#001 Tさんの場合
さっきまであれほど感じていた痛みが和らいできた。いつもこんな感じだ。ここまで来ると感覚が麻痺してきて楽なんだよなぁ…
「寝■ふり■んか通じねぇ■■よ!」
「下■ねぇ事■■がって!。仕返■のつ■■か?だ■■れ■ゃザマね■■。ハ■ハ■■!」
「■ラ!さっさ■起■ねぇ■また川にぶ■■むぞ!」
周りで何か話してる声が聞こえるが、何を言っているのかよく分からない。体が揺さぶられた感じがするが、眠気がひどくてそれもどうでも良くなってくる。
「お…■い、なんか■ょっとヤバ■■じゃね?コ■?」
「大丈■だって。人間、そ■な簡単■は■■ねーって。オラ!」
また体が揺さぶられる。だが、その程度では今の眠気は晴れそうに無い。うつ伏せに倒れ込んだ俺の肌に土や草が直接当たっているが、冬だというのに妙に地面が暖かく感じられ、それがさらに眠気を誘う。
「やめ■よ!や■いっ■■!俺■■う知ら■■からな!」
「お…俺■■!」
遠ざかっていく足音がいくつか聞こえる。
「■っ!意■地無し■■が!」
ガリガリという音がして頭を乱暴に撫でられているような感じがする。多分、踏まれているんだろう。頭の片隅でそんな認識を出来ては居るが、睡魔には勝てそうに無い。
だからもういい。別にいいよ。今日の所は許してやるよ。明日こそお前らに復讐してやる。お前らに直接仕返し出来なくても、お前らの家族、友達、ペット。何でもいい。俺が感じている苦しみをほんの少しでもお前らに感じさせることが出来るなら、何だってやれそうな気分だ。
そう、明日こそ百倍返しだ……
いつものようにそんな出来もしない事を考えつつ、俺は意識を手放した。
◆
「ん…ぐぐ…ん……んん─────!」
「むぐぅ!んはぁ!はぁ!はぁ…すぅ──っはぁ──っ…」
息苦しさを感じて起き上がりつつ顔の前にある何かを掴んで引き剥がす。手で湿った物を掴んだ感触がした。
「なんだこれ?タオル?」
あー、映画とかでたまに見るあれか。塗れたタオルを顔にかけると息が出来なく
「って殺す気かっ!!!!」
「おー意外と起きるもんだな。気がついたかい?竹宮克己くん」
自分の名前に反応して声のした方を見ると女が立っていた。知らない女だ。二十代くらいで皺だらけの白いシャツ、スリットがやたら長い黒のロングスカート、そして保険医が着てるような白衣を肩に掛けている。そして白銀の長い髪。長い白銀のストレートヘアが黄色い明かりを反射して金髪のようにも見える。ウィッグか?外人か?こんなナリだけど医者か学校の保険の先生だろうか?だがうちの保険の先生は四十超えのおばさんだったはす。
「取りあえずお茶でも飲むか?」
「え?はぁ…」
タオルを載せたのはこいつか?常識なさそうなやつだ。その女はテーブル脇のコーヒーメーカーからカップにコーヒーを移して持ってきた。お茶じゃなかったのかよ。
「ふむ、これじゃ置けないな……」
俺が寝ていたのは長い低めのソファーのようで、目の前には高さを合わせたローテーブルが置かれている。だがその上はカップ麺やお菓子類の空き容器と雑誌で埋め尽くされていた。
「よっと」
女はヒールを履いたままの脚を持ち上げ、そのままヒールでゴミをごっそりとそぎ落とした。スカートのスリットから見える白い部分に一瞬視線が行くが、見てると何を言われるか分かったもんじゃない。代わりに俺はバタバタと床に落ちていくカップ麺の容器や雑誌を見つめた。容器に残った汁が飛び散ってひどい有様だ…いくら何でも大雑把すぎるだろ。
「よし」
カップの一つは目の前のローテーブルに、もう一つは手に持ったまま、その女はテーブル向こうの椅子に座った。座るときに椅子からギシリと気味の悪い音がする。まるで椅子が虐められて悲鳴を上げているかのような嫌な音だ。聞きたくない類いの音。
「んぅ───────っ!!」
その女は椅子に座るとコーヒーを一口飲んだ後、カップを持ったまま器用に両手を挙げて伸びをした。悲鳴のような声を上げながらも椅子の背もたれが後ろに倒れ、連動したフットレストが持ち上がってフラットになる。目の高さに脚が上がり、俺は慌てて目をそらした。
部屋の壁に視線を向けるつもりが、周囲が暗くて壁が見えない。紐でぶら下がっている傘付きの裸電球が周囲を黄色く照らしているだけで他に照明が無く、10mくらい先の床までしか見えない。上を見てみると電球の紐も暗闇の中に消えていて天井が見えない。見える範囲にあるのは裸電球、コーヒーメーカーが乗っているワゴン、女が座っている椅子、パソコンや雑誌、食べたお菓子やカップ麺の残骸で埋まっている机、俺が座ってる低いソファー、ソファーの前にある同じくゴミだらけのローテーブル、以上6つの家具しか見えない。壁や天井が見えないとか、どんだけ広いんだよここ…
「それで…ここはどこなんです?あなたは誰なんです?あなたが助けてくれたんですか?」
「いきなり質問が多いな。うーん、助けたといえば助けたのかな?体の…っていうのも変だけど調子はどうだい?」
塗れタオルを顔に掛けて調子もクソもねーだろ。
「いえ、今のとこはどこも痛くは…」
言いかけておかしいと自分で気がつく。あれだけ殴られたんだ。いつもなら一週間は痛みが引かない。服の上からお腹や足を押さえてみるが痛みは無い。どういうことだ?湿布とかも貼られている形跡は無い。
「それはよかった。ところでコーヒーは嫌いだったか?」
彼女は自分の分を飲みながら聞いてくるが、俺はまだ手を付けていない。
「喉は渇いてるんですが……ミルクは無いんですか?」
「プッ…」
吹き出しそうになった拍子でカップとソーサーがカチャンと音を立て、彼女のカップからコーヒーが少しこぼれた。
「子供か…」
「子供じゃありません!大人だってミルク入れて飲む人がいるでしょ!」
ブラックなんて苦い物を好んで飲む奴の気が知れない。
「いやいや、ごめんごめん。馬鹿にしたわけじゃ無いんだ。ミルクね。あるよ」
そう言って彼女はワゴンからポーションタイプのミルクとスプーンを出してくれた。俺はひったくるようにそれを受け取り、コーヒーに入れてかき混ぜてから飲む。それは何日も水を飲んでなかったかのように体中に行き渡る感じがして、体が温まり少し落ち着いてきた。
「さて、まずは自己紹介からしようか。私の名前はカルマ。ここの管理者をしている」
「僕は竹宮…って知ってるんでしたね。ここってどこです?家にも連絡しないと…心配しているかもしれない」
嘘だ。あいつらが俺の心配をしているはずが無い。
「ここは奈落だ。といっても奈落の中では無く、入り口けどね」
アビス?そんな地名が市内にあったっけ?でもどこかで聞いたような単語だ。確か大きな穴とかいう意味だった…ような?
「奈落は君の国の言葉でいうとそんな感じだね。でもここの奈落は地獄みたいなものさ」
「……………………へ?」
間抜けな返事をした俺を見て、彼女はハァとため息をつく。目を細めて口元に笑みを浮かべて俺を見つめたまま、脚を組み直し、カップを持った右手とソーサーを持った左手を大きく左右に広げる。大仰で芝居がかった仕草だ。
「そう、君は今、地獄の入り口に来てるんだ」
「…………………………………………」
俺は彼女を真剣に凝視し続けた。しばらく見つめてから俺は目を閉じ、深く長いため息をついてからから口を開く。アホかこの女、中二病かよ。
「はぁ、そうなんですね」
「信じようが信じまいが君はもう死んだ、それはもう哀れな死に様だったさ」
俺が死んだ?なに言ってんだこの人は。
「心臓に手を当ててみろ。動いてないから」
は?心臓が動いてない?何言ってんだ?動いてるに決まって
「!?」
自分の心臓に手を当てても動きが無い。シャツに手をいれて直接触ってみても動きが感じられない。ドクドクいっていない。脈はどうだと手首を触ってみるがよく分からない。脈の取り方なんて知らないよ!
「なんでだ?」
「だから君はもう死んだんだ。今の見た目は私がかりそめに与えてやった物だ」
「はぁ?」
訳が分からない。死?かりそめ?とりあえず俺の心臓が動いてないが、特に問題無く動いたり話したりできるようだ。
「君がもう死んだことは理解出来たかな?でだ、無残に、哀れに、みっともなく死んだ君を可哀相と思い、第二の生をプレゼントしてやろうと思ってここへ呼んだんだ。だが、残念ながら君の同意がないと生き返らせてやることが出来ないんだ。どうだい?生き返る気はあるかい?」
「いいえ、そういう話はちょっと……」
訳が分からない。どう見ても怪しい宗教の勧誘だ。心臓が動いてないのは気のせいだ。さっさと帰して貰おう。
「とりあえず帰らせて貰えますか?」
「無理だ。死んでしまった君の選択肢は二つしか無い。奈落に落ちるか、生き返るか。早く決めてくれるといいんだが」
帰さないとかどっかの駅前の絵売りかよ。どっちを選んでもろくな目に遭わなそうだ。ちらちらとカルマと名乗る女を見てみるが冗談を言っているような表情には見えない。
「ふぅ…」
不良どもにボコから解放されたと思ったら、次は変なやっかいごとかよ…とことんツいてないな。俺。どうしたもんか…走って逃げるか?周囲は真っ暗でどちらが出口なのかも分からないが…
「どうした?決められないのか?優柔不断な男は女にモテないぞ?」
うるせーよ。関係ねーだろ。どうせモテた試しはねーよ。
「なら仕方が無い、決められないようなら少し情報を与えてやろう」
「あっ…」
カルマはコーヒーカップを大きく放り投げた。残っていたコーヒーをまき散らしながら飛んでいく。あーあ、あれは割れるな。もったいない。反射的にカップの行く末を見ていると、予想通り床に当たってパリンと割れてしまう。
「なっ…」
割れたカップの側に不健康そうな青い肌をした裸足の足が見えた。かなり大きくて毛むくじゃらだ。さっきまで誰も居なかったのに…。毛皮のような物を服の代わりにまとった腰の辺りまでは見えるが、それ以上は影になっていてよく見えない。電球の明かりが届いていないようだ。全体は見えないが身長が高い。どう考えても三メートルは超える大男だ。ありえない。こちらに近づいてくる様子は無いから良いが、近づいてきたら逃げ出す自信がある。
「彼はまあ、いわゆる奈落の住人。克己くんに分かりやすく言うと鬼だな」
そう、あれはまさしく青鬼だ。足と並んでカギ状の突起が大量についた金棒のような物が見える。
「もちろん赤いのもいる」
カルマは気楽な調子でそう言い、今度はソーサーを逆方向に放り投げた。割れる音がするがそちらを見る気にはならない。鬼どもが発する気配だけで背筋がゾクゾクしてきた。あんな生き物がこの世に居るわけが無い。居ちゃいけない。
── ひたり、ひたり
左右から足音が近づいてくるが金縛りに遭ったかのように体が動かせない。自分の意思では動かせないのに、ソファに座ったままの体はガクガクと震えている。恐怖なんてものじゃ無い、これはもっとなにか魂自体を縄で縛り上げられているような感覚がする。
鬼どもは俺の近くまで来ると、俺の顔を覗き込むように二匹そろって顔を近づけてきた。視界に入ってきたのは予想通り恐ろしい表情をした青と赤の鬼だ。口からは上に向かって牙が伸び、眉はなく、鋭い目つきで俺を睨み付けている。
「ゲホッ、ゴホッ!ゴホッ!」
そいつが吐く息が腐った生ゴミのような匂いがして吐きそうになるが、動かない体で喉を詰まらせてしまった。それを見た鬼どもはニタリを恐ろしい表情で笑みを浮かべる。あまりの恐ろしさのせいか俺の呼吸が止まった。苦しい!恐い!
「なんだ、その様子だと奈落に行っても結構仲良くやっていけそうじゃないか」
「……ぶはっあ、はぁ…はぁ…」
何か言い返そうと思ったが、やっともどった呼吸をするので精一杯だ。
「で、奈落に行って鬼と暮らすか、生き返るか。どちらにするか決まったかい?」
いつもだ、こういう奴らはいつもこうだ。片方しか選べない選択肢を選ばせようとする。もしくはどちらを選んでも大差ないかだ。反吐が出る。
「そう悪い話でもないさ。もう一つの選択肢、生き返る方。こちらはそうだな…強くてニューゲームってやつだ」
……………………は?
いきなり条件が下がったな。というかそれなら願ったり叶ったりじゃないか。
「なんですかその展開。小説とかでよくある奴ですか?」
マジかよ。今度は俺が好き勝手やれる側に回れるのか?嘘でも飛びつきたくなる話だ。
「ああ、だが元の世界には戻せない。無残にやられている君を助けられなかったように、あそこは我々の力が及ばない世界なんだ」
「チッ!」
思わず舌打ちしてしまった。やつらをボコボコにしてやろうと思ったのに。
「そのかわり、これからは好き放題だ」
カルマが椅子から立ち上がった。気がつくと俺の両隣に居たはずの鬼どもは消えてしまっている。カルマがゆったりとした仕草で俺の横にやってきて隣に腰を下ろすと、ソファのバネが沈む音がした。彼女の香水か、ほんのり良い香りに包まれた俺はすこしぼぅとした気分になる。近づいてきて分かったが、瞳が赤く艶めかしい。そしてほんのり赤く光っているのか、薄暗い中で瞳が妙に明るく見える。
赤く蠱惑的な瞳に惑わされていると、カルマは細い指で俺の頬に触れ、喉元、首、鎖骨、と指を下ろしていき胸元で指を広げて止まった。普段、人に触られると嫌悪感がしてすぐに振り払うんだが、なぜか気にならなかった。
「この体に痛みを刻まれる事も無く、他者を好きなだけいたぶれる側に回るんだ」
そう言うと、トンと俺の胸を突いて指を離した。
強者か。いいね。楽しそうだ。扶養者に気を遣ったり、不良どもにおびえてビクビクして暮らさなくて良い世界。
「そんな小さいレベルでどうする?気にくわない物は全部力でねじ伏せられるんだ。国だろうが何だろうが君の思うがままさ。なんでも力でねじ伏せるとか、痛快で気持ちいいと思わないか?」
演技ぶった仕草が好きなカルマが、今度は立ち上がり両手を広げて熱弁する。
「……マジなのか?」
「本当さ。万が一、嘘でも君には特に不都合は無いと思うけど」
大ありだ。さらに弱くなったら目も当てられない。だが、嘘だとしてもどうにもならないだろう。変な団体に所属させられる事になっても。今更それがどうした。
強くなって生き返れるなら俺は死んでいた方が好都合だとすら思える。今まで散々虐げられてきた分、今度は俺が虐げる番だ。関係ない人間までいたぶる趣味はないが、やられたら百倍返し位は許されるだろう。いや、今度はやられる前にやってやるさ。
「……詳しい話を聞かせて貰いましょう」
「そう来なくっちゃ」
カルマは楽しそうに言うと、再び自分の椅子に飛び乗るように腰を下ろした。飛び乗ったカルマに抗議するかのように椅子がまたギシリと大きな悲鳴を上げる。だが今は、不思議とその音がとても心地よく聞こえた。