13
傷つけてしまった相手が咲本でなければよかったなんて、そんな身勝手な事を考えてしまっていた自分に、今になってようやくこの気持ちに気がついた自分に自嘲の笑みが漏れる。
『人を好きになるきっかけなんて些細なモノなんだよ』
『付き合ってみて、相手のことを知って、それから好きになるって恋の形もあるんだよ』
脳裏に、今朝麻倉に言われた言葉が浮かぶ。
「これじゃあ麻倉の言った通りじゃないか……。全部終わってから気がつくなんて、俺もつくづくバカだよな」
咲本と関わったのはたった二日の間だけ。それでも、俺が彼女に惹かれるには十分だったらしい。今思うと、彼女の隣はひどく居心地が良かった。何気ない会話をしながらの登下校も、暖かい手に引かれて校舎まで走った時も、俺は確かに楽しかった。
「……ん?」
そこまで考えたところで、何かが引っかかった気がした。明確な形をもたないそれは、しかし確実にじわじわと広がり始める。
俺は何か重要な事を見落としているんじゃないだろうか。確信ににたモノを感じて、俺はもう一度記憶の中に身を沈めた。
今、自分は咲本に手を引かれて走った昨日の朝のことを思い出していた。走り出す直前、俺は彼女に本当の事を告げようとしていて、それを遮るように彼女が走り出したのだ。そのとき、咲本の表情が一瞬翳ったような気がしたのを覚えている。
だが、頭の隅に引っかかった何かは咲本の表情ではない気がする。
「それ以外にあの時思ったのは、咲本の手が温かいなってことと……温かい?」
思わず自分の手のひらに視線を落とす。確かに咲本の手は温かかった。それは確かな事なのに、妙に何かが引っかかる。と、そのとき、脳裏に冷たい手の感触がよみがえった。あれは、確か俺が咲本に告白したときだ。あのとき俺の手を握った咲本の手は――
――とても、冷たかった。
俺に触れた冷たい手と、つないだ手から伝わったあの温もり。どちらも本当だ。この相違は、何を意味するのだろう。
「考えろ……考えろ」
きっとこれはとても重要な事だ。見逃してはならない咲本からのサイン。
さっきまで必死に忘れようとしていた事を必死に思い出す。
温度の違う手のひら、寂しげな笑顔、告げられた真実。咲本は最初から知っていたと言った。おもしろそうだったから『恋人ごっこ』をしたのだと。それが本当だというのなら、彼女が時折見せたあの寂しげな笑顔や、瞳に差した陰、あれもすべて演技だったというのだろうか。
さっきまでの俺なら、無理にでもそうだったと決めつけ納得しようとしたかもしれない。しかし、今の俺には咲本の表情すべてが彼女の計算に裏打ちされたものだとは思えなかった。
「ああ、くそっ」
頭のなかがぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。
「今更何を考えようが、咲本との関係が元に戻るわけじゃないのにな……」
もうあきらめて帰ってしまおうか、と足を踏み出そうとしたとき、
「くしゅん!」
背後から小さなくしゃみが聞こえた。
反射的に振り返るが、そこにいたのは知らない女子生徒だった。振り返った俺の表情が切迫したものだったのか少し驚いたようだが、すぐに俺から視線を外すと横を通り過ぎる。
「そうだよな、咲本がいるわけないよな」
無意識に期待していた自分に嫌気がさす。咲本は今頃鹿嶋に告白されているのだろう。
「そういえば、あのとき聞こえたくしゃみを麻倉がしたんだと勘違いしたんだっけ」
あのまま麻倉がそれを否定しなければ、告白をせずに済んだかもしれないのに。往生際悪くそう考えたところで、ふと気がついた。
「あれが麻倉じゃなかったってことは、咲本がくしゃみしたってことだよな。まぁ寒かったしくしゃみしたっておかしくは……」
――まさか。
その瞬間、俺の中で何かが繋がった。
すごい勢いである仮説が組み上がる。
もし、もしもこれが本当なら、咲本は嘘をついたことになる。きっと、俺のために。
「咲本っ!!」
気がつくと俺は、校舎に向かって疾走していた。