素直なエッセイ
元々小説を読みにここに通っていたのでありますが、気楽に読めると言うと失礼なのですが、そのように楽しめる短編を開くことが多くなり、そのうち好んでエッセイを開くことが多くなりました。
エッセイ作品の何に引かれたかと考えれば、思いを伝えようとする、その方法がより直接的で人間味があるように感じたからなのでしょう。作者さんの気持ちがダイレクトに私の中に入ってくるように感じます。
そして、そんなふうに書けることに、憧れるのであります。
特に、素直に書かれているなと感じる文章には強く興味を引かれます。私はそのような文章を見ますと、羨ましいと感じます。
素直に書くというのは、私にとって難しいことです。それは投稿に限らず、自分用に日記などを書くうえでもそうです。私の中の何かが、素直に書くことを邪魔するのです。
一つは、自信が無いというのがあると思います。取り出した言葉から目を背けたくなり、引っ込めたくなるのは自信が無いからなのでしょう。
あと一つはですね、こちらの方がより悔しいのですが、頭の中をそのまま取り出して言葉にするというのがそもそも至難。頭になんかあるけど言葉にならぬのです。つっかえがある感覚ですね。
よく、まとまり無くだらだら書いて何言いたいか分からんみたいな人がいらっしゃいますが。逆に羨ましいですね、私は。
頭の中をそのまま書く。
これが出来るようになりたくて、私は何かを書いています。
表現や構成もあれこれやりたいですけどね。そういうのを考えるのも楽しいのですけど。一方で、そのまま書くから遠ざかるようにも感じます。
〝素直〟という言葉は私にとって学生の頃から、座右の銘のようなものとなっております。
好きな言葉だし、心がけている事とも言えます。そして理想です。
私は学生時代、理科系の専攻でありまして。実験をして、実験結果のデータを先生と一緒に見ているときにですね、
「実験データは素直に見なさい」
と、こう先生に教えられました。
ありのままを見なさい、思い込みで見てはいけないということです。
どうしても実験というのは、仮説を実証するために行うものですから、こうなるはずだとか、こうなって欲しいという気持ちで取り組むのです。しかしそのような気持ちが、知らないうちに認識を歪めてしまうものなのです。
素直にデータを見るというのは自分で戒めねば出来ないことでもあります。
ある時、先生から立派な発見をしたという自慢話を聞かされました。そのときも、「素直にデータと向き合ったから発見できた」とおっしゃっていました。
発見というのは、既存の理論に合わないデータから生まれるということです。データが理論に合っていないということを、まず素直に受け入れなければならない。そして理論の間違いを認めて、素直な心でデータを理解しなければならないわけです。
また、これは立派な先生でも、肝に銘じなければ素直でいるのは容易ではないことの証左でもあるでしょう。
私の言う〝素直〟というのは、真実をとらえようとする態度なのです。
まず、ありのままの事実を受け入れよう。そして大事なものを見逃さないように、心を開こう。そのような態度です。
閉じた心がその眼を曇らせます。先入観とか、思い込みとか自尊心とか、あとは権威的な何かとかですね。裸の心の周りに、いっぱいこびりついてるのではないでしょうか。
何事もまずは、対象を把握することから始まるのだと思います。正しく純粋に把握するために、まず第一に〝素直〟であろうとするのです。
このようにですね、
根っこが理科系の人間なので、頭の中が言葉で考えていない気がします。それが言葉にする事の難しさにつながっていると思います。それから、抽象的に考えるクセがありますね。具体的のほうが真実に迫る書き方だと、最近は思うようになりました。
素直に書く。
それは難しいことだし、とても素敵な能力だと思います。
最後に、エッセイ作家の皆さまに感謝を申し上げます。いつも楽しく読ませて頂いています。そしてとても人生の刺激になっています。
この文章の素直度は、20%くらいでしょうかね。
ところで最近気づいたんですけど、パソコンよりケータイの方が素直に書けるような気がします。