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彗星図書館

作者: 和咲結衣

 私が住む市――『宇多方市』には、いわゆる『都市伝説』と呼ばれる話が多数存在する。

 曰く、酷い悪夢を見ると不思議な色の髪と目を持つ少年少女に出会うのだとか。

 曰く、とある学生向けの下宿屋の大家は不老不死なのだとか。

 ……曰く、人の言葉を流暢に喋る猫のいる喫茶店があるのだとか。

 そんなオカルトじみた摩訶不思議な話が数多く飛び交っていて、正直胡散臭いとしか思えないけれど、どうもあながち嘘でもないようだ。

 どうしてそう言えるのかというと、高校時代、美術部に所属していた友人がよくわからない体験をしたようだとこっそりと打ち明けてくれたことに起因する。彼女が当時市の大会で見事大賞を取った作品は、白く長い髪と深い青の瞳といった浮世離れした雰囲気を持つ、美しい同年代の少女の肖像画。誰かをモデルにしたらしいのだが、それが誰なのかわからないのだと描いた本人は言ったのだ。アニメや漫画に登場するキャラクターを模して描いたわけではなく、確かに知っていた誰かを描いたはずなのだと。絵の少女について全く覚えていなかったけれど、何故か描かなければいけないという衝動に駆られたのだと、友人は至極真面目な顔で私に語った。

 確かに、あの時期彼女はスランプに陥っていたらしく追い詰められて毎日悪夢まで見ていた。なのに、その夢の内容も、あの絵を描く頃にはすっかり忘れてしまっていたのだ。だから私は、友人はもしかすると酷い悪夢を見ると云々……の都市伝説に出逢ったのではないかと思っている。

 ……と、前置きはこれくらいにしておいて。これから私が体験した――否、現在も体験している摩訶不思議な出来事について話そうと思う。この市内に数多く存在する都市伝説のひとつ、過去の思いに触れることのできる、『彗星図書館』について。


***


 よくわからない紙切れを手にしたのは、大学での授業後のことだった。百人以上入る大きな講義室の、前から六列目、右から三番目の席。三人掛けになっている机の左端の席。授業が始まってから一ヶ月経ち定位置と化したその席には、いつも友人と並んで座っている。

 席を立つ前に何とはなしに机の下に手を入れると、指先に当たった小さな紙切れ。誰かが置き忘れたサークル勧誘のビラだろうかと引っ張り出して眺めてみる。A5サイズの小さな紙には、明朝体で『バイト募集中 彗星図書館』とだけ完結に記載されていた。

「どしたの高野ちゃん……何それ? すいせいとしょかん?」

「机の中に入ってたんだけど……」

 席を立とうとしない私に気づいた友人の一人に声をかけられ、ビラを見せる。すると、彼はたどたどしく読み上げて首を傾げた。

「なんだっけこれ、どっかで見たことあるんだけど……」

「都市伝説のやつじゃないのか?」

 前の席から紙を覗き込んだもうひとりの友人の言葉に、彼は何か心当たりがあるようだった。ああ、あれかと合点したように大きく頷いて、噂好きの彼らしくきらきらと目を輝かせる。対する都市伝説、という言葉に首を傾げる。

「あれって? 秋山君、私よく知らないんだけど」

「ん……? あぁ、高野ちゃんは宇多方市の都市伝説のこと、疎いんだっけ」

 秋山君の言葉に素直に頷く。この市内に数多くあるといわれる都市伝説。いくつか聞いたことはあるけれど、私は周囲に比べてあまり詳しくない。有名なものくらいなら知っている、という程度だ。噂や珍しいことが好きな秋山君と、彼とよく一緒にいる佐上君。この二人はきっと私の知らない話を多く知っているのだろう。

「じゃあ、教えて差し上げましょう。市内都市伝説その七、彗星図書館とは!」

「その七って何だよ」

「今決めたんだよ。相変わらずノリ悪いなあ佐上は」

「何を今更」

「さっちゃん酷いぜ……」

 大仰に言った秋山君を、佐上君はやや呆れたように冷ややかな目つきで見やった。冷たい物言いに彼は脱力して口を尖らせる。そんな秋山君を無視して、佐上君は私に向き直った。

「で、彗星図書館ってのは、過去を読むことができる図書館なんだ」

「過去を読む図書館?」

「そう。図書館の蔵書はただの本じゃなくて、人の過去が書かれた本。その本を手にすれば過去をやり直すこともできるとかできないとか、そんなことも言われてる」

「過去をやり直す……ふうん」

 いかにも都市伝説といった内容の話だ。もしも、過去の改竄ができるなら……そんなことを考えるなんて、きっと誰にだってある。……私だって、そうなのだから。

 私は再度手に持ったままの紙切れに目を落とした。都市伝説である彗星図書館の、バイト募集。仕事内容はおろか、勤務場所や連絡先すら書かれていない。明らかに不審なこの紙は一体誰が作ったのだろうか。

「それにしても都市伝説スポットのバイト募集って……誰かのイタズラなのかな?」

「さあな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「……変な言い方だね」

 ぽつりと零した言葉を、拾ったのは佐上君。現実主義者な彼にしては珍しくどこか含みを持たせた物言いで、意味ありげに口角を上げてみせる。

「そりゃあ普通なら、ただの噂話にかこつけた悪戯だって思うだろうな。でもここは、都市伝説だらけだから。摩訶不思議なことが自分の身に起こってもおかしくはないよ」



 ――今日はついてない。心の中で舌打ちしながら、私は住宅街を走っていた。決して小さくない雨粒が容赦なく顔を叩いていて、少し痛い。帰宅途中に急に天気が悪くなったのだ。今日の天気予報では降水確率はかなり低かったから、すぐに止むにわか雨だろうとは思っているけれど、いかんせん雨足が強い。

 どこかで雨宿りできないだろうか、と走りながら辺りを見回す。閑静な住宅街で民家ばかりだけど、屋根付きの駐車場とかがあればそこでやり過ごさせてもらうくらいなら、きっと怒られはしないだろう。公園があれば東屋とか、滑り台の下でもいい。

 ふと、とある建物が視界に入って思わず足を止めた。周囲の民家とは違った雰囲気の、何かの施設のようなデザイン。白い壁によく映えている鮮やかな色をしたステンドグラスの窓が印象的だ。入口付近には何か看板のようなものがある。

 雨のせいで普段より悪くなっている目を凝らしてどうにか読み取れた看板の文字は、『――図書館』。公共施設なら雨宿りに入っても大丈夫だろうと、私は即決して駆け込んだ。暖かみのある暗い色をした木製のドアを開ける。きい、と蝶番が擦れる音が微かに聞こえた。

 目に飛び込んできたのは、ちょっとした催し物ができそうなくらいの広めのエントランスホールだった。左右と奥に書庫へと続いているだろう出入り口がいくつか見える。正面の突き当りに据えられた職員が居るはずのカウンターには、誰も居なかった。

 司書の人はどこに居るのだろうか、と首を傾げながら私はカウンターへと近づいた。水を含んだ鈍い足音が静かなホールに大きく響いては吸い込まれるように消えていく。

 何となく足元に視線を落とせば、白い床がうっすらと色づいている。それがステンドグラスの色だと気付くのに時間はかからなかった。色とりどりの鮮やかなガラス窓は、ホールの床にぼんやりと月や星の模様を描いている。きっと外の天気が良ければもっと鮮やかに見えるのだろう。

 鞄の中からハンドタオルを出して特に濡れた箇所を拭きながらカウンターの前にたどり着くと、その上に一枚のメモ用紙が置いてあるのに気付いた。『御用の方はベルを鳴らしてください』と読みやすい丁寧な字で書かれている。その傍らには、曇りのない銀色の卓上ベルが鎮座していた。

 一瞬だけ迷って、私はベルに手を伸ばす。軽く叩けば、チン、と澄んだ高い音が辺りに響いた。

「――うわっ!」

 ベルの音とあまり間を置かずに、どこからか叫び声が聞こえた。続いて、どさどさと何かが立て続けに落ちる音。

 私は驚いて、びくりと肩を震わせる。音が聞こえてきた部屋の入口を見るけれど、それ以上何も聞こえなかった。ついでに誰かがこちらに来る気配もない……様子を見に行った方が、良いのだろうか。

 このままここに立ちっぱなしでいてもらちがあかない。そう思い、意を決して書庫へと続く入口をくぐった。分厚い本の詰まった書架たちが私を出迎える。書庫独特の古い紙の匂いが、どこか懐かしい気持ちにさせた。そういえば、図書館に入ったのはいつぶりだろう。

 ゆっくりと歩きながら書架の間を一つひとつ覗いていく。一歩足を踏み出すごとにかつり、かつりと靴が床に当たる音がした。奥から二番目を覗くと、目に飛び込んできた光景に思わず立ち止まってしまった。本棚の上の方数段から本がごっそりと抜けている。抜けてしまった分の本は、書架の間に山になって落ちていた。きっと、先ほどの音の原因はこれだろう。

 じゃあ、声は一体どこから。疑問に思いながら本の山を眺めていると、本と本の間に何かが挟まっているのが見えた。まさかと思いながら近付くと、それはどう見ても人間の指先で。

「だ、大丈夫ですか!?」

「うう……」

 びっくりして思わず声を上げると、私の声が聞こえたのか低い唸り声が聞こえた。どうやら男性のようだ。

 私はその手を取って、力いっぱい引いた。相手は引き上げられていることにすぐに気付いたらしく、握った手に力が込められる。ばさばさと音を立てて本の山が崩れた。

 埃を吸ってしまったのか軽くせき込みながら中から現れたのは、細身の男性だった。袖を捲られた白いシャツに黒のスラックス、黒のエプロンというすっきりとしたモノトーンの出で立ちで、清潔感がある。私より頭一つ分くらい高い彼は、服についた埃を軽く払い斜めになっていた銀縁メガネを直しながら口を開いた。

「ああよかった、危うく本たちに潰されるところでした……助けていただいてありがとうございます」

 ほっと息をついた彼は丁寧な口調でそう言うと、穏やかに笑った。メガネ越しに優しそうな瞳で見つめられ、私はどぎまぎしながら首を振る。

「あ、いえ……」

「それにしても珍しい。彗星図書館に利用者が訪れるのは、久しぶりですね」

「……すいせい、としょかん?」

 聞き覚えのある固有名詞。まさか、と思いながらその名称を復唱すれば、彼はにっこりと楽しそうに笑ってみせた。

「はい。ここは『彗星図書館』――星の数ほど本がある、がキャッチフレーズの、少し特殊な図書館です」

過去が読める、図書館。昼間の友人たちとの会話が思い返されて、私は思わずあのチラシが入ったままのジーンズのポケットに手をあてた。



 立ち話もなんだから、と床に散らばった本を適当に戻して、私と彼――司書の要です、と自己紹介された――はエントランスホールに戻った。最初に入った時は気付かなかったけれど、隅に置かれてあった白いソファに促されて腰を降ろす。ちょっと待っていてくださいね、と言い残してカウンターの奥へと消えた彼は数分後、銀色の盆を持って現れた。

「お茶をどうぞ。身体が温まりますよ」

 シンプルな白いティーカップが目の前のテーブルに置かれ、琥珀色の液体が注がれる。ありがとうございます、と断って口をつければ、ふわりと紅茶のいい香りが広がった。少し濃い目のダージリンだ。ほっとする香りと温度に、思わず口元が緩む。雨に濡れて冷えてしまった体にはとてもありがたかった。

 カップの中身を半分ほど飲んだ時、要さんがおもむろに口を開いた。

「お名前を聞いても良いですか?」

「高野です。高野春佳」

「高野春佳さん、ですか。では、春佳さん、とお呼びしても?」

「あっ、はい」

 要さんの申し出に、どきどきしながらも私は少し動転して勢いよく頷いた。家族や親戚以外の男の人に名前で呼ばれることなんてほとんどないから、緊張してしまう。

 普通なら初対面で、しかも男の人にいきなり名前で呼ばれることに抵抗を感じてしまうのに、どうしてか要さんに呼ばれるのは嫌だと思わなかった。彼の丁寧な所作と口調のせいだろうか。

「春佳さんはアルバイト希望の方でしょうか? 募集のチラシを持っていますよね?」

「っどうして、それを」

 不意にチラシが入っているポケットを示しながら言われ、私は少し大きな音を立ててカップを置いてしまう。驚いてその顔をまじまじと見つめると、要さんはわかりますよ、と穏やかに笑ってみせた。

「そのチラシ、ちょっと特殊なんです。知り合いに適当なところで配ってもらうように頼んでいて。チラシを見つけた人が必ずここに訪れるように、とまじないのようなものがかかっているんですよ」

「へ、へぇ……」

 まじない、というオカルトな単語がいきなり飛び出して、私は微妙な顔で相槌を打ってしまった。だってそんなの、眉唾だ。人のよさそうな顔でさらりと危険な言葉を口にされれば、誰だって身構えてしまうと思う。……好奇心旺盛な秋山君みたいな人は別として、だけど。

 怪訝な顔をする私の心境を察したのか、要さんはちょっと眉尻を下げて苦笑した。

「入場券のようなものだと思ってください。この図書館は、春佳さんたちの世界とは少しだけずれた場所――いわゆる【狭間】に建っていますから、普段はなかなか来れない場所なんです」

「……どういうことですか?」

「――春佳さんは、ここに来る時の道順は覚えていますか?」

 そう問われ、私は少し考えて首を横に振る。そういえば、覚えていない。雨の中住宅街を走っていたのは覚えているけれど、ここに来るまでの道は、どうしてだか思い出せなかった。

「ふと目に入ったから何となく訪れた、気が付いたら入口の前に立っていた。ここに来る方々は皆、そんな不思議な体験をしています。元々、この地はこういった少しずれた場所に繋がったり、同化しやすいようですね」

 だから、この宇多方市は不思議な話で溢れているのだと、要さんは続けた。

 ……言われてみれば、そうなのかもしれない。都市伝説と呼ばれる摩訶不思議な逸話が多い宇多方市。ここで生活している人は皆、自覚の有無関係なしに一度はその不思議な出来事に出くわしているとさえ言われている。

 ……じゃあ、佐上君が言っていたここの話も、本当なんだろうか? 昼間に彼が楽しそうに話していた、彗星図書館の不思議な噂も。

 私は、紅茶の残りを飲んで再びソーサーに戻しながら要さんに尋ねた。

「あの……ここって、彗星図書館って……過去を読むことができるって友人に聞いたんですけど……」

 恐る恐る切り出した私に、要さんは話をいきなり変えてしまったのにも関わらずああその話ですね、とあっさりと頷いた。

「ここで扱っている本は、普通の本とは少し、いいえ、かなり違います。簡単に言えば、人の思いで出来た本なんです」

「人の、思い?」

「はい。過去に誰かが強く思ったことが、そのまま本になっているんです。本になった思念は、その多くが誰かに読まれるのを待っている。本を遺した人と強い結びつきがある人物に読まれるのを」

 そこで彼は一度言葉を切る。少しだけ、遠くを見るような目つきをして、ふっと短く息を吐いた。

「そしてここに来る人は皆、誰かにもう一度会いたいと願っている……今はもう会えない、遠い過去に別れてしまった人に」

 それはまるで、過去の人――死者に、もう一生会うことのできない人の思いに触れることができるとでも言っているかのようだった。にわかには信じられない。そんな奇跡みたいなことが、本当にありえるのだろうか。

「本当に、会えるんですか?」

「信じるも信じないも、貴女次第ですけどね」

 思わず半信半疑で尋ねると、要さんは眉を下げた。けれどすぐにまた、穏やかに笑ってみせる。

「……春佳さん、貴女が逢いたいと願う人は、誰ですか?」

 こちらを見る黒縁眼鏡の奥にある目は、穏やかな光を湛えていた。



「……二つ上の、従姉が居たんです」

 気付いたら、私は幼い頃の記憶を思い出しながら話し始めていた。

「近所に住んでいた、母の兄夫婦の一人娘で。姉のような存在でした。彼女も、私のことを妹みたいに思ってくれてて。近所の公園で遊ぶのも、家族連れでどこかに行くのも、いつも一緒で」

 はるちゃん、と少し気取ったような声音で呼んでくれていたのをよく覚えている。いつも手を引いて、先に立って歩いていた、リボンの付いた淡い水色のワンピースが似合う従姉のお姉ちゃん。

「本当に、大好きだったんです。明るくて、優しくて、私より色んなことができて……でも、同時に少し妬ましくもありました。いつだって自分より先に立っている彼女が、誇らしいのに、嫌になる時がたまにあって」

 思い出すのは、私の七歳の誕生日の前日。元気だった彼女を見た、最後の日。

「その日は、母に怒られて少し機嫌が悪かったんです。怒られた理由は覚えて無いんですけど、ほんの些細なことだったと思います。なのに、いつもみたいに遊びの誘いに来た彼女には、母はとても優しくて。だから余計に機嫌が悪くなって。

 渋々ついて行った近所の公園で彼女が私に見せてくれたのは、可愛らしいクマのキーホルダーでした。叔母に――彼女のお母さんにもらったんだって得意そうに言って。元々機嫌が悪かった上にそうやって見せびらかされて、羨ましいやら妬ましいやらで頭にきて。

 気付いたら、かっとなって突き飛ばしていました。お姉ちゃんなんてもう知らない。そう言って、私は一人で家に帰ったんです。悲しそうに歪んだ顔、それが……私が最後に見た、生前の彼女の顔でした」

 自分の声がだんだん小さくなっていく。

「帰って数時間後、叔母から彼女が車に撥ねられたと連絡がありました。何が起こったのかわからないまま、黒いワンピースを着せられて、お葬式に連れられて。柩に眠る彼女の青ざめた顔を見て、そこでやっと何が起こったか理解したんです。

 それからずっと、今でも後悔してるんです。ごめんなさいも言えなかった。仲直りもできなかった。あの時私が帰らなければ、くだらないことで怒って帰らなかったら、もしかしたら、彼女は命を落とすことはなかったかもしれないのに……って」

 話すうちに、声がどんどん掠れてしまう。体温を取り戻したはずの指先がまた冷える。このことを親を含めた他人に話すのは、初めてだった。ずっと、自分の中に押し込めていたものだった。静かに私の話に耳を傾けていた要さんになんだか申し訳なくて、つい取り繕うように渇いた笑い声を出す。

「はは、なんかすいません。こんな暗い話を初対面の人にしてしまうなんて……私」

「会いたいですか?」

「え?」

 私の言葉を遮るように言った彼の声は、優しい響きを持っていたがどこか真剣なものだった。驚いて彼を見ると、レンズ越しに目が合う。

「お姉さんに、今でも会いたいと思っていますか?」

「…………」

 私は、一つだけ、こくりと頷いた。



 ついてきてください、と要さんに言われるままにその後を追う。ある書庫の一つに入った私たちは、無言で鎮座する書架の間を進んだ。彼の足取りに迷いはなく、向かう先がわかっているかのよう。きっと、実際にそうなのだろう。

 ひとつ、ふたつと何度か角を曲がって、彼はある書架の前で足を止めた。隙間なく並べられた本の中の一冊を引き抜き、振り返って私に差し出してくる。淡い水色の表紙には、端に同系色のリボンが描かれているだけでタイトルも著者名も書かれていなかった。背表紙にも、何も書かれていない。

「これは……?」

「どうぞ、開いて読んでみてください。――きっと、逢えますよ」

 誰に、とは言わなかったけれど、それが誰のことを指しているのかはすぐわかった。本を受け取り手にしたままおずおずと彼を見ると、彼は頷いて読むように促してくる。

 ごくり、と自分の喉が鳴った。心臓が忙しく動き出す。緊張で指先が小さく震えだすのを抑えながら、私は恐る恐る表紙を開いた。


***


 気がつくと、私は別の場所に立っていた。桜の木とツツジの生け垣で囲まれた小さな広場。少し塗装の剥げた滑り台やブランコが置かれた、懐かしい、場所。小さい頃彼女とよく遊んだ、近所の公園。

 ブランコに、小さな子どもが座っている。……腰元にリボンが付いた、淡い水色のワンピースを着た女の子。きい、と一度だけブランコが小さく揺れて、その子が顔を上げた。私は、目を見開いた。

「お、ねえちゃん……!?」

「ひさしぶりだね、はるちゃん」

 その子は、私を見てにっこりと笑った。忘れるはずがない、記憶にある声と、その姿。私が七歳になる前に亡くなった従姉。ずっとずっと会いたかった、大好きなお姉ちゃん。

「本当に、お姉ちゃんなの?」

「本当の、本物よ。だってほら、ぜんぜん変わってないでしょう? はるちゃんは、お姉さんになったねえ。わたしよりも、ずっとお姉さんだ」

 そう言って、彼女はふわりと笑った。私は思わず駆け寄って膝をつき、その小さな身体を抱きしめた。……あの頃は、私がお姉ちゃんに抱きしめられていたのに。

「お姉ちゃん、ごめんなさい。あの時、私が怒ったりしなかったら、一人で帰らなかったら、一緒に帰っていたら……」

 口に出せば、きりがない謝罪の言葉。声は掠れ、視界は歪み、嗚咽が止まらなくなる。やがて何も言えなくなってしゃくりあげるだけになった私の頭に、彼女の手が乗った。私よりもずっと小さい、子どもの手だった。

 けれど、とてもあたたかくて、優しい手。

「ううん、あやまるのはわたしの方だよ。はるちゃんの元気がなかったのに見せびらかしたわたしがわるいの。はるちゃんをおこらせて、不注意で道路に飛び出した、わたしのせい。わたしが死んじゃったから、はるちゃんはずうっとこうかいしてるのよね?」

「そんなこと、ないよ」

「そんなことあるよ。だからねはるちゃん、わたし、あなたにずっと伝えたかったことがあるの」

 聞いてくれる? と首を傾げて尋ねる彼女に、私は何度も頷いた。抱きついたままの身体を離して小さな手を握る。片手で止まらない涙を拭えば、歪んだ視界に彼女の微笑みが映った。

「はるちゃん、わたしはね。どんなはるちゃんも大好きよ。泣き虫なはるちゃんも、おこりんぼうなはるちゃんも、みんなみんな大好き。だからね、それをおぼえていてほしいの」

「うん……うん……」

「……ああでもやっぱり、笑った顔がいちばん好きだなあ」

 私は言葉にならなくて、何度も何度も頷いた。何も言えない私に、彼女は困ったように笑う。彼女はもう一度空いている手で私の頭を撫で、その小さな手で涙を拭ってくれた。満足そうにひとつ頷いて、彼女はそっと握っていた手を解く。

「……じゃあ、もう行かなくちゃ」

 風も無いのに彼女の髪が揺れる。彼女の身体を光が覆って、少しずつ強くなっていく。ああ、これで最後なのだ、とぼんやりと悟った。

「おねえちゃん」

 彼女が光になって消える直前、私は彼女を呼ぶ。きょとん、とした顔の彼女に、めいっぱい笑って見せた。

「わたしも、おねえちゃんのこと、ずっとずっとだいすきだよ」

 私の言葉に、彼女はふわりと笑った。私が大好きな、花が咲いたようなお姉ちゃんの笑顔だった。


***


「――おかえりなさい」

 低く優しい声がして、私は我に返った。目の前には、相変わらず穏やかな笑みを浮かべた、黒縁眼鏡の男の人。

「お姉さんには、ちゃんと会えたみたいですね」

 要さんの言葉にふと気づく。手元にあったはずの本が、消えていた。その代わりに、手に何かを握っている。何か、小さくて硬いもの。

 恐る恐る手を開くと、現れたのはキーホルダーだった。組み紐の先には大ぶりのビーズで作られた、水色のクマが付いている。

「おねえちゃん……」

 私は、それをぎゅっと胸に抱きしめた。少し赤くなっているだろう目尻にまた涙が浮かぶ。肩を震わせて静かに泣く私に、要さんは何も言わずに付いていてくれていた。

 どのくらい泣いていたんだろうか。目を真っ赤にして泣き腫らした私に要さんは濡れタオルを渡してくれた。少し暖かいそれからはふわりとカモミールの香りがする。目を閉じて腫れてしまった瞼に当てると、優しい香りがいっそう強く感じられて、心も少しずつ落ち着いていくのがわかった。

 要さん、と一度目からタオルを離して声をかける。きっと、今の私は酷い顔をしているんだろう。でも、要さんは変わらず穏やかな微笑みを私に向けてくれていた。

「ここに、『彗星図書館』に来れて、良かったです」

 今できる精一杯の笑顔を浮かべて、私はそう伝えた。隠しようのない、心からの言葉だった。

 講義室でアルバイト募集のチラシを見つけなければ、きっとここの存在すら知らないままだった。雨に降られてここに辿りつかなければ、単なる噂として記憶から抜け落ちてしまっていた。

 ……彗星図書館で要さんに出逢わなければ、きっと従姉との思い出を重苦しいものとしてひとりで抱えたままだった。もう一度彼女と、話すことなんてできなかった。

「ありがとうございます、要さん」

「……僕は大したことは何もしてないですよ。僕はただ、案内とほんの少しのお手伝いをしただけです。それが彗星図書館の司書の務めですから」

 目尻を下げて、要さんは謙遜する。その笑顔が、あんまりにも優しいものだったから。私はまた涙腺が緩みそうになって、今更だけれど慌ててうつむいた。

「さて、本来なら、この時だけの関わりで終わらせてしまっても良いのですが……」

「?」

 一度言葉を切った要さんは、こほん、とひとつ咳払いをした。なんだろう、と顔を上げた私に、彼は今までとは違う少し改まった様子で再び話し出す。

「どうやら春佳さんは、この彗星図書館と縁ができてしまったみたいです。あなたはアルバイト募集のチラシを手にして、【狭間】に在るこの図書館に訪れることができた。そして、ここにはあなたに読まれるため待っていた一冊があり、あなたは大切な思い出にもう一度触れることができた。そうやって奇跡が重なったことで、一期一会の筈の縁が切れにくい糸になってしまった――だから、春佳さん。もしよかったら、ここでアルバイトをしてみませんか」

「アルバイト……私が、ですか?」

 突然の申し出に、私は目を丸くして思わず訊き返す。要さんははい、と首肯した。

「チラシにもあるように、彗星図書館はアルバイトを探しているんです。現在職員は僕しかいなくて、正直人手が足りません。しかもここは特殊な場所に在るものですから、普段からここに来れる人は限られてしまう。

 ……ですから、切れにくい縁を持った春佳さんなら、ここでアルバイトをしてもらうことも可能では、と思ったんです」

「でも、私、この図書館のことなんて何も知らなくて」

 突然切り出されたことへの戸惑いはもちろんある。けれどそれ以上に、話が特殊すぎて困惑していた。彗星図書館のアルバイトをするということは、都市伝説にこれからも関わり続けるということ。非日常が、日常の中に溶け込んでいくということ。特殊な図書館のお手伝いなんて、一介の大学生でしかない、それもまだ成人していない私なんかがやってもいいのだろうか。

 しりごみする私の心情を汲んでか、要さんは大丈夫ですよ、と励ますように言った。

「本の中身以外は【現】の――普通の図書館と変わりませんし、専門的な業務は僕がします。春佳さんには蔵書の整理や掃除など、できる範囲で僕の手伝いをして欲しいんです」

 勿論無理にとは言いませんが、と付け足して、彼は私の返答を待つ。彼の穏やかな声と丁寧な口調は、まるで決断しかねている私の背中を押すようだった。

 もし今、アルバイトを断ったなら、と少しだけ考える。もしも、要さんの申し出を断って、このまま図書館を出たら。この図書館に私が再び足を踏み入れることは、要さんと会うことはもう二度とできないような気がした。そして私はきっと、お姉ちゃんとのやりとりや要さんのことをすべて「大切な思い出」にして、心の中にずっと仕舞っておくのだろう。

 ここにもう、来れなくなる。この優しい司書に会えなくなる。そう考えると、急にとても寂しくなった。もっとここの事が知りたい、自分の他にどんな人が図書館を訪れるのか、本を読み終えた時に何を思うのか知りたい――司書である要さんのことを、もっと知りたい。考えていくうちに、自分に勤まるかという不安よりももっと別の感情が私の中を支配していく。

「……はい、私でよかったら、喜んで」

 気がつけば、自分の口から言葉がこぼれていた。

 私の返答を聞いたとたん、要さんは肩の力を抜き、良かった、と小さく呟きながら破顔する。その様子が、本当に嬉しそうだったものだから、私もつられて微笑んだ。

「では、これからよろしくお願いしますね、春佳さん」

 そう言って、要さんは私に手を差し出してくる。節くれ立っているけれど、しなやかな手。一回り以上大きなその手に自分のそれを重ね、私は緩く力を込めた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」


***


 ……これが、私が出会った宇多方市の都市伝説。私が体験した、そして今も関わり続けている摩訶不思議な事象。

 過去の思いに触れることが出来る不思議な図書館。もう二度と出会うことが出来ないはずの過去の人と再会し、ほんのひととき言葉を交わすことが出来る、魔法のような本が蔵書された奇跡の図書館。

 偶然足を踏み入れ戸惑う利用者に対して、メガネをかけた優しく穏やかな司書はお決まりの言葉を紡ぐ。

「ここは彗星図書館。星の数だけ、人の思いの数だけ本がある、がキャッチフレーズの、少し特殊な図書館です」


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― 新着の感想 ―
[良い点] ちょっとファンタジーな雰囲気がよかったです。
2019/01/26 09:42 退会済み
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