薔薇綺譚
「なんだい、またアンタかい?」
楽屋の机の上、むせ返るような香水の香りとチラチラ光る舞台衣装の間に埋もれるように真紅の薔薇が置かれている。
舞台から降りた女をいつも迎えるその花は、女が知らない男から贈られた。
キザなことしやがるよ。
そんなことを吐いて見せるけれども、女は満更でもない。柔らかな花びらにキッスしてやった。
「あらあ、また?100本目が置かれた日にゃプロポーズでもされんじゃないの?」
「どうだろうね、こんなこと。こういうところにハマりたてのお坊ちゃんがやることさ。100本も贈られる前に可愛くて育ちの良いお嬢ちゃん娶って若気のいたりってことになるオチだろうさ。」
卑猥なジェスチャーをしてみせると、下品な女の笑い声が響いた。
真っ赤な口紅、胸元のあいたドレス、甘いもの、毒舌。そんなものが似合う腐乱した絢爛。これが女たちの居場所だった。
「お千夜ちゃん、もういっぺん出番だよ。」
「あいよ。」
胸元の開いたドレスで背筋を伸ばし、髪に薔薇の花を挿した。
お千夜はキャバレーの歌手だ。
媚びない、それでいてアダっぽいアルトの歌声はキャバレーに集う老若男女に好かれていた。
キャバレーの神に愛された娘。
常連の文士は千夜のことをそう表した。
その愛を存分に享受し、千夜もキャバレーを愛していた。
煌びやかな表の顔に、哀しさを滲ませる裏の顔。
甘くてほろ苦い、ラム酒のごとくこの場所で一人だけ、しがらみを感じさせずに千夜は毎夜ステージで歌った。
(真っ赤な薔薇の花なんてあたしを彩ることしかできやしないわよ。)
客席を一瞥して、千夜は舞台の上で美しい叫び声を上げた。
「お疲れ様、千夜ちゃん。」
「ええ、お疲れ様。」
真夜中の街を千夜は鼻歌混じりに歩く。
馴染みの客が来ていれば、付き合ってやることもある。
飲み屋の行燈、酔っ払いのダンス、空に浮かぶ月光ライト。育ちの良いお嬢ちゃんは知らない世界。
千夜は髪から薔薇の花を抜いてコートの胸ポケットに挿した。
贈り人の名前は書かれていない、ただ白いメッセージカードに千夜へとだけ。
毎回の出番の後に赤い薔薇は一輪だけ。
「こういうことやんの、とんでもない変態かしらねえ。」
毎夜毎夜、千夜のもとには一輪の薔薇が贈られた。
千夜はその薔薇を髪に挿して舞台に立った。
しかし、薔薇の花で結ばれた奇妙な縁は決して目に映ることがなかった。
「おや、千夜ちゃん今夜もミューズかい?」
「先生、あたしミューズってガラじゃないわよ。」
千夜は馴染みの客のグラスに酒を注いだ。
赤ら顔のその文士の客は、千夜が薔薇の花を挿している姿をミューズと表した。
そういった言い回しが好きな人だ。千夜はたしなめはするが止めはしなかった。
「にしても誰なんだろうな。名乗り出ずに毎夜プレゼントするなんてさ。」
「あら、先生みたいなお人じゃないのかしらん?」
「オレじゃあないよ。」
「ふうん。」
千夜は内心、どうせ文士から贈られているのだろうと思っていたため拍子抜けした。
そんなら誰かしら。常連の顔を思い浮かべるが商売女に薔薇を贈りそうな人物に心当たりがない。
まあ、いいさ。どうせ商売女だもの。客がやりたいことには詮索しないで付き合うだけさ。
千夜は文士の金で注がれたウィスキーを煽った。
秋の中頃、薔薇の花が贈られることはパタリと止まった。
千夜はそのことを少しだけ気にかけたが、それだけだった。じきにまわりも薔薇のことを忘れた。
季節は巡り冬になった。正月も過ぎて春の息吹が吹く前の殊更に寒い日に、千夜のもとに一通の手紙が届いた。良い紙ではなかったが、書かれていた文字は美しく芯のある女手だった。
「拝啓、千夜様
突然のお手紙をお許しください。私は〇〇町に住む園と申します。私は貴女に薔薇の花のことについてお話をさせていただきたいのです。あの花を贈っていたのは私の主人です。夫は昨年の秋に肺病がもとで亡くなりました。大晦日に夫の部屋を遅ればせながら整理したところ薔薇の花を求めた領収書がたくさん出てまいりました。
不思議に思って、主人には悪いと思いながら主人の日記を開いてみると貴女への想いが綴られておりました。
私は、貴女へ恨み言や僻言を述べたいのではありません。若くして亡くなった主人を哀れに思っているだけなのです。主人の日記の一部を同封します。
どうか、身勝手なお手紙をお許しください。
敬具 園」
薔薇の花を贈ったのがどんな男だったのか、千夜は結局知らずに終えてしまったと思った。
しかし、男が妻に大変に愛されていたことは知った。
千夜はその晩、舞台で商売女が客に恋焦がれて首ったけになった歌を歌った。
そして帰り道に、日記の切れ端に接吻すると家の前に流れている小川に捨ててしまった。