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銀遊魚

作者: だんごむし

 コンクリートのビル群を縫うようにして一匹の魚が泳いでいる。背のほうは黒く、側部に走る一本の黄緑色の線が特徴的な大きな魚だ。沈黙している自動車用信号機の半分ほどの大きさをしたその魚は、透き通るひれを反物のようになびかせて水を割り泳いでいく。針を投げかけたような鋭い日差しは水面に遮られ、穏やかな光となって魚のうろこ一枚一枚を光で飾った。銀色の腹は眼下の屋根や店のポップなどカラフルな街を贅沢に纏い虹色に輝いている。ハッとするほど透明な水は魚のえらを通り抜け、その悠々とした動きに沿って流れ小さな水流を作っていた。あたりのほかの魚の影は見当たらず、もしかしたらこの大きな魚がみんな食べてしまったのではないかとさえ思えるほどである。水の中は一切の音を排除し、ただひんやりとした空間としてそこに存在していた。

 魚は水底に沈んだ街を見ていた。黒真珠のような丸い目に今は何の意味もなさない鉄や石の塊を映していた。この水没した街は果てがなく、魚はその全てを知っているわけではない。ここで生まれたからというごく単純で本能的な理由からであったが、この街のある場所に銀色の魚は自らの縄張りを定め暮らしている。魚にとって重要なのは自らの縄張りとその周辺のみであり、その外に何があるかは大した関心ごとではなかった。

 背の低い民家は軒並み水の底に沈んでおり、ふやけた四角のシルエットを水面に向かって投げかけているだけだ。背の高いビルや鉄塔は水面からその先端を突き出して空気に晒している。空気と水の境界のあたりは茶色く錆びていたり白く汚れていたりと、自然が気ままに芸術を組み立てていた。魚にそれらの頂上がどうなっているかは分からないが、時折水位が上がってもその頂上が水中に入ってこないということは理解していた。地形の変化は彼にとって重要であるからだ。建物たちはずいぶんと長い間こうして時を重ねてきた様子である。それは水中を見ても明白で、多くの家の中は物が散乱し、水草や苔が家電のふちを飾り、小魚たちが住人となっていた。それはビルとて例外ではない。傾いたデスクの中にはエビが巣を作っていたし、散らばって溶けた書類の砂には別の魚が潜んでいた。ざらつく壁にはびっしりと貝類が並び、倒壊した建物はすでに原型をなくし魚たちのえさ場として機能している。

 銀色の魚は錆が目立つ薄緑色の歩道橋の下を通りある方向へと泳いでいく。歩道橋が落とす細長い影が舗装の目立つ黒々とした道路を二分しており、車道に引かれた黄色の線と直角に交わっている。上空を白い鳥が飛んで行く。くっきりとした鳥の影が銀色の魚の近くで旋回し、サメのようにあたりをかき回した。魚はしばし歩道橋の底面に身を寄せ鳥をやり過ごすこととし、体を小刻みに揺らしながらその場に浮かび続けた。鳥の影は数分あたりを探る動きを見せたが、やがて諦めたのかつい、と飛んでその場を離れてゆく。魚はまた何事もなかったかのように歩道橋の影からするりと身を躍らせると再び一つの方向へ進み始めた。街をしばらく行けば道は広くなり、路肩に停まっている車も増えてくる。そして大きい立方体の影が揺らめきながらあたりを満たしていた。調和のとれた薄いブラウンを基調とした、人も車もいくらでも入りそうなほどに大きな箱である。剥がれ落ちた看板が海藻の苗床となり駐車場の中央で朽ち果てていた。

 魚はのんびりとした波のようにゆらりゆらりと尾びれを振りながら建物に近づいていった。駐車場を我が物顔で泳ぎ、ドアの開いた赤い車が転がっているのを避け、密林のように立ち並ぶほかの車たちには見向きもせず。その建物の内部に入るための自動ドアは開け放たれていた。苔の生えたセンサーの下をくぐり銀色の魚はその建物に侵入する。入り口を入ってすぐそこは吹き抜けのホールになっており何本もの通路がそこから伸びている。声を奪われた黒いピアノがそのホールの中央にそっと佇んでいて、広げられた蓋が紳士のマントのように、カラスの翼のように水の中で時を止めていた。中に入っている何本もの弦は一本残らず薄い苔で覆われており、ごく小さい生き物たちの格好の棲み処となっている。小さな生き物たちが大きな銀色の魚に怯え、少し水流を乱しながら慌てて隠れるのが見て取れた。魚はそのそばを通るとゆったりとした曲線を描いて左に曲がり奥のほうへと泳いでいく。ピアノの黒いつやのある体に銀のうろこが映り込んで煌めき、魚はその煌めきを置き去りにして去っていった。

 奥に進んだ魚を出迎えたのは衣類や小物の山、群である。服やカバンの装飾品はどれをとっても美しかったが、この水の中に最も似合うのはやはり魚のうろこであった。川を泳ぐ何匹もの鯉のように売り場から躍り出た服たちが水中を漂っていて、魚はそれを器用に避けながら水中を舞う。観賞用の熱帯魚を思わせる派手な色のストールがふわふわと浮かび、大きな口を開けたシャツがその下を滑っている。通路から離れた奥の方で金属の時計や光る石がはめ込まれたアクセサリーが隠された財宝のように眠っていることも魚は知らない。

 入り口から差し込んでくる光は奥に行くにつれて徐々に失われてゆき、あたりは夕暮れのように暗くなってゆく。水底を見ればそばの棚から転がり出てきた小さな鳥の置物が磨かれた床に一つ寂しく転がっている。相変わらずほかの魚の影はなく、その代わりにプラスチックの容器やビニール袋が死んだ生き物のように揺蕩っていた。透き通り色鮮やかなそれらもこの暗がりの中では色あせて、どうしても霞んでしまう。闇に潜んだ銀色の魚は少ない光をいっぱいに抱いて闇の中にその輪郭をぼんやりと浮かべている。黄緑色の線も薄灰色の線となり果て、ともすれば体色と同化して見ることが叶わない。生き物の気配がなく日も差さないこの場所はもう息をしていないのではないか、銀色の魚も迫力を失い小さく縮こまっているように思える。それでも彼は暗がりを進み続け光を目指すことを是とした。

 泳ぎ続けた甲斐あってかあたりはだんだん明るさを取り戻してくる。この先には別の入り口があり、そこは先のホールと同じように広場になっているのだった。吹き抜けがあるのも同じで、違うことといえばピアノの代わりに何かののロゴマークをかたどったモニュメントが置かれていることくらいである。魚のうろこは光を受けて再び煌めき始めた。モニュメントの横を通ればやはり銀のうろこはそれを映し、その色を我が物として強く光る。より光の強い出口へと焦らず、だがしっかりと進んでゆく魚の進路を妨害するものは何もない。ほどなくして彼は建物を出て、また駐車場で整列している車たちの上を事も無げにゆるりと泳いで元来た方向へ帰るべくひれを動かした。

 あんなに鋭く射かけてきた日差しはいつの間にか橙の柔らかい笑みを湛え、水面から突き出る鉄塔が投げかける細長い影は長く、どこまでも長く水中に影を落としている。魚の影も直下ではなくずいぶんと離れた場所に落ち、少し見ただけでは見つけることが困難であった。影も落とさない幻影が夕日に誘われ一人で放浪しているかのようであり、それはまさしく夢そのもののようにも思われた。大きな建物にたどり着くまでに通った道、歩道橋、路傍の電話ボックスやポスト、朽ちた街路樹、すべてが残らず泡のように燃える水に揺蕩っている──世界は残らず夢と現の境界を越えたのであった。

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