Nの世界
やっぱり物語は書けなかった。
ただパソコンが真っ白な画面を映し出しているだけだ。
「くっそ……」
俺は血反吐を履くように、呟いた。
物書きにとって突如書けなくなる、スランプという現象が起こることは、
なんか聞いたことがある。
だけどそれがこの俺に来るだんなんて、今まで思ってもみなかった。
それぐらい書くことが楽しくて、物語が溢れていたから。
原因は何なんだろ。
俺は椅子の背もたれに深く身を預けて、目を閉じた。
そして思い当たる。
やっぱり総合評価2がショックだったんだろうな。
自分の物語が自分から離れて、他人の評価を受けるということに、
どうやら精神的なバランスを崩してしまったらしい。
意外と繊細だった自身のメンタルに少し驚いている。
そのときだった、パソコンの画面が不意に不自然な動きを始めて、
マミコがパソコンからぬっと抜け出してきた。
「突撃☆となりの」
俺はマミコの言葉を遮った。
「近藤……真美子ちゃん……だよね?」
その問いにマミコは一瞬目を見開いて、コクンと頷いた。
「俺に、会いにきてくれたの?」
やっぱりマミコはコクンと頷いた。
「そうよ! あたしはアキラくんに会いに来たの」
マミコの目が、懐かしさに少し潤んでいた。
◇◇◇
「アキラくんてさ、小説投稿サイト『Nの世界』に作品を投稿しているよね」
話が長くなりそうだったので、俺はテーブルの前に座るマミコにほうじ茶を淹れてやった。
「ああ、でもなんで知ってるんだ?」
俺は茶を啜る。
「あるとき偶然見つけたのよ。作者名が白羽刃だったから」
マミコも茶を啜った。
白羽刃の名前に、俺は頬がかっとなるのを感じた。
白羽刃とは、俺が生まれて初めて書いた物語の主人公の名前だ。
「真美子ちゃん……覚えていてくれたんだ」
俺は俺が生まれてはじめて書き上げた物語を、彼女にプレゼントしたのだ。
それはもう10年以上前の話になるのだが、彼女はそれを覚えていてくれたのだ。
「当たり前でしょう! あの小説は今でも私の大切な宝物なんだからね」
ひぃぃぃ! やめてくれぇぇぇ!
俺は内心悲鳴を上げた。
10年以上前に書き上げた俺の処女作を、好きな人が持ってるんだぞ?
多分、自分でも直視できない代物を、
俺の好きな人が持ってるんだぞ?
え? これってなんの変態プレイ?
俺は頭を抱え込む。
「それでね、ずっとアキラくんの投稿を追いかけていたのよ」
マミコがきらきらとした笑顔を俺に向けた。
「だったら、コメントくれればいいのに。メールもSNSもアドレス公開してるんだから、
そっちに連絡してくれれば良かったのに、そしたら絶対会いに行くのに」
俺がそういうと、
「女心が分かってないなあ。アキラくんは」
マミコの表情が曇った。
「女心?」
俺は眉根を寄せた。
「女の子はね、好きな人の前では飛び切り可愛くしていたいのっ!」
マミコは唇を尖らせた。
「え? 好きって……」
その言葉に反応して俺が赤くなると、つられて彼女も赤くなった。
「あたしね、実は病気で今入院中でね、
ずいぶん窶れて、顔色も悪くって、もう何日もお風呂にも入れていなくて、
髪も汚れてるの。そんな姿でアキラくんに会いたくないよ」
マミコはそういってしょんぼりと肩を落とした。
「は? そんなの関係ないだろ! 真美子ちゃんは真美子ちゃんだし、
そんなことで俺は君のことを嫌いになったりしない」
俺の言葉にマミコは、うっすらと涙ぐんだ。
「そんなときにね、『Nの世界』の都市伝説を聞いたの」
マミコは目尻に滲んだ涙を、手の甲で拭って話を続ける。
「それってあの、夜中のニ時二十二分二十二秒ちょうどに小説を投稿すると……ていうやつか?」
都市伝説の『魔美子』とやっぱり何か関係があるのだろうか。
「それもあるんだけど、『Nの世界』っていうのは、実は異世界に繋がっているのよ。
いわゆるところの『あの世』ってやつね。
あたしは死に近い精神体だったから、すっと入り込むことができた」
マミコの言葉に、身体が震えた。
「死に近いって……?」
マミコは答えずに、曖昧に笑う。
「だけど君は……物語を食べれば助かるんだろう?」
そうマミコに問う、俺の声が情けないほどに震えている。
「精神体としては、生きられるんだろうけど、
本体の近藤真美子の身体はもう……」
マミコは言葉を切って、寂しげに笑う。
「それって……どういうことなんだよ!」
少し大きな声になってしまった。
「今夜が最後の夜になると思う」
◇◇◇
覚醒しきらない意識の中で、規則正しい機械音が聞こえてくる。
これは……心電図の計器の音?
そしてこれは……ああ、酸素吸入の音だ。
「真美子! 真美子!」
耳元で母さんがあたしの名前を呼んでる。
「こ……こ……は?」
ぼんやりとした視界に、泣き顔の母さんの顔が見える。
その背後には、あたしに繋がるたくさんの計器が見える。
ああ、ここはICUなんだ。
いよいよかあ。
あたしは目を閉じた。
◇◇◇
二時二十二分二十二秒ちょうどに小説投稿サイト『Nの世界』に小説を投稿すると、
読み専の幽霊『魔美子』さんが現れて、異世界に連れていかれるのだという。
有馬アキラは、書き上げた小説を投稿すると、裏サイト『黄泉』に誘導された。
「おや、ここにたどり着いたってことは、あんた、能力者なんだねぇ」
画面上には、着物の衿足をすかして着崩した、艶な女性が映し出される。
「連れていけ」
有馬アキラは底冷えのする声色を放ち、パソコンに手を突っ込む。
ぬるりとその画面がアキラの手を飲み込んで、女性の華奢な手首を戒めた。
「自らの意思で空間を捻じ曲げるほどの、力……」
女の顔は恐怖に引き攣る。
「俺を真美子のもとに、連れていけ!」