも年老いた老犬を虐める大男に対して、可哀想だからやめてあげろと忠告したらいきなり殴られて、そのまま取っ組み合いの喧嘩になったというものであった。一度だけしか喧嘩をしたことがないというのは、もしかしたら友人の色眼鏡かもしれないが、それほど優しい人間だと周囲の人々から思われていたのであろう。また彼には兄弟がおらず、友達もそれほど多いわけではなかったため、実際に喧嘩の数は少なかっただろうと思われる。ちなみに、なぜ彼が「街一番の喧嘩自慢」と言われてきたかといえば、先に述べた大男との喧嘩で彼が勝ってしまったからに他ならない(とはいえ、その場に居合わせた野次馬の多くが彼に助太刀をしていたため、彼自身の力で喧嘩に勝ったとは言いがたい)。

 また先ほど、彼のことを「詩と唄が好きな青年」と紹介したが、特に詩が好きだったようで、詩のことになるとまる一日喋りとおすことができた(その様子はすぐ後で申し上げるとしよう)。普段あまり喋らない人間であったため、その様子は周囲をひどく驚かせた。あまり喋らない人間であったとしても、いやそういう人間の方が、よく世間を観察していて「喋るべきこと」と「喋るべきではないこと」を見極めているものである。つまりどんな人間でも、実際はお喋りであり、それを外に出すか内に秘めているかのどちらかなのである。

 彼は頭の中でいつも詩をつくっており、良いものができたら紙に書きなぐるくせがあった。そのため、いつも白茶色の鞄の中には紙とペンが入っており、それらを忘れた日には一日中ソワソワして仕事や学業が手につかないほどだった。また詩についての熱心ぶりは寝ているときでさえ発揮され、夢の中で良い詩が思いつくと、ばさりと起き上がって忘れないうちにメモをとるのであった(毎晩行われるわけではないが、一緒の部屋で寝ている者はたちまち起こされてしまうため、たまったものではない!)。ちなみに、今しがた寝起きで書きなぐったメモには次のような言葉があった。


世界を喪失していた者は、いま、自らの世界を獲得する


 彼は、はじめのうちはお祈りをしてもらうために祈り娘のもとを訪れていたが、しだいに彼女に惹かれていった。彼女の容姿もさることながら、優しさと寂しさが調和をなすその内面と子どもっぽい無邪気さに心惹かれたのであった。

 また彼女も彼のことを良く思っていた。彼の謙虚で誠実なところやあまり多くを語らないところに魅力を感じていた。

 しばらくして彼らは結婚することになった。家は小さな教会の近くにあるアパートを借り、そこで二人で暮らすことに決めた。青年や祈り娘がそれまで借りていたところは、二人で住むにはせますぎたため、二人でお金を出しあって少し広めのアパートを借りることにしたのであった。そこも二人で暮らすには少しせまかったが、多くを望まない彼らにとっては十分すぎるほどであった。アパートの住人も彼らを快く迎え入れ、ときには食材や生活物資などを差し入れすることもあった。

 また彼らは貧しかったが幸せであった。二人で助け合いながら生きることを望み、多少の苦労をむしろ喜んでいるようにさえ見えた。

 あるとき青年は祈り娘に対して、

「私のどこが良いのか。」

と尋ねたことがあった。彼女は「ふぅん」と言ってにやにやと笑うと、次のように続けた。

「私はあなたの良いところを知っていますが、それを言わないのが私の良いところなのです。全部喋ってしまうのは神様の前だけですから、いくらあなたであっても内緒にしておきます。お喋りは上品に見えませんからね。ですがそんな私を黙って受け入れてくれるのがあなたの良いところなのです。私の全部を理解してくれるのは、神様以外にはあなたしかいないのですから。あと美味しそうにご飯を食べるのも良いところですかね。でも野菜もちゃんと食べてください。でないと大きくなれませんよ。あとは、そうですね。勉強ができるところも……、あら、全部喋っちゃいそうですね。もうあっちへ行ってください」

 そう言って彼女はしっしっと手を振り彼を遠ざけた。もちろん彼は彼女がおどけていることを理解しており、彼女に従って窓際まで遠ざかってみせた。そうすると彼女は

「窓から何が見えますか?」

と真面目な顔で聞くので、おかしくなってつい笑いそうになるのをこらえながら

「何も見えません。しいていえば、隣の家が見えます。」

と言うと、

「残念、不合格。」

と言い、お互いに笑うのであった。この不思議な問答は時折行われたが、彼が正解したのはただ一度だけであり、それは……、また後で話すとしよう。

 場面変わって別のときには、彼女が彼に対して

「私は詩を勉強してこなかったので、詩の良さについて教えてほしい。」

と聞いたことがあった。彼は「しめしめ」と思い、詩について二時間ほど話したことがあった。ざっと次のような内容だったと思われる。

「詩にはいくつか形式があるが、なぜそのような形式があるのかといえば、その形式の中で最大限の美を追究するためである。中には全く形式を用いないで詩が作られることもあるし、私自身そういう詩を作るのが案外好きだったりする。だがやはり詩の醍醐味といえば、形式を重んじ、与えられた舞台の中で最高の技を披露すること、これに尽きる。今私は技と言ったが、それは技術的なものと感覚的なものの両方を指す。様々な技術を効果的に用いながら、その中に自身の感覚を投影する。たとえ技術が優れていたとしても、それが私たちの精神に響かなければ何ら価値は無いし、私たちの精神に大きく訴えかけるものであったとしても、技術がなければそれは詩に感動したのではなく、〈私〉に感動したのであり、それは残念ながら詩とは呼べない。おっと肝心な形式について、どのような形式があるか話していなかったようだね。では……」

 祈り娘はたいそう後悔しただろうが、逃げることはできなかった。こんな調子でよく家庭教師ができたものだと思われるかもしれないが、このような饒舌は詩について話すときだけであり、普段は物腰柔らかに分かりやすく話すため、彼の家庭教師ぶりは人気があったのである。

 そんな様子で彼らは結婚後も幸せに暮らしていた。このとき祈り娘は十七、学生は二十の年齢になっていた。


 だが、幸せは続かない。幸せがずっと続くのならば、なぜこの世を地獄と呼ぶのだろう。


 祈り娘たちが西の大国に逃げてきた日のこと。

「呪いがあちらからやってきた。陽の光でも焼き尽くせぬ強い呪いである。」

「呪いを監視するため、災いを制御するため、いっそのこと我が国に入れてしまいましょう。東のやつらが死にものぐるいで攻めてきたとき、あれらを解き放つのです。」

「もしくは〈西の偉大なる国民〉に魔女を狩らせるのが良い。東のやつらができなかったことを我らが成し遂げるのだ。」

 彼らは東国の国民のことをよく〈太陽に逃げられた一族〉という蔑称で呼び、自らの国の国民のことを〈太陽の住処〉、〈太陽に愛された一族〉、〈西の偉大なる国民〉などと形容した。このような皮肉な言い回しは彼ら特有の文化であり、それを彼ら自身誇りに思っていた。

 この話の一部始終をこっそりと聞いていた者がいた。それはその地域で絶大な権力を有していた地主の息子であった。この話は地主の別荘で行われていたため、たとえ秘密の会合だったとしても地主の息子にとって盗み聞くことは容易なことであった。

 彼は(その時代には一般的な)正義感の強い青年であった。彼のような青年は眼の奥をギラギラと輝かせて、自らが「大いなる犠牲」となれるような舞台を常に探しているものである。だが大抵の場合は、そのような舞台を見つけられずに、より正確に言うならば〈舞台を見つけようとはせずに〉淡く若い日々を腐らせる。

 しかしながら彼の場合は少し異なっていた。彼は自らを他の人とは違う、特別な人間だと信じて疑わなかった。これだけなら他の若者と何ら変わりがないが、絶大な権力を有する地主のもとに生まれたという彼の境遇が彼自身の思想を裏付けた。彼の思想は〈生きていた〉。冷たい生命力を帯び、黒々とした艶のあるドロドロの液体を醜く膨らませ続けて、今にもその崇高な汚物を吐き出そうとしていた。彼には感情というものが全くなく、理性しかなかった。ある人が言っていた「この世で本当に怖いのは理性がない人ではなく、理性しかない人である」という言葉は非常に理にかなっていると思われる。目的のためなら手段を選ばない非情な人ほど、何をしでかすか分からない。

 彼は話の一部始終を聞き確信した、私の役目は「ここにある」のだ、と。


 西の上連中は次のような「脚本」を書いた。まずは皆が「異国から来た女性たちは魔女であった」と知る必要がある。その上でできるだけ素早く彼女らを殺す──無駄な暴動を防ぎ、やりようのない怒りと憎しみを東の国へぶつけるため。〈西の偉大なる国民〉の役目は祈り娘たちと親しくなった者が相応しいだろうということになった。

 彼らは徐々に祈り娘たちの行動制限を緩和し、彼女らを街に溶け込ませた。そして街の者たちが彼女らと顔見知りになったとき、こっそり「種明かし」をした。

 すぐに種明かしをしなかったのはなぜか。〈西の偉大なる国民〉を選別するため、というのは、上連中が国一番のお偉いさんに報告するために用意した、つまらない建前である。本音と建前を使い分けられる人間はとても愉快で賢い。

 仲良くなった者が実は魔女であったと知った時、人はどう思うだろうか。


 地主の息子は計画を練った。いつ殺すのが適切か。それは、彼女らが魔女であると皆が知ったときである。

 彼自身が言いふらしても良かったのだが、嘘呼ばわりされるリスクがあり、それはいずれ英雄になるものにとって致命的であった。人々が真実を知る日はきっと来る、彼は祈った。といっても彼のような人間が本気で祈るはずがない。彼は無神論者であった。彼の「祈り」は、祈り娘らを軽蔑することで無意識的に考え出されたとっておきの「道化」であった。

 さらに彼は考えた、全ての魔女を一度に殺すためにはどうすれば良いか。お祈りの日が最適だ。

 そして西の上連中が種明かしをした最初の週のお祈りの日、彼は「魔女狩り」を実行した。


 上連中は驚いた。祈り娘の夫にも「種明かし」をして、毒を手渡していた。祈り娘たちを殺すのは祈り娘の夫のはずだった。

 だが〈西の偉大なる国民〉が誰であれ、目標は達成された。上連中は地主の息子を褒めたたえた。彼を英雄と認めた。そして次の日には彼のことなどすっかり忘れ、次の仕事に取り掛かった。

 それは地主の息子にとっても同じことであり、次の日には殺した者たちの顔すら忘れて、また次の舞台を探していた。


〈祈り娘〉は死んだ。軽くなった妻の遺体を前に夫は泣いた。

「見知らぬ老人に毒を渡され、君を殺せと言われた。まさかと思いここに来たが、手遅れだった。」

「あぁ、あぁ──」

 彼は絶望した。

「あぁ神様、私には何ができるのでしょう。言葉を紡ぎ、詩をつくることしかできない私に、何ができるというのでしょう。」

 絶望とは死に至る病である。だが彼はここで死んではならないように思えた。

「〈祈り娘〉の声が聞こえぬ。外がさわがしい。」

 外では騒ぎを聞きつけて集まった野次馬たちが様子を見ようと次々と群がっていた。一部のものたちは建物の中まで入り込んでいた。彼らは殺された者たちに対して罵声を浴びせた。「忌まわしきマトリョシカめ!」「魔女狩り、万歳!」と金切り声で叫ぶ者もいた。

 彼は思った。自分では何もできない愚かな者は、口と態度は立派なようだ。かわいそうに、それで良いのか? あたたかい記憶も幸せな夢も留まることを知らず、その大きな口からボコボコと漏れだしてしまうではないか。

 いや違う、それで良いのだ。祈りをすてるということは、〈そういうこと〉なのである。

 彼は涙を流した、そして全てを理解した。

「神様、愚かな私をお許しください。誰も何も間違えておりませんでした。〈祈り娘〉をすてたのは、愛と勇気をすてるためだったのです。何を憐れむ必要がございましょうか。人々はそれを望んでいたのです。心から欲していたのです! 彼らは皆、愛と勇気に見惚れながら、それがなかなか自分のものにならないために、そんなものは捨ててしまえと、そう望むようになったのです。また彼らは愛と勇気をよく知りながら、それに裏切られたような気持ちになり(決して裏切ることはないと知っているにも関わらず!)、ついに本性をあらわしたと妄言を吐き続け、自分の首を絞めていることに気づかず、〈祈り娘〉の首を絞めているのです。全くもって理不尽。全て、全て、憎い。そこまで望むならば私がその願いを叶えてみせましょう。」

 そして次のように宣言した。

「あぁ神よ、この世を生きる者に、聖なる絶望を。鳴り止まぬ祝福を。隣人を消し去り、口をもぎ取り、太陽を奪い、それでも生き続ける運命を与え給え。生きながら腐敗し、死にながら墓前に立ち続けるのだ。」

 ──それが〈あなた〉の望んだ結末だ。


 彼はその夜、死んだように眠った。何日も眠り続けた。そしてある日むくりと起きたかと思えば、それからひたすら詩を書き続けた。愛と勇気の詩である。

 愛は愛の詩になり、愛の詩は愛になった。すなわち、愛の詩がなければ人々は愛を理解できなくなり、愛を知らない人々は愛の詩を書くことができなくなった。彼は世界中に愛の素晴らしさを説いたのではなく、むしろこの世界から愛を消そうと目論んでいたのである。そしてその計画は間もなく成就する。

 詩が国境を越え、海を越える頃にはすっかり戦争は終わっていた。戦争が終わっても彼は詩を書き続けた。愛を説く謎の詩人としてメディアなどに取り上げられることはあったが、取材などは滅多に受けなかった。正体不明のミステリアスな詩人として人々は彼をもてはやしたが、そんなことはお構い無しに書いて、書いて、書き続けた。そして彼の名を誰もが口にするようになったそのとき、彼は毒を飲んで自殺した。祈り娘たちを殺すために用意されていた(もちろん彼は祈り娘たちを殺すつもりなど全くなかったわけだが)、あの毒である。

 その頃にはみな、彼の詩がなければ生きられぬほど「孤独」になっていた。



〈エピローグのようなもの〉

 孤独というものはとても恐ろしい。なぜなら「孤独である」というただそれだけの事によって、私たちの個性がベリベリとむしり取られてしまうからである。

「みんな違ってみんな良い」を言い換えると、「みんな同じだとクソ」というふうになる。みんな同じだと仲がいいように見えるが、実際はそうではなくて、本当の意味で同じになってしまう。

 孤独が嫌なものだということは、私たちは非常によく知っている。だが孤独にも二種類あるのではないか。私たちがよく知っているのは、〈自分から首を絞めるタイプ〉の孤独で、もうひとつ、〈他者から首を絞めつけられなくなるタイプ〉の孤独があるのではないか。

 前者は既に「みんな同じだとクソ」理論で説明した(既に申し上げたとおり、私には名付けのセンスがまるでない)。ただ後者に関しても、私たちは既に知っている。すなわち「誰からも忘れ去られる」という孤独である。

 理論上ではありえる話だが、実際に私たちが生きている間に「全ての人から忘れ去られる」ということがありえるかといえば、その確率はかなり低い(しかし全く起こらないわけではない)。

 では対象を私自身ではなく、今まで話してきた〈祈り娘〉の話にかえてみる。するとどうか。全ての人から忘れ去られる確率がググッと上昇する。

 この世には様々な話があって、それは感動する話かもしれないし、くだらない話かもしれない。それら全てを覚えていられる人はいないのだから、生み出された(もしくは何らかの手段によって伝えられた)話の多くが人から忘れ去られ、消えてゆく。そういう儚さに寄り添うことも人の性かもしれないが、消えてゆく者たちに手を差し伸べるのも(それがたとえ愚かで醜い行為だったとしても)人の良いところなのではないかと私は思う。

 私が話した〈祈り娘〉の話があなたがたによって誰かに伝えられ、私はその誰かから〈祈り娘〉の話を聞く。そしてその内容の変わりように驚くのである。そうであったら嬉しい。

 なんだかまた話が脱線しているような気がする。いや、そもそも何を話すべきだったのか。何が大事な話をしなければいけないような気がしていたが。まあいずれ思い出すだろう。では、気を取り直して。

 閑話休題。

 祈り娘と結婚した青年は彼女の死によって、一度死んだ。そして長い眠りから覚め、今度は完全に「詩の人」となる。彼のペンネームは何だろうか。そんな妄想をしてみてもいい。きっと「ラザロ」だろう。賭けてもいい。いや、やはり賭けなどすべきではない。あれは負けるようにできている。

 彼は祈り娘を失ったが、生涯孤独ではなかった(と思う)。それは誰かが隣にいるというわけではなく、祈り娘が心の中にいるというただそれだけの事であった。だが、それが決定的に彼の人生を潤した。

 私はどこかで、祈りのアントニムは愛かもしれないという話をした気がする。〈祈り娘〉の話を最後まで聞いてくれた人なら理解していただけるかもしれないが、「祈り」とは祈り娘であり、「愛」とは詩であり青年である。そして、「みんな違ってみんな良い」のだから、祈りと愛がアントニムなのも何ら不思議ではない。シノニムではなくアントニムだったからこそ、惹かれあったのであり、お互いを尊重できたのである。

 最後にひとつ言っておきたいことがある。〈祈り娘〉の話はそれ自体が悲劇だったが、あなたがたの心の中でハッピーエンドにしてほしい。誰かが「ハッピーエンドは嫌いだ」と言っていたような気がするし、私もそれには同意するから、この話の結末は結局変えなかった。でもここで言いたいのは、そういうことではない。ハッピーエンドにする、ということは何も物語を改変するということに限らないのではないか。もっと別の方法があるではないか。私はそう思う。

 私の好きな小説に中河与一の『天の夕顔』というものがあって、これが他の追随を許さないほど圧倒的に「ロマン」なのである。簡単に要約すれば、主人公と人妻が相思相愛でありながら、何十年も一緒になれないままで、「あと少しで一緒に暮らせるようになる!」といったところで人妻が病気で亡くなるという内容である。悲劇だが、私はこの悲劇を改変しようとは全く思わない。むしろこの悲劇を生涯忘れずにいることこそがこの悲劇を救う唯一の方法なのではないかと思われるのである。

 もしかしたら、当人たちにとっては、悲劇を喜劇に変えることよりも、悲劇を忘れないようにすることの方がよほど大事なことなのかもしれない。忘恩は罪だが、忘れること自体は罪ではない、ただし、忘れることに恐怖しなくなればいずれ私たちも孤独になり、そして忘れられる。言い換えると、忘れられない以上、孤独にならないという意味で最上級のハッピーエンドが待ち受けているわけで、以上の点から私が今回話したことは全て忘れないでいただきたいのである。ただここで補足しておきたいのは、一言一句全てを正確に覚えることなど不可能であるということだ。つまり、話を聞いた人が別の人に伝え、また別の人に、別の人に、と続いていけば、話は必然的に変化する。それを悪い事だと非難するつもりは全くなく、むしろそれこそが醍醐味なのではないか。

 長いこと喋ったが、要は「以上の全ての話を忘れるな」という、忘れっぽい私が言うには全くもって説得力のない結論になってしまったわけだが、〈祈り娘〉の話はここで終わりにはしない。私はたった今、あなたがたに話さなければならないことを思い出した。それは青年と祈り娘の問答についてである。そのため、またあの言葉を叫んでおく。これがおそらく、今日私があなたがたにお伝えする本当に最後の話である。

 閑話休題。

 祈り娘が問い、青年が答える。この一見すると奇妙な問答が繰り返し行われていたことは既に話した。そして、青年がたった一度だけ問答で正解できたことがある、だがそのことについては後で話すとしよう、そんな約束をしていたのだった。

 嫌な話だ。全くの〈悲劇〉なのである。先ほどまで散々口にしてきた「悲劇」とは全くもって種類が違う。ここで言う〈悲劇〉とは……分からない。とにかく違う、それだけしか分からない。

 私は先ほど〈祈り娘〉の話の結末を変えることはしていないと言った。それは正しい。ただし、あるひとつの事実を隠しているとは言っていなかった。少し前私はあなたがたに逃げても良いし、隠れても良いと言い、私は逃げも隠れもしないと言ってのけたのだが、私だって人間である。逃げもするし、隠れもする、隠しもする、嫌な人間である。

 まず、青年が問答に正解できたのは、魔女狩りの前日。

 次に、問答の内容は以下の通り。

「ねぇねぇ、サン・テグジュペリの『星の王子さま』って知ってる?」

「うん、知っているよ。」

「じゃあ〈象を消化中のボア〉は知ってるよね」

「うん、もちろん知ってる。見えないものこそ大事なものだって、あのボアには教えてもらったからね」

「なら、私の中にある、〈見えないもの〉を当ててみて。」

 最後、あの日殺されたのは祈り娘と二人の仲間の三人。本当にそうだろうか。妻の遺体はなぜ〈軽くなった〉のか(そもそも祈り娘のことを「妻」、青年を「夫」と表現したのは、このときだけだった)。あの人たちはなぜ「忌まわしきマトリョシカめ!」と叫んだのか。

 祈り娘はどんな気持ちで教会に向かったのか。仲間たちとどんな話をして盛り上がっていたのか。

 本当によくある話だ。



〈青年の詩についての考察〉

 最後、最後と言いながら、いつまでも話が終わらない。よくある話である。あのときあえて話さなかったことを、忘れないうちに今ここで話してしまおうと思う。

 なぜあのときいっぺんに話してしまわなかったのか、それには明確な理由がある。今からする話は単純明快であり、複雑怪奇でもある。まっすぐひかれた線路のようでありながら、ぐるぐると果てしなく続く螺旋階段のようでもある。弁証法により導かれた崇高な真実が、実は堂々巡りに酔った者の吐瀉物に過ぎないのだとしたら。

 回りくどい言い方になったが、要は、あなたがたを混乱させないためにも少し時間をおいておく必要があったのである。また、これからの話には私の推測、いや空想と言った方が良いか、いずれにせよ不確かな部分が多くある。そのことを頭の片隅に置いて、話を聞いていただければと思う。さて、今回は寄り道せずに、早速はじめていこう。

 第二部において、青年のつくった詩が一度だけ登場していたと思う。次の言葉である。


世界を喪失していた者は、いま、自らの世界を獲得する


 この青年の詩は、ある重大な事実を示唆している。それは〈第三部〉の存在である。

 私は第三部の存在とその内容を全く聞かされていない。しかしおそらくそれが存在するであろうことと、その内容を、第一部と第二部を通して確信するに至った。

 くだらぬ妄想だと嘲ることもできる。それで良い。どれだけ根拠を並べようと、紛うことなき妄想である。だがこの妄想が、〈祈り娘〉の話の核心に触れるものだとしたら、それを話さないわけにはいかない。


 祈り娘や青年は、その世界を喪失した。それが第二部までの内容である。だが、第一部に似た第三部を想定することで、彼らは再び世界を獲得する(第一部と第三部は似ている。そのため私たちは、第三部の一部分が第一部に無意識的に入り込んでいることを確認することができる。祈り娘が買ってもらった詩集は誰が書いたものなのか?)。

 どういうことか。第二部までの話は、おそらく第二次世界大戦付近の話である(祈り娘と青年の問答の中で『星の王子さま』が出てきたが、『星の王子さま』は確か1942年か43年に作られていたはずだ)。そのように仮定すると、第三部はそれ以降の話になるが、幸いなことに第三次世界大戦は〈今のところは〉起こっていない。つまり、祈り娘のように戦争で故郷を追い出されることもなければ、敵国や街の人たちから迫害を受けることもない。

 もはや第三部においては、「自らの世界を獲得する」ことを邪魔するものはなく、繰り返される平和な日常の中で、祈り娘はその生を全うする。祈り娘の全ての願いが叶う。とはいえ第三部の主人公は祈り娘ではなく、ここでの祈り娘とは「祈り娘に似た人」という意味であり、祈り娘自身が幸せに暮らせるというわけではない。また青年に関しても、残念ながら毒を飲んで自殺するということ、それは変わらない。

 ならば第三部はどういう内容になるのか。先ほども申し上げたように、第三部は死んだ夫婦の願いが叶う話になるはずだ。

 死んだ人が蘇ることはないが、願いは死なない。受け継がれ、いつしか叶う。私たちは知らぬ間に、誰かに自分の願いを託しているかもしれないし、誰かの願いを受け取っているかもしれない。そして願った当人がいない所で、ひっそりと、しかし確実にその願いは叶う。

 夫婦が願いを託す人、それは「子ども」である。第三部は死んだはずの夫婦の子どもが主人公の話になる。祈り娘も青年も救われるためにはそれしかない。

 第二部の最後、私はあえて明言を避けていたが、祈り娘のお腹にいた赤ん坊は彼女のお腹の中から取り出されている(そのため以前にも説明したとおり、妻の遺体は〈軽くなった〉のであり、その凄惨な現場をみた人が「忌まわしきマトリョシカめ!」と叫んだわけである)。だが、なぜわざわざそのようなことをしたのか。そもそも誰がそんなことをしたのか。またそこに赤ん坊の遺体はあったのか。

 誰が赤ん坊を取り出したのか、さすがにそこまでは分からない(西国の市民の中に親切な人がいたということしか分からない)。ただ、もしその赤ん坊が私たちの想像している以上に成長していた場合、つまり、祈り娘と青年の問答の次の日に魔女狩りにあったというのが誤りで、実はそのとき今にも産まれそうな状態であった場合、赤ん坊を祈り娘のお腹の中から取り出すことで、奇跡的に助かっていた可能性は全くないわけではない。

 しかしたとえそうだったとしても、そのことを青年は知らない。おそらく生きていたことを知らされることもない。そこが悲劇なのだ。

 すなわち、今までの話は全て〈プロローグ〉であり、ここからが〈本編〉ということになる。長いプロローグだったが、本編は意外にもあっさりとしていて、短い。それに加え、おそらく第一部や第二部よりも、私たちに「近い」ため、理解しやすいのではないかと思う。ただひとつ気をつけるべきなのは、先ほども申しあげたとおり、その「分かりやすさ」に足元をすくわれる恐れがあるということだ。ひとつの塊のようにみえて、その裏に無数のニューロンを隠し持っている、そして、閾値を超えた瞬間に「何か」が暴れ出す。その塊はふたつも隠し事をしている。そんな入れ子構造、考えるだけでも嫌になる。

 ただ、足元をすくわれるのなら、はじめから座ってしまえばいい。そういう考えもできる。むしろそういう気概でこれからの話を聞いてくれた方が良いかもしれない。

 さあ、そろそろはじめよう。


 祈り娘と青年の想いがその子どもに受け継がれ、一度は死んだ祈りと愛が歓喜の光に包まれながら、いま、産声をあげる。



〈第三部──ソフィヤ〉

 とある小さな街に、歌うことが好きな娘がいた。街の人たちからは〈歌の娘〉と呼ばれ、可愛がられていた。私は彼女のことをソフィヤと呼ぶことにする。

 ソフィヤの年齢は十二、瞳は深い緋色で、微笑と歌が似合う薄い唇をしていた。可愛らしい鼻は可憐な花の香りと美味しそうな食事の匂いをかぎつける度、ピクピクと小さく動いた。肩まで伸ばした長さの髪は、亜麻色で柔らかく、彼女の活発で誠実な性格をあらわしているようであった。身体は華奢で、病的な弱々しさというほどではないにしろ、少し気だるげな印象を与えた。だが不思議なことに、彼女が歌いはじめるとそうした印象はガラッと変わり、全身から春に芽吹く若葉のような力強さを感じさせるのである。

 彼女は神を信じていなかった。いや、正確に言うならば、神がいるのかいないのか、そのことにはあまり興味がないように感じられた。いわゆる無神論者というものは、神の存在を信じないことによって自らの存在を認識するのであって、つまるところ彼らには「神がいなければならない」のである。だがソフィヤのような人間にとっては、神がいるのかいないのかはさほど問題ではない。その意味で、無神論者よりもよほど「無神論者」らしく感じられるものである。

 あるとき、熱心な信者から

「神を信じますか?」

と聞かれたことがあった。彼女はなんと答えようか迷ったが、結局質問に答えることはやめて、

「天使はどのような姿をしていますか。」

と尋ねた。これは彼女なりに、信者を喜ばせるために考え出した質問であった。信者は天使の容姿についてあれこれと答えたが、その答えは絵画でよく見る姿とほとんど変わらず、信者が満足するような質問でないこと気づき、「質問を間違えたな」と後悔した。彼女は信者の話を聞き終わると「ありがとう、楽しかった」と言い、信者から逃げるようにしてそそくさとその場を離れた。

 その街では神を信じる人は多かったが、彼女のような人間は少しずつ増えていた。それはその街に限らず世界中で見られる傾向である。そうした人の中に無神論者はいたが、もはやそれは時代遅れの思想であって、先ほど述べたような「神に対する無関心」がその大半を占めている。

 人々は神のかわりに何を信じるようになったのか。それは例えば「資本主義」であり、「お金」であり、「お酒」や「煙草」であったが、少なくとも「愛」ではなかった。だが彼らは、人が祈るときによく感じる寂しさや憐憫の情を知らないわけではない。むしろ祈らなくなったからこそ、寂しさや憐憫の情をより感じるようになり、それを埋めるためにお金や煙草などを欲するのであった。しかしながらその不幸の正体を、祈りを、祈りの消失の本当の意味を理解している者は極めて少ない。


 街の人たちは彼女の愛くるしさを理解していた。また、彼女がふとした時に大人びた顔をするのを知っていて、それが彼女に親がいないためであることを知っていた。そのため、彼らは彼女の親として振る舞い、彼女も彼らの気遣いを理解して甘えた。彼らと彼女の間にはいつでも、親と子どもの関係性においてあらわれるような、あたたかく落ち着いていて、のんびりとした時間が流れていた。彼女は親が居なくて寂しいと思うことがあったし、親がいる子を見て羨ましいと思うこともあった。その寂しさを街の人たちや歌によって紛らすことはできたが、彼女の心の中にポッカリと空いた穴を埋め尽くすことはできず、その穴に沈んで目が開けられなくなることもしばしばあった。そうした救いようのない寂しさは、彼女本来の活発さによって隠され、それがいっそうソフィヤという人間を大人っぽく見せた。そうした人間としての「深み」に魅力を感じる人は少なくない。事実、齢十二でありながら求婚を迫られることも少なくなかった。ただそういう時は、

「あら、私はまだ子どもよ。」

と言って、子どもっぽく歌い、にこっと笑ってみせる。するとそれまでの悲壮感がたちまち消えて、十二歳の子どもに戻るのであった。

 ソフィヤは親戚の家で育てられながら、街の人たちと歌や季節の植物について語りあった。ソフィヤは家の庭が好きで、季節ごとに咲く花を見るのが好きだった。特に玄関前を彩るバラの花がお気に入りで、定期的な手入れを欠かさなかった。そのとき彼女はよく歌を歌うのだが、その歌声を聴きに来る人もいるくらい、彼女の歌声は綺麗で透き通っており、人々の心を震わせた。

 あるとき、彼女の歌声を聴きに来た近所の親切な人から

「ソフィヤさん、あなたに何か買ってあげましょう。何が欲しいですか?」

と聞かれたことがあった。彼女は

「では、本が欲しいです。」

とお願いした。その人は「ほぅ」と意外そうな顔をしたが、彼は良い本をたくさん知っており、そのときは三冊の本を彼女に買い与えた。一冊は、その当時巷で流行っていた詩集で、当時の彼女には難しいものであった。祈りや愛について書かれたページは飛ばし飛ばし読んだが、歌について書かれたページに関しては栞をはさんで何度も読み返した。もう一冊は有名なロマン主義の小説で、好きな人同士が結ばれない様子にもどかしさを感じ、物語を最後まで読んで「私と同じだ」と理解した。最後の一冊はとても分厚い小説で読むのに苦労したが、ページをめくる手がとまらない感覚を味わったのはそのときが初めてだった。借金取りの老婆を殺した青年が罪の意識に怯える話だったが、ソフィヤが印象的に思ったのは青年に関することではなく、孤独になった老人が拳銃で自殺する場面である。ソフィヤは「孤独だと死ぬのか」と思い、老人を羨ましく思っている自分を見つけた。「私は死にたかったのか」と理解した。そのとき彼女は、自分を理解したことに喜びを感じ、少し救われた気がして嬉しかった。

 彼女は、自分が死にたがっていることを理解したが、それによって自分が他の人よりも不幸な人間であるとは思わなかった(あえて難しい言い回しをすると、「不幸」だとは思ったが、「不幸な人間」であるとは思わなかったのである)。毎日平和に過ごしていたが、幸せかどうかは分からなかった。

 彼女は人々が思う以上に利口な人間であろう。なぜなら齢十二にして既に、この世が悲劇であることを悟っていたからである。この年の秋、彼女の父が死んだ。そのことを彼女は知らない。


 ソフィヤは十五になった。死にたいという思いはますます強くなったが、それが欺瞞であることは十分すぎるほど理解していた。「欺瞞」とはどういうことか。本当の意味で死にたい思っている人は、〈既に死んでいる〉はずだ。だがソフィヤは、あれこれ理由をつけて今このときにも生き延びている。だから「欺瞞」。生きているのが嫌で、自らを救う唯一の方法が死ぬことしかないと知り、それでも生きることしかできない。そういう人間は自分のことが嫌いになる。だから死にたくなる。でも死ねない。悪循環。〈死に至る病〉とは絶望のことであり、絶望がその身を蝕む間、人は決して死んではならない。

 ただその欺瞞がふとした瞬間に「本物」になることがあり、ソフィヤもそれを知っている。そういうときは好きな歌を口ずさむこともできず、かといって眠ることもできないため、長く暗い一日が過ぎ去るのをじっと耐え抜くしかなかった。


 ある休日、彼女は外出のついでに近所の商店街に立ち寄った。といっても、特に買いたいものもなかったのでフラフラと歩きながら商店街の様子を眺めていた。商店街は活気に満ちており、食材や生活雑貨を買い求める人であふれていた。その商店街は駅から近く、街の(生活と文化の)中心部ともいえる場所であり、また多くの人々が立ち寄る憩いの場でもある。それに加えて昼間から酒を飲み歩く人もおり、それが商店街の騒がしさを不愉快で雑多なものにしている。だがそうした騒がしさにじっと耳を傾けるような「暇な人」は、ここにはいない。喫茶店のテラス席で珈琲を飲んでくつろぐ老人にしてみても、その騒音にすっかり慣れてしまっているふうで、むしろ自分と外界を隔離するものとして好意的に受けいれているようにも見える。

 しかしながらソフィヤは、そうした商店街の騒がしさを鬱陶しく感じた。騒音を聞かないようにしようと意識すればするほど、騒音がますます頭の中に入り込み、思考が乱され、苛立ちを感じた。その騒音に対して周りの人々が何も感じていないように見え、そのことが彼女をいっそう苛立たせた。彼女はそこにいる全ての人を妬み、恨み、憎しみ、嫌悪した。吐き気がした。人々が楽しそうに秘密の話をしているのを耳にすると、それをかき消そうとして頭を乱暴に掻きむしった。

 このときソフィヤと外界との距離はあまりにも近くなりすぎていた。いや、「距離」という言葉を用いるのも不適切であろう。彼女と外界がその境界を失い、同一のものになりかけていたのである。外界が否応なしに彼女に溶け込み、彼女は為す術なく「自身と外部との境界」が崩れていくのを感じた。目を閉じても耳を塞いでもそれを防ぐことはできない。気まぐれで商店街に立ち寄ったことを後悔し、一刻も早くこの場所から出てしまいたいと思った。

 近頃のソフィヤには、外界の喧騒が二倍にも三倍にも膨れ上がって知覚された(だが不思議なことに、歌を聴く際にそのような「ストレス」を感じることはなかった)。なにかに怯えているふうにもみえた。だが常にそのような「過敏な精神状態」だったわけではなく、自分の記憶や感覚がここではないどこか遠くで揺らめいているような気分になることもあった。自分の意識が散逸し、身体が分裂していく感覚。それは、夜の車窓から見える移りゆく都会の景色を、ただ流れるままにぼんやりと眺めている感覚に近い。ソフィヤはそのような感覚に陥る時、いつも忘れっぽくなった。外出しているときでも、どこに行くべきだったか思い出せず、また、どの道を通って家に帰ってきたのか分からなかったり、そもそも自分が歩いているということでさえ意識できないような時もあった。

 商店街の騒がしさにめまいがしたソフィヤは、ふと路地裏に入り込んだ。その路地裏は人がふたり並んで歩くのがやっとなほどの道幅で、太陽の光が入り込まず、うす暗くてじめじめとしておりカビ臭かった。不気味なほどに静かで、普通の人なら近づきたがらないような場所だったが、ソフィヤにとってはむしろ居心地が良かった。先ほどまであれほど乱されていた心と呼吸は、自分でも不思議なほどすぐに落ち着いた。こんなところに人などいるはずがない。そう思ったが、その考えは誤りであるとすぐにわかった。十歩ほど歩いたところに、壁にもたれかかってしゃがむ黒髪の女性の姿があった。その女性は煙草を吸っていた。


 その女性は何も考えず、何も感じていないように見えた。全てを諦めているように見えた。彼女の前では祈りも愛も、神でさえもその力を失っているように見えた。彼女には「ニヒル」があるのではなく、「生」がないのである。生の消失、あるいは、死の不連続。死の不連続によって生かされている、そういう者の余白には、ニヒルではなく〈生をこえた生〉、すなわち〈死をこえた死〉が跋扈している。

 彼女のなかにはこの世のあらゆる絶望があり、同時にあらゆる救いがあった。女性の黒い服はもちろんのこと、左耳に添えられたピアスでさえ、深く哀愁を帯びている。女性は吐いた煙が虚空に押し出される様子を眺め、煙が消えると俯いて煙草を吸い、また虚空を眺めて煙を吐いた。それは、祈りの所作に似ていて、儚く、切ない。女性の周りだけ時間が止まっているように感じられた。

 ソフィヤはその女性に見惚れた。そして気づいた時には女性の隣に座っており、煙が闇の中に消えていくのをじっと眺めていた。ソフィヤは気づいた。煙草を吸わなければ生きていけない「弱さ」は、言い換えると、煙草を吸ってでも生きるという「強さ」なのである。

 女性は隣に座ったソフィヤをちらと見た。しばらくの沈黙の後、ポツリと独り言のように、「疲れたね。」と言った。

 ソフィヤは女性の言葉に答えようとしたが、そのとき商店街の方から

「おい、リーザ!」

と叫ぶ男の声が聞こえた。ふたりが声の方を見ると、三十歳くらいの痩せた長身の男が、路地裏に二、三歩入り込んだ所に突っ立っている。その男はひどい酒飲みで、貧しい身なりをしていた。リーザはズボンのポケットから何かを取り出すと、それを男に投げつけた。男が受け取ったそれは煙草の箱である。男は中身を確認して、

「チェッ、五本しか入ってねぇな。」

とぶっきらぼうに言い放った。

「五本の煙草も買えねえ奴が何をほざいてんだ! それ全てくれてやるから、さっさと失せろ!」

 リーザはそう男に怒鳴ると、男は「チェッ、なんだってんだ、なんだってんだ!」

とぶつぶつと言いながら、どこかに行ってしまった。

 ソフィヤはそのやり取りの間、ずっと女性の方を見ていて、「きっとこの人は、笑っている時より怒っている時の方が綺麗なのだ」と感じた。

 男が立ち去ると、リーザはソフィヤの方を見て、バツが悪そうに笑った。

「あれは私の元恋人。嫌になっちゃうよね。」

と、煙草の火に話しかけるようにして呟いた。

 リーザは束ねた長い黒髪を解き、顔を横に二、三回振った。そのとき彼女の髪がソフィヤの顔に当たった。リーザはごめんよと言ったが、ソフィヤは気にしていなかった。ただ、長い髪でピアスが見えなくなったことに関して、少し残念に思った。

 リーザはソフィヤの方を見て、

「私はリーザ。あなたの名前は?」

と聞いた。ソフィヤは突然の質問にドキドキしてしまって「ソフィア」と言ってしまい(このとき確かに「ソフィヤ」ではなく「ソフィア」と言った)、すかさず「ソフィヤです」と言い直した。

 リーザは「ソフィヤちゃん、いい名前だね」と言い、三十秒ほどの沈黙の後、「ほんとにいい名前」と呟いて煙草を吸った。リーザは自分のことについて話すときや自分が思ったことを人に伝えるとき、人と目を合わせずに少し俯きながら話す癖がある。そのとき煙草があれば、煙草の火を見ながら話せるため、いつもより落ち着いて自分の話をすることができたのであった。

 ソフィヤは路地裏の暗がりに目が慣れてきた。先ほどまでは暗くて気づかなかったが、リーザの首からは十字架のネックレスがかけられていた。ソフィヤが「それはなに?」

と指をさして聞くと、リーザは首からかけられたそれを手にとり、ぼんやり眺めながら「十字架」とだけ答えた。彼女は信者だった。

 ソフィヤはその言葉を聞いて嬉しくなった。だがなぜ嬉しくなったのか、そのときの彼女には分からなかった。今にも歌い出しそうになるのをぐっとこらえながら、十字架を眺めるリーザの目もとを見た。リーザの目の下にはくまがあり、それが彼女の人生を物語っているように見えた。先ほどの「疲れたね」という言葉は、彼女の本心から出た言葉である。

 彼女はきっと天使の姿を知らない。知っていたら、〈こんなところ〉で煙草を吸っているはずがない。


 リーザのことを知る人間はこの世界において私以外ひとりとしていないのではないか、いやそうであってほしいと、ソフィヤは心から願った。

 そう願う自分に嫌気がさしたが、彼女を見てその思いはすっと消え去った。彼女の悲哀を愛おしく感じ、私なら彼女の全てを理解できると確信した。そして、私の全てを理解してくれる人は、この人の他に誰もいないということを、そのとき瞬時に悟ったのである。

 胎動。

〈生命〉が、ソフィヤの中でとうの昔に息絶えた生命が、まるでその時が来ることを予め知っていたかのように身体の最奥部から顔をのぞかせ、あらゆる喧騒と孤独を吸いつくし、みずみずしい歓喜を携えながら、救済の光を身に纏い、息を吹き返そうとしていた。

 自身の心にポッカリ空いた深くて大きな穴は、リーザという人間を本当の意味で理解するという、ただそれだけのためにある。彼女が導き出したこの〈人生の結論〉を理解できる者は、きっと少なくないだろう。


〈第三部──リーザ〉

 天使。

 知ろうとしたが、分からなかった。

 絵画でよく見る「あれ」は天使ではない。少なくとも「誰かの天使」ではあるが「私の天使」ではない。あれは食事をとることもないし、眠ることもない。欲に溺れることもない。そんなものが私の苦しみを理解できると思えない。なぜそんなものにすがりながら生きる? 何かがおかしい。私がおかしいのか?

 もしかしたら、あれらもご飯をたらふく食べて、昼寝して、街を破壊して、やりたい放題しているのかもしれない。実は私たちよりよっぽど下劣なやつなのかもしれない。だがそれを悟らせない美貌と透き通るほどの神々しさ。選ばれた者たちは、何をしても許される。そういう見た目をしている。

 さあリーザよ。こちらへ来てごらん。死ぬときには、天使が私の手を引き、天上の楽園へといざなってくれる。……正気か。ならば、先日死んだ爺ちゃんはどうなのか。あれを引っ張る天使がどこにいる。似合わない。爺ちゃんを引っ張る天使も、引っ張られて微笑する爺ちゃんも、どっちも似合わない。だから容易に想像がつく、私を引っ張る天使もいない。

 やはり天使は食事をとらないだろう。小さい口でちまちま「嗜む」のか。お上品なことだが、それすら思い浮かばない。厳かな雰囲気の大食堂に長テーブル、椅子、ナプキン、ワイングラス、規則正しく並べられた皿とスプーン、ナイフ、フォーク。それだけ。皆が席につき、互いが互いをコソコソ睨み合って、腹の探り合い、それで終わり。何も食べず、何も飲まない。お喋りはするかもしれない。裁判が行われるかもしれない。あいつは地獄行きでもいいだろうとお得意の「天界ジョーク」を繰り広げて、満足したところでお開き。もし本当にそうだったら、あれらは私たちの敵である。同じ釜の飯を食わないやつは誰であれ敵なのだから、あれらは私たちと、そして同じ種族間でも争うことになる。完全な孤立。孤高。

 その孤立を良しとする時点で、結局のところ、私たちとあれらは分かり合えない。私たちは天使のことを理解できず、天使は私たちのことなど微塵も興味ない素振りで「全てをゆるす」などとぶっきらぼうに言ってくる。偽善。また天使の姿を知ったふうに口を利くやつも、同じく偽善。

 神はどうか。あれこそ可哀想な存在だとは思わないか。天使は「全てをゆるす」と言いながら、どこかへ行ってしまいそうな気配がするが、神は逃げることも隠れることもできない。「全てをゆるす」と言ったら、本当に全てを許さなければならない。街で難癖つけて絡んできたあのどクズ人間も許さなければならない。煙草をやめろと口酸っぱく言い、私は煙草を吸わないから云々とマウントをとってくる「自称友達」も許さなければならない。職場のお局ババアも許さなければならない。なんと可哀想に! 神はあんなやつらと目を合わせなければならない! あんなやつらのために貴重な時間を使わなければならない! 神はあわれだ。だが私の知ったことではない。

 あんなやつら、ひとまとめに地獄に放り込んでしまえばいい。たらふく飯を食わせて、ドロドロに溶かして、つぎ生まれるときは私の脳細胞の一部になると良い。頭を叩いて一瞬で死滅させてやる。

 天使は私を助けてくれない。神は助けてくれるかもしれない。それでも私は、神よりも天使を愛おしく思う。

 救いの手をひっぱたいて天使を選んだ私は罪人か。であれば何だ、いっそのこと悪魔崇拝でもするか。嫌だ。あれはまだ神秘主義の檻から抜け出せていない。あれこそ、いの一番に脱兎のごとく檻から抜け出すべきもののはずなのに。神秘主義に囚われているのは、神でも天使でもなく、悪魔なのである。まったく馬鹿げている。あんなものと一緒にしないでほしい。

 結局、私は自分の居場所を見つけられずにいる。居場所を失くした人間から死んでゆくのがこの世の真理。もはや逃げ場はない。居場所すら見つけられないのに、逃げ場などあるはずがないだろう。

 私は死ぬと思っていた。何も分からないまま、惨めな思いをしながらひとりで死ぬと思っていた。だがそれは先ほどまでの話。

「天使ってどんな姿をしているの?」

 その質問に対して、私は分からないと答えた。ごめんねと言おうとした。するとあの子はえへへと笑い、「私も」と言った。

 白いワンピースの似合う少女。あれは、〈羽をもがれた天使〉であった。欠けているからこそ、神聖なのである。

 彼女が帰ったあと、私も帰ろうとしてふと地面を見た。煙草の灰が落ちている。雲間から夕陽が差し込み、地面と灰を赤く染める。夕立が来る前に帰らなければ、そう思ったのだが、煙草の煙が目に入って涙が止まらなかった。


 私はもうあの路地裏に立ち寄ることはない。あそこは私の居場所ではなく、逃げ場でもない。ただ煙草を吸うために入り込んだだけの場所。あの場所に通い続ければ、それだけでこの世は地獄になる。私はあの場所に一度だけ行ったから、あの経験を永遠のものにできる。

 依然として居場所は見つからないし、ひとりで死ぬことは変わらない。ただ、そんなやつでも生きてて良いらしい。あの子にそう言われた気がした。

 あのクソ元彼と関わるのは面倒だから、こことは別の街で生きるとしよう。思えばこの街は嫌いだった。でも、今は違う。あの子が暮らすこの街を愛してあげたい。そのためにこの街から離れる。そう、あのクソ男から逃げるためじゃない。あの子の人生が良い方向に進むのを祈るためには、ここではない方が良い。

 人のために祈る、そんな日が来るとは思ってもみなかった。

 良い人生だ。

 もう誰も許してくれなくて良い。その代わり、あの子をのぞいて誰も許さない。これは恨みではない。宗教の力を借りずとも生きていけるようになった私の、世界への抵抗の第一歩である。



〈第三部──祈りと愛の娘たち〉

 ソフィヤはあれ以来、リーザに会えていない。あの路地裏も何度かのぞいてみたが、そこに彼女はいなかった。近くの教会に立ち寄ってみたこともあったが、そこにも彼女の姿はなかった。

 でもソフィヤはそれで良いと思った。生きていればいつか逢えるかもしれない、それで十分だった。煙草の匂いでリーザのことを思い出して寂しくなることはあったものの、その寂しさでさえ、リーザを忘れる苦しみに比べればあまりにも些細なものであるように思われた。

 ソフィヤはかつて友人から譲り受けていた聖書を読んでみた。そのとき聖書を譲り受けたのはただの気まぐれだったが、そうした気まぐれがいつも彼女を救うのである。

 聖書を読んだ人が皆、信者になるわけではない。それはソフィヤにとっても例外ではなかった。だが彼女は聖書をいつでも肩身離さず持っていたため、人々はソフィヤを熱心な信者だと思い込んだ。

 また、ソフィヤは小説を書いた。架空の登場人物によって構成された小説だったが、リーザについて書いたということは容易に想像がつく。

 ソフィヤはそれを誰にも見せず、いつかリーザに逢ったときに、彼女にだけ見せようと考えていた。ソフィヤはその小説に『マーマレード・レコード』という題名をつけた。


 以上が第三部となる。本来ならここで終わるつもりだったが、ソフィヤの書いた小説について語らないわけにはいかない。私の拙い話の締めくくりとして、第三部のエピローグという名目で『マーマレード・レコード』について話していこうと思う。時間の許す限り、お付き合いいただきたい。

〈『マーマレード・レコード』〉

「あなたの夢の結末と、その延長線上にある祈りと愛の物語。私が信じたあなたならきっと、悲劇の物語をハッピーエンドに変えられるはずです。」


 ソフィヤが書いた小説、『マーマレード・レコード』。この小説はSFであり、恋愛小説でもある。舞台は人々が眠りから目を覚まさない街、通称「仮想郷」。主人公であるノイエ・カイトは「眠衆課」の職員であり、夢と現実を行き来して調査を行い、「眠囚病」の原因を探る。

 仮想郷の人々は「眠衆」と呼ばれており、彼らを襲う原因不明の病を「眠囚病」という(風土病ではないかと言われているが、詳しい原因は分かっていない)。全ての市民が眠囚病にかかっているわけではないが、罹患者は増え続ける一方で、仮想郷や国は対策に追われている。

 眠囚病はその名の通り「眠りに囚われる病」であり、罹患すると目を覚ますことなく延々と眠り続ける。食事や水分をとらず、排泄もしなくなるため、何もしなければ一週間もせずに死んでしまう。延命治療が施された場合でも長く生きられるわけではなく、罹患すれば直ちに余命一年が宣告される。

 仮想郷の人々が眠衆と呼ばれていることは先ほど話したが、皮肉なことに彼らほど眠りを恐れる人々はいない。眠らないよう酒や薬物に手を出す人もいれば、暴動を起こす者たちもいる。眠囚病を恐れて遠くへ引っ越す人たちもいる。また、希死念慮を持つ人たち(若者が多い)がこの街に引っ越してくるという問題もある。それら諸問題について小説内では詳しく書かれているが、ここでは割愛させていただく。

 主人公のノイエ・カイトは眠衆課所属の青年であり、特殊な装置を用いて罹患者の夢の中に入り込み、夢の調査を行う。なぜ「夢」なのかというと、眠囚病の原因として、睡眠時に見た夢を現実世界と誤認して、そこから抜けだけなくなっているのではないかという学説があるからだという。

 ノイエ・カイトは調査を進め、いくつかの知見を得た。例えば、眠囚病患者は皆、夢の中で絶望や恐怖、怒り、不安を感じることがない。また、夢の中で欲望に溺れることがなく、食事も一切とらない。「眠る」こともない。

 ノイエはひとつの仮説を思いつく。それは、眠囚病患者は皆、夢の中で夢=理想を見ているのではないか、というものである。彼の仮説は特段珍しいものではないが、彼は次のように付け加えた。

「〈夢の夢〉とは「崇高」である。だが我々は、自らの意思で夢の夢に向かうわけではない。眠囚病患者の無意識にある「何か」が我々を夢の夢へと誘うのである。」

 彼の言う「何か」を取り除くことができれば、(彼の理論上では)眠囚病患者は目を覚ます。ただその「何か」をどう取り除けば良いのか分からない。

 いや、そもそも「何か」を取り除くべきなのか。夢の中で幸せに生きることは、果たして「悪いこと」なのだろうか。


 彼はローゼンという眠囚病患者に出会う。ローゼンの夢の中でノイエとローゼンは話す。

「ここは居心地が良い?」

「そうね、この世界には辛いことも苦しいこともない。」

 ローゼンは夕空にこぢんまりと浮かぶ飛行船を眺めながら、どこか寂しそうにつぶやいた。

「夢の中の人たちはみんなそう言うよ。何でも自分の思い通りだから、嫌なことや面倒なことは一切ないんだって。」

「そうかもね。うん、そうなのかも。」

 ノイエとローゼンはゆっくりとこちらへ向かってくる飛行船を眺めた。遠くからだと空を飛ぶ鯨のようにもみえたが、近くで見るとたくさんの小さなプロペラが無造作に突き刺さっており、さらに近づくと片翼が欠けているのが確認できた。「あれでよく飛べるなぁ」とノイエがつぶやくと、「だって夢だもん」とローゼンが笑った。ノイエが夕空に視線を戻すと既にそこに飛行船はなく、片方の羽が傷ついた蝶々がひらひらと舞い落ちるところであった。ノイエは咄嗟に両手を差し出し、水をすくうようにして蝶々を優しく包み込んだが、それは焚き火が爆ぜるようにパチンと音を立てて、錦冠菊のごとく華やかに、儚く消えていった。

 ローゼンがどこからともなく椅子を持ち出して腰掛けた。彼女は「さあどうぞ、まれびとさん」とノイエに椅子を差し出した。ノイエは「ありがとう、失礼するよ」と言って座った。

 ローゼンの夢の中には太陽が存在していなかったが、淡い夕焼け空がはるか遠く地平線まで続いていた。椅子に腰掛けたふたりは変わることのない景色を眺め続けた。

「ずっとここに居続けたい?」

 その問いの答えをノイエは知っていた。案の定、ローゼンは頷きながら「うん、できればずっと」と答えた。

「でもここでは煙草を吸えないから、ちょっと物足りないと思うことがある。」

 ローゼンのこの言葉にノイエは驚き、そして安堵した。「そうなんだ」と素っ気なく相槌を打ったのは、ローゼンの言葉に興味がなかったからではなく、むしろそれの意味について深く考えはじめていたからであった。

 短い沈黙の後、再びローゼンが口を開いた。

「あと、話し相手がいないから、少し退屈。」

「話し相手を作り出すことはできないの? さっきの飛行船みたいに。」

「作り出せないこともないけど、虚しいじゃない? 会話は全て私が考えて、私が発して、私が聞く。そうだ、〈我思う故に我あり〉という言葉はあなたも知っていると思うけど、あれはずるいよね。」

「ずるいってどういうこと?」

「この話の続きはまた今度。どうせもうすぐ時間でしょうから。また来て頂戴ね。」

 ノイエが夢の中に居られる時間には限度があった。「わかった、また来るよ」と言い、彼はその場から姿を消した。

 だが現実は非情なもので(分かりきったことではあるが)、次の日からノイエは眠囚病に罹ってしまうことになる。このような状態ではふたりが再会するのは絶望的だと思われた。

 しかしノイエとローゼンは奇跡的に再会する。ローゼンが目を覚まし、ノイエのもとに赴いたのだ。眠囚病患者が目を覚ましたのはこのときが初めてであり、学会は彼女に注目した。彼女は覚えていることを全て話した。

 ローゼンは眠るノイエのそばに腰掛け、彼に語りかける。

「ねぇノイエさん。なんで夢を見ていないのよ。これじゃ逢いに行けないじゃない。」

 彼は眠囚病患者の中では珍しく、夢を全く見ていなかった。


 余命、一年。

「あなたが退屈しないよう、毎日話しに来ますから。」

 彼女はその言葉通り、毎日彼のもとに通い、その日あった出来事や美味しかったお店のこと、上司の愚痴などを話した。気に入った本や人から聞いて面白かった物語について話すこともあった。なにも話すことがない時は黙って彼の隣に座り、「早く目を覚まして頂戴ね」などと呟いてみた。


 余命、十一ヶ月。

「私が夢の中でどれほどあなたを待っていたか、分かりますか? 出来ない約束なんかしないでください。」

「なんてね。面倒くさい女は私だって嫌いです。昨日も会ってすぐに「煙草やめなよ」って言ってくるんです。ほら、この前話したあれ。金持ち自慢するあれ。てめぇのケツ拭いたトイレットペーパーを口に放り込んで、喋れなくしてやろうか。おっと、今のは水に流してください。」

「ああ、そういえば、そのときノイエさんの話になったんです。「あなたの彼氏、眠囚病になったんですって、かわいそうに」というもんですから、「あれは私の彼氏じゃないし、あんなやつ痰まみれの路上でくたばっちまえば良いんだ」と言っておきました。おっと、本音が出てしまいました。」

「早く目を覚ましてください。願いは届くでしょうか。……いえ、届きませんよね。私も子どもじゃないんだから、それくらい分かります。」

「ずっと子どものままいられたら良かったのに。あの頃みたいに馬鹿のままいられたら、どれほど楽だったか。最初から叶わないと分かっている大きな大きな願い事。短冊に書いて竹に括り付けたら、竹ごとへし折れそうな願い事。そういえば、そろそろ七夕ですね。でも今年は雨みたいです。残念ですね。」

「大人になるにつれて、身体は丈夫になっても心の方はみるみる弱くなっていくんです。前も話したかもしれませんが、昔は身体が弱かったんです。同情はいりません。過去のことについて同情されたってなんにも嬉しくないですし、今はもう丈夫なので。」

「その代わり、心は弱くなりました。何かを背負っているわけでもないのに、身体が沈んでいくんです。もう一度、眠囚病になれたらいいのにと思ってしまう自分がいる。いけませんね、こんなこと。でも話すと少し楽になるんです。毎日通っているんですから、少しぐらい私の役に立ってもらわないと。」


 余命、十ヶ月。

「今日も暑いですね。夏は嫌いです。蒸し蒸し、ベタベタ、不快です。でもここはエアコンが効いていてとても良い。」

「もしノイエさんが目を覚まして、そのとき私のことを覚えていなかったら、私はあなたを殴ります。呪います。覚悟してください。」

「そのときにもし私がいなかったら。……手紙を残しておくべきでしょうか。いえ、私のことを思い出せないのであれば、私のことなどすっかり忘れて悠々自適に生きると良いです。そもそもノイエさんにとって、私は夢の中でたった一度会っただけの、ただの眠囚病患者ですから。」


 余命、九ヶ月。

 この頃からローゼンは、時間があれば本を手に取り、寝る間も惜しんで本を読むようになった。手当り次第に難解な本を読み進めていく様は、まさしく象牙の塔の住人である。

 彼女は何を知りたかったのか。それは彼女自身でさえ分からない。


 余命、八ヶ月。

「この前、面白い本を読みました。あ、カバンに入れてあるんですよ。えっと、あった。ほら、これです。ノイエさんも題名くらいは知っていると思います。本当はこの本について話すかどうか迷っていたんです。というのも、読み終えた当初は、この本の良さが分からなくて、こんなクズ主人公の何が良いのか分からなかったんです。でも、ある時ふと気づいたんです。「私、こいつとそっくりだな」って。」

「起きたら読んでみてください。ええ、起きれるもんならね。」


 余命、七ヶ月。

「眠囚病に罹れば、致死率はほぼ100%、考えてみれば恐ろしい病気です。かつては「ほぼ」という言葉さえ不要で、絶対に死ぬ病として人々から恐れられていたわけですが、それは私という人間によって覆されたわけです。」

「でもね、ノイエさん。いい事ばかりではないんです。当然ながら私は世間から注目されることになります。私を神のように崇める人もいれば、僻みを言う人もいます。なので最近は仕事と買い物とノイエさんに会う時以外は、外出を控えるようにしました。このままでは、悪い意味で象牙の塔の住人になってしまいそうです。」

「この病気に関して、原因が特定できていないこともあって様々な憶測が飛び交っています。終末論や陰謀論などが年齢や所得を問わず、意外と多くの人に支持されているのは少し危惧すべきことかもしれません。でもこの病気に関しては本当に分からないことだらけなので、陰謀論を信じたくなる気持ちは少しだけ分かります。罹患者の夢の中があんな感じなのですから、尚更そう思うでしょう。」

「また、眠囚病に対する捉え方についても色々と議論されていて、ノイエさんたちの研究などもその議論の対象となっているようです。ノイエさんの研究については、あのとき夢の中で教えてもらったのでだいたいは知っていますが、今度あなたの同僚の方に会う機会があるので、そのときに詳しく聞いてみます。」


 余命、半年。

「今日も寒いですね。冬は嫌いです。冷え性には辛い季節です。あっそうだ、同僚の人から聞きました、ノイエさんも冷え性なんですってね。」

「そういえばそのときに、ノイエさんが書いた調査報告書を見せてもらいました。夢の夢について、でしたっけ。難しい内容です。特別に印刷してもらえたので、改めてじっくりと読んでみます。」

「それと、今日はノイエさんの誕生日です。おめでとうございます。先ほど親御さんも来ていましたね。私もついさっき親御さんとお話させていただきました。いつも思いますが、本当に優しい方々です。あなたとは似ても似つかない。」

「しょうがないのでケーキを買ってきました。でもこれは私が食べます。二人分食べます。太ります。それと、お花。この花で顔を叩けば、ほらおめめパッチリ。」


 余命、五ヶ月。

 ローゼンはノイエ・カイトの書いた「眠囚病に関する調査報告書」を読み、あることに気がついた。それは、ノイエの言う「何か」についてである。

「何か」は突然現れ、人々を夢の夢へと誘い込むのか。違う。「何か」が現れる兆候がある。

 その兆候をローゼンは〈マーマレード〉と名付けた。なぜマーマレードなのか。彼女曰く、その兆候について発見した日の朝食にマーマレードを塗ったパンを食べたから、ということらしい。また、この名称はいわゆる「通称」であり、正式名称は他にあるということだが、いまだに正式名称は明らかにされていない。

 ではそもそも〈マーマレード〉とはどういう現象なのか。彼女はその現象について「映画などの予告、もしくは本の裏表紙に書かれたあらすじに近い」と話したことがある。どういうことか。

 彼女によると、夢の夢に完全に囚われる前にある夢を見るという。それが「予告」(あるいは「あらすじ」)であり、予告に魅了された人々がノイエの言う「何か」によって夢の夢に引き込まれる。

 では、その予告に魅了されなかった者はどうなるのか。そもそも魅了されないことなどありえるのか。彼女はそれについて次のように語る。

「私たちは〈マーマレード〉がもたらす感動と興奮から逃れることはできない(マーマレードが塗られたパンが目の前に置かれて、それを食べないという選択肢はありえるのか?)。なぜなら私たちは、それを望まなければならないほどに疲れている。それを望まない者は、もはやその者自身が夢の住人なのである。」

 また彼女は、兆候〈マーマレード〉によって顕現した「何か」の名称を考えたのだが、それこそが本作の題名にもなっている〈マーマレード・レコード〉なのである。なぜ〈レコード〉なのか。彼女はその理由を詳しく説明していないものの、その真意に近づくことはできそうだ。ここで〈マーマレード・レコード〉の性質について簡単に触れていきたい。

 私たちは「何か」を直接見ることはできない。まさしく眠囚病の黒幕として、人々を生きたまま永遠に眠らせる。ただし先ほども話したように、私たちが夢の夢へと吸い込まれる直接の要因は〈マーマレード〉であるため、「何か」が果たす役割はあくまでも「誘導」あるいは「道案内」に過ぎない。もちろん、広大で無秩序な夢の中において、道を示すという行為は容易なことではない。だがそれが完全なるシステムのもとで行われるとしたらどうか。つまり、「何か」とは技術であり、機械であり、記号の羅列である。そしてここが最も重要なのだが、夢の夢まで続く道を案内するためには、経路(夢の夢に続く道以外のあらゆる道も含めて)が記録されていなければならない。その意味において「何か」とは記録媒体である。

 数ある記録媒体の中でローゼンはレコード=音盤を選んだ。その理由について彼女は〈夢の夢〉と音(もしくは声)との関連性を示唆したが、それ以上のことは語らなかった。


 余命、四ヶ月。

 ある人が「眠り姫は百年後に目覚めるが、眠囚病患者は目覚めることができない。なぜか」と問う。別の人が「神が死んで、祈りも死んで、愛も死んだからさ」と答える。

 これは眠囚病が世界に広く知れ渡るきっかけとなった、とある映画のワンシーンである。かつてのローゼンには分からなかった「深み」が今では手に取るように理解できる。

 ちなみに、このやり取りを聞いていた主人公は「まだ百年も経っていないじゃないか」と言う。かつては希望の言葉だったが、眠囚病に罹った人の余命が一年余りであることが判明した現在、この言葉は皮肉にも「神と祈りと愛の死」を象徴するものになってしまった。


 余命、三ヶ月。

「少しおしゃべりをしましょう。そうですね、神について。髪の毛ではなく宗教の方です。でも宗教の勧誘ではありません。もっと根本的な話、眠囚病が蔓延するこの世界において、最も重要な話です。そもそも神とは何でしょう?」

「創造者、この世を統べる者、ヒエラルキーの頂点、絶対者、理想、崇高、或いは真理。色んな言い方ができますね。要は、上に居る人。おっと、人ではありませんでした。あなたの言葉を借りれば、「上にいる何か」となるでしょうか。」

「でも、別の考えもできると思うんです。それは、〈「回り続ける世界」の中心〉。」

「この世を縦と横に分けるとすれば、縦は弱肉強食の世界、横は自然淘汰の世界となります。縦の神は上にいて、横の神は真ん中にいる。言い換えれば、どちらも一番目立つところにいる。」

「上にいる神はただひとり。弱肉強食の頂点ですから。しかしながら、真ん中にいる神は人によって異なります。なぜか、あなたは既に知っているはずです。だからあなたはそれを「何か」と形容するしかなかった。」

「生きたいと願う者は、上の神に祈り、死にたいと願う者は、真ん中の神に祈る。そして、それらの願いは叶わない。皮肉を言うと、全ての願いは叶っているんです。」

「ねぇノイエさん、〈「回り続ける世界」の中心〉の弱点って知ってます? それは、中心が少しでもズレたら、たちまち目を回して倒れてしまうということです。ええ、今のあなたのように。」


 余命、二ヶ月。

「小説を書いてみることがあるんです。でも私の書く小説は、いつも、主人公がどこかに行ってしまう。書いているうちに主人公よりも、主人公のそばにいる人に感情移入してしまっているんです。」

「なぜでしょうか。主人公が嫌いだからでしょうか。それとも、主人公が成長して、私が成長しないからでしょうか。」

「私はときどき、別の生き方ができたんじゃないかと思うときがあるんです。もっと明るく生きられたんじゃないか。もっと楽しく生きられたんじゃないか。何かのきっかけで人生が豹変する瞬間を願うときがあるんです。」

「自分ではない誰かになりたいと思う気持ち。そういう気持ちが小説に出てきてしまうのかもしれません。それならば、主人公を自分とは全く違う人間として書くべきなのでしょうが、それもまた難しい。誰かになりたいという気持ちとともに、誰かから愛されたいという気持ちもあるから、そういうところも書いておかないと気が済まないんです。小説を書くのって、難しいですね。」


 余命、一ヶ月。

「死んだと思っていたものが実は生きていた。そんなこと、基本的にはありえない話ですが、死体が確認できていない場合はその限りではありません。別の言い方をすると、肉体を持たないものは、その死体を確認することができないため、死なない。正確に言うと、死んだと思われていても、別の形でひっそりと生きていることがありえるわけです。」

「例えば、祈りとか愛とか、そういったものは、死んだように見せかけて、別のところで生きているのではないでしょうか。ではどこで生きているのか。私は「歌」ではないかと思っています。」

「私たちの最後の砦が歌だとしたら、歌が死んだらどうなるのでしょう。私たちは死ぬのでしょうか。死ぬ、というより動かなくなるのかもしれません。いいえ、動きを止めているようにみえて、実は忙しく動き回っているのかもしれませんね。」


 余命、一日。

「ノイエさんの調査報告書を読んでみた、ということは、以前話したと思います。」

「ずっと考えていました。ねぇノイエさん。あなたの〈夢の夢〉ってもしかして「この世界」なのでは? そんなことありえますかね。人は笑うかもしれません。でもやはり、私にはそう思えて仕方ないのです。あなたの調査報告書を私が誤読していなければ、私の仮説は間違っていないだろうと思います。今までのこと全部があなたの思い通りということになれば癪に障りますが、さすがにそういうことはないでしょう。夢の夢とて万能ではないのです。それは一度、夢の夢という檻に閉じ込められた私だから分かることです。あなたの言う夢、つまり理想は「誰かの理想」であって、「私の理想」ではありませんでした。ええ、そうは言っても、夢の中で飛行船を作り出すことはできますし、椅子に座ることもできます。欲望というものが極端に抑圧されている、それを除けば悪くない場所でした。」

「歌ってみましょうか? 夢でもし逢えたら、素敵なことね。やっぱり上手く歌えません。私の歌が下手なのはあなたの夢のせいでしょうか。きっとそうです、許せません。」

「この一年で私、すごいおしゃべりになってしまったんですけれど。それを聞いているあなたもきっと、すごいおしゃべりになったはず。あぁ本筋から逸れてしまいました。閑話休題ですね。」

「この世界があなたの夢の夢ならば、あなたはきっと起きているのでしょう。少なくともあなたはそう思っているはずです。そして、ここが夢の夢なら、あなたの言う「崇高」も「何か」もどこかにある。」

「〈神の視座〉の解体はあなたに任せるとしましょう。神なんて居てもいなくてもどちらでも良いものですし。問題は「何か」です。「何か」をとっぱらわないと目を覚まさないのですから。」

「えぇ、あなたにとっての「何か」の正体ははっきりしています。それを追い払うかどうかは私次第です。楽しくなってきましたね。あなたがどんな顔をして目を覚ますのか。そのご尊顔を拝めないのが残念ですが、まあ仕方のないことです。私が聡明な女で良かったですね、ノイエさん。」

「嘘つきで意地悪なノイエ・カイトさん。私はあなたのことが大嫌いでした。さてと煙草でも吸ってきますか。」

「あ、最後にひとつだけ。これはあなたが目を覚ましたときに話そうと思っていたことです。もう奇跡は信じませんから、話してしまいます。」

「〈我思う故に我あり〉はずるいと言ったことを覚えていますか? あれはずるい。だって〈そこ〉には私しかいないのですから。」

「私しかいない世界。そんなところで〈我思う故に我あり〉と宣言しても、虚しいだけです。たとえ〈我思う〉が外部から要請されたものだったとしても、そんなこともはやどうでも良い。鏡に向かって叫ぶとあら不思議、私と鏡の間にあった溝がさらに深くなる。魔法のような言葉です。」

「普通、〈我思う〉に他者が必要だったとしても、〈我あり〉は自分の内側で芽生えるものだと考えられている。でも違う。違う気がする。それではあまりにも〈我あり〉が神格化されすぎてしまう。孤高の存在になってしまう。私たち人間は「寂しがり屋」です。あなたは知らないでしょうけど。」

「私は〈我あり〉という言葉こそ、他者の口から語られるべきだと思います。そうなると〈我あり〉ではなく〈あなたあり〉になっちゃうかもしれないけれど、そういうことではないんです。あなたの心の中に私がいること、それこそが〈我あり〉。」

「あなたが私を忘れないでいてくれること、そう願うこと。それが私の考える、新しい〈我思う故に我あり〉です。」

「私の心の中にあなたはいます。だからあなたは生きていられる、なんてことは言いません。あなたが生きているのは、あなたが生きたいと願っているからです。でもその願いの根源に私がいるのであれば、それほど嬉しいことはありません。」

「あなたの心の中に私はいるでしょうか。ええ、もちろん私はあなたのことが大嫌いです。」

「私は先に行きます。さようなら。あなたの夢の続きでまた逢いましょう。」

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