第五話 三日月斬り(1) ~パルシャー陣営の動き~
ライアス帝国、パルシャー王国の係争地であるアンティノー地方には二つの大河が流れていた。北側を流れる河川がテン川、南側をユラ川と言う。
この地方は基本的には乾いた気候なのだが、この両河川に挟まれた地域は肥沃な土地が広がり、灌漑も整備され、重要な穀倉地帯となっていた。
そして、この両河川の上流部をアンティノー地方、下流部をビーロン地方と呼ばれている。ビーロン地方の最下流、河口部にはパルシャー王国の王都バースが存在する。
かつてはビーロン地方とアンティノー地方の境界に程近いシオンという都市が王都であったのだが、アンティノー地方を割譲してしまったために、王都と国境が近くなりすぎてしまった。これを危惧した現国王ウワードが第二の都市であったバースに遷都したのだ。
なお、現在のシオンは国境に程近いこともあって、国境防備のための駐留軍が常駐しており、油断なく帝国側を監視していた。
だが、それも終わる。屈辱の敗戦から十数年、ついに反攻作戦をウワードが決断したのだ。
前回の戦での敗因は二つ、ライアス帝国側の最高司令官たるユリウスが軍事の天才であったこと、もう一つは北方の騎馬民族エフル族と帝国の同盟、この二つに集約されていると言っても良い。
どちらか片方だけであれば、河の防備や豊富な兵力を活かし、勝つことは難しくはなかったはずだ。
だが、パルシャー王国は破れた。堂々と正面から進軍する帝国軍に対して、北方から縦横無尽に駆け抜けるエフル族の騎馬軍団に翻弄され、弱まった防衛戦をユリウスに突かれ、戦線が崩壊した。
これにより、パルシャー王国はライアス帝国に対して、アンティノー地方の割譲することとなり、エフル族に対しては多額の金品に加え、それまで誘拐した万を超す住人のことを“忘れる”ように言い渡された。
あの敗戦によって、パルシャー王国は土地も、金も、人さえも奪われたのだ。恨み骨髄のウワードは報復を誓い、機が巡って来るまでひたすら国力増強に務めた。
そして、ついに待ちに待った気がやって来たのだ。
まず、ライアス帝国皇帝ユリウスの死だ。あの恐るべき指揮官がいなくなった以上、ライアス帝国軍の力は確実に落ちると踏んだ。実際、後を継いだユリシーズは軍事に関しては素人同然であり、前線の指揮官にもこれと言っためぼしい人物も聞かない。
なにより、エフル族で後継者争いによる内部の対立が激化して、軍を動かせない状況に陥ったことだ。
ユリウスとエフルの騎馬部隊、ウワードを悩ませた二つの要素が、両方消えたのだ。なにより、国力増強とそれに伴う軍の調練を行い、準備は完全に整った。
もう、ウワードに躊躇う要素は何一つなくなった。直ちに軍に対して招集をかけ、防衛の拠点であったシオンはたちまち攻撃の拠点へと早変わりした。
そして、ついに挙兵。奪われたアンティノー地方を、なにより蹂躙された民族の誇りを取り戻すために、パルシャー王国軍はシオンを出撃した。
その数は四万に達し、さらに後続も数万に及ぶ大軍であり、ウワードの本気度が伺えるというものであった。
これに対して、ライアス帝国軍は戦わずに後退し、アンティノー地方の最大都市であるティルノモスまで軍を引いたのだ。そして、戦力を集中させ、その数は三万に達していた。
ここでライアス帝国軍は致命的な失策を犯していた。というのも、この地方は乾燥地帯であり、二つの川縁を除けば、大軍を動かすのにどうしても水が不足がちになるのだ。そのため、行軍に際しては、川岸を通るのが常道であった。
もし、予想進路に蓋をしてしまえばたちまち行軍を阻害できるのに、それすらやらずにさっさと後退してしまったのだ。
一応、グーダという場所に防衛用の砦があるのだが、予算不足で補強が遅れに遅れ、予定の半分も工事が進んでいなかったのだ。これでは守り難しと判断し、駐屯部隊は自他の戦力差を考え、砦を放棄してしまった。
これではやむを得ないとアンティノー地方の他の駐留軍や、近隣地区からの増援もティルノモスにこもらざるを得なくなった。
かくしてグーダの砦は無傷でパルシャー側が手にすることとなり、四万の軍勢の駐屯基地に早変わりした。
「ふん、帝国の愚か者共め。みすみす国境の砦を明け渡すなど、バカにも程がある。優先的にここを補強しておればよかったものをな」
グーダ砦の一室にて、パルシャー側の司令官アッシュ将軍の罵声から会議が始まった。諸将を集め、今後の行動や情報の共有を行うためだ。
「それで、敵軍の同行はどうなっておるか?」
「ハッ、ライアス側はティルノモスに戦力を集中させたようで、その数は三万を超えているものと思われます」
事前の情報や予想を超える範囲でなかったため、諸将の顔色に変化はなく、会議は続いた。
「あそこはなかなかに強固な都市だが、同時に弱点もある。まあ、見ておれよ」
「おお、そう言えば、将軍はかつてティルノモスの守将であったとか」
「いかにも。だからこそ、陛下は私に“奪還”を命じたのだ。あの城の癖は知っておるから、安心して私の指示に従ってくれたまえ」
自信満々の司令官の言葉にその場の誰もが高揚し、勝利を疑う者はいなかった。
「そう言えば、ノァグラドから援軍が向かっているとの報告もあったが、これの続報は届いてはおらんのか?」
「それにつきましては、いささか奇妙な点が・・・」
将の一人が立ち上がり、密偵から届いた報告を神妙に話し始めた。
「まず、奴らの本拠地ノァグラドにて、“誇官の儀”が執り行われたの事。その援軍の指揮官の就任を祝う名目で」
「“誇官の儀”じゃと?」
ライアス帝国の慣習についてもある程度知っていたアッシュは目を丸くして驚いた。長くライアス帝国と戦ってきたアッシュであったが、“誇官の儀”が執り行われたという記憶は頭になく、ずっと昔に廃れた風習だとばかり思っていたからだ。
「一応、過去の記録に触れてみましたところ、二十年ほど前にあのユリウスが将軍に就任した際に執り行われたとのことです」
「嫌な名前を思い出させるな」
アッシュは露骨に不快感を示した。なにしろ、その名の人物こそ、パルシャー側に苦杯を飲ませた張本人であり、死んでもなおその名を聞くとは思ってもみなかったのだ。
「あやつの再来だとでもいうのか、援軍の将は!?」
「それはないでしょう。アクトという名の将ですが・・・、とにかく若い。なにしろ、まだ二十歳になったばかりの若造で、最近になって軍団を一つ任されたそうです」
「二十歳で軍団の指揮官だと!?」
アッシュを始め、報告を聞いた諸将は驚きの色を隠せなかった。今まで、二十歳の将軍など聞いたこともなかったからだ。
「ただ、皇帝のお気に入りらしく、無理矢理出世させたとのもっぱらの噂です。誇官の儀もその箔付けだとかどうとか」
「皇帝の七光りで異例の出世か」
話を聞いた途端にアッシュはアクトの事を軽んじ、鼻で笑った。若くて実績もない者を将に据えるなど、軍を軽んじている証拠だと、ユリシーズに対しても侮蔑の感情が湧いてきた。
「なかなかに優秀な皇帝だと聞いていたが、軍事に関してはド素人か。これでは余程の信頼と実力のある者が補佐をせねば、この先苦労続きだろうな」
アッシュの嘲りに、周囲も頷き、あるいは笑い飛ばして賛意を示した。
「もしやすると、アンティノー地方どころか、さらに深く食い込んで、もっと奪えるやもしれませんな」
「うむ。たが、まずはアンティノー地方だ。ティルノモスを落とし周辺を押さえ、確たる支配地域とする」
アッシュには浮かれも油断もない。かつての雪辱を果たすまでは、油断も慢心も許されないからだ。確実に勝って、ウワード王に勝利を献じ、かつての敗北によって下がった威信を復活させねばならなかった。
「で、今後の予定であるが・・・」
「急報! 急報!」
話を続けようとした時、伝者が血相を変えて会議室に飛び込んできた。何事かとアッシュも諸将もそちらに視線と意識を集中させた。
「ティルノモスに向かっていた敵の増援が、一夜にして姿をくらましました!」
「なんだと!?」
その場の全員が驚愕の声を上げた。万を超す集団が消えてしまうなど、あってはならないからだ。
「逃げた、と考えるのは都合が良すぎるでしょうか?」
「当たり前だ。経験の足りん若造とは言え、逃げるなら全員を見失うなどあり得ん。意図的に隠したのだ」
ならば、なぜ隠す必要があったのか、アッシュは静かに考え込み、そして結論に至った。
「奇襲、だろうな。寡を以て衆に当たる場合、奇襲以外に考えられん。若造め、意外と大胆な真似をしおる」
アッシュはアクトの事を見直した。大胆な行動は若者の特権であり、それを万単位の部隊で実践してみせたからだ。
「だが、奇襲にしろ、伏擊にしろ、それは相手にばれていないからこそ威力が発揮されるもの。今は補足できずとも、来ると分かって備えておれば問題ない」
アッシュは机の上にある地図に目を落とし、何ヵ所か連続して指で突いた。
「待ち伏せ、あるいは奇襲に適した場所は把握しておる。バカめ、アクトとやら、私がアンティノー地方に暗いとでも思っているのか。元々は我らの土地であるのだぞ。計を謀るにしても、底が浅いわ、若造め。土地勘のある者に、奇襲は通じん。まして、いなくなったのが知られてしまえばなおのことよ」
「では、偵察の数を増やし、奇襲に備えるとしましょうか。進軍速度も少し緩めて、警戒を強めにして、進みましょう」
「だな。あと、問題があるとすれば・・・」
アッシュの睨む地図の上には、ティルノモスの文字があった。
「一番厄介なのは、ティルノモスに取り付いて攻城戦に取り掛かっている最中に、横槍を入れられることよな」
「十分に考えられることです」
攻撃と防御を同時にするのには限界があり、それによる混乱を狙ってくることは十分に考えられた。しかし、諸将の不安をアッシュは笑い飛ばした。
「警戒する必要はあるが、消極的になることもあるまい。どうせ、城に籠っておるのは、戦わずに引くような士気の低い面々。しかも、すでに“内部”には間者が潜ませてある。クック、事前の準備の差が出るのが戦というものだ」
指揮官の余裕ぶりに諸将も安堵し、やはり勝利は手の内にあると確信を得た。
「では、諸将よ、明日より進軍を再開する。各々、準備は怠りなくな。警戒を強めにして、ティルノモスに向かうぞ! ただし、一部の部隊をこの砦に残す」
「ここに、ですか?」
「うむ。もし、ワシがアクトの立場であった場合、先程の奇襲する場所を、この砦に設定する。ワシらが城攻めにかまけている間に、手薄なこの砦を再奪取して退路を塞ぐ。そうすれば、こちらが今度は袋の鼠となるからな」
「なるほど。ある程度の兵を残しておけば、ここを攻撃しようとも、後詰の到着までは持ちこたえれましょう」
どこまでも慎重かつ冷静な指揮官に一同は感服した。そして、それに相対することとなる敵将には、憐れみすら覚えていた。
「よいか、者共! 必ずや勝利し、奪われた領土を取り戻すぞ!」
「「「おおぅ!」」」
威勢の良い返答にアッシュは満足し、笑みを浮かべて頷いた。
アッシュの判断は正しかった。奇襲とは、おおよそ二つに分けることができる。“空間的奇襲”と“時間的奇襲”の二つだ。
“空間的奇襲”とは、思わぬ場所を攻撃することで、「こんな場所を攻撃するとは!」と相手に思わせれば成功である。
“時間的奇襲”とは、思わぬ時間に攻撃を仕掛けることで、「こんな時間に攻撃だと!?」と相手に思わせれば成功である。
また、画期的な新兵器や新戦術の投入も、広義の意味では奇襲となる。
軍隊とは何よりも準備を必要とする組織であり、奇襲とはすなわちその準備が整っていない相手に対して仕掛けるものだ。結果、準備の整っていない相手に対して有利に戦況を展開し、戦果を稼ぐやり方である。
しかし、時間の経過と共に効果が薄れていくため、攻め手はいかに奇襲効果を持続させるかに腐心し、食らった側は奇襲効果をいかに打ち消して、通常の迎撃態勢に持って行くかが重要である。
そして、今回の場合、アッシュは突如として消えたアクト軍団を奇襲の下準備のために消えたと判断した。奇襲を警戒するため、斥候の数を増やし、いち早く発見することに務め、退路となる砦にも兵を配置して奇襲に備えさせた。
つまり、奇襲を警戒している相手には奇襲は成立し難く、アクト軍団がアッシュ軍団に奇襲を仕掛けるのは不可能とも言えた。
消えた部隊を警戒して奇襲に備えるアッシュの判断は正しいと言える。
だが、それは大きな読み違いをしていた。アクトの策はアッシュの思考を大きく飛び越え、パルシャー軍を恐怖のどん底に叩き込むことになるからであった。
~ 第六話に続く ~