12
午後の授業はまったく頭に入らなかった。広げただけのノートは真っ白なままで、先生の単調な声も耳を素通りする。
俺の頭を占めるのは咲本のことだけで、6時間目が終わったことも麻倉に肩を揺すられるまで気がつかなかった。
「で、どーすんだよこれから」
口調は軽かったが、中野の問いには真剣な響きがあった。
これからどうするかなんて考えてもみなかった。いや、考えなかったんだ。今更どうしたところで、何ひとつ元に戻るモノなんてない。
「――元に、戻す……?」
「……なんだって?」
不意に呟いた俺に麻倉が聞き返したが、俺は頭の中を整理することで手一杯だった。
今更どうしたところで、どうしようもないのは事実だ。だがそんなことはこの際重要じゃない。問題は、俺が「元に戻るモノ」なんてないと思ったことだ。つまり俺は――
――咲本との関係を元に戻したいと思っている?
そこまで考えて、俺は大きく頭を振った。そんなはずがない。今の自分は予想外の出来事に混乱しているんだ。
気づきかけた可能性を心の奥に押しやって、俺は椅子から立ち上がった。
「おい、遊馬、どこ行くんだよ!」
そのまま鞄を引っ掴んで教室を出ようとする俺を、中野が押しとどめた。
「どこって帰るんだよ」
「帰るってお前……」
「じゃあどうしろって言うんだよ!」
珍しく声を荒げた俺に、中野と麻倉は目を見開いた。俺自身怒鳴るつもりはなかったが、理性に感情が勝ってしまったのだ。
なんとなくばつが悪くて、俺は二人から視線を外して続けた。
「今更何したって手遅れなんだ。もう終わったんだ。俺が……終わらせたんだ」
そこまで言うと、俺は中野の腕を振り切った。
まるで何かに追われているかのように、俺は走り続けた。振り返ってはいけない、なぜかそんな気がして、ただ機械的に足を前に出す。グラウンドを突っ切って校門を出たところで、やっと俺の足は止まった。
冬だというのに頬を伝う汗を乱暴にぬぐい、膝に手をついて荒い呼吸を整える。しばらくその体勢でいると、呼吸は落ち着いたものの、乾いた汗に奪われた熱で体が冷えてしまった。
「はは……何やってんだろ、俺」
自嘲めいた呟きがもれる。
澄んだ冷気にぶるりと身を震わせたところで、手に握りしめている紙袋を思い出した。
「そっか。昼間のマフラー持って帰ってきたんだっけ」
そっと紙袋を開くと、キレイにたたまれた黒一色のマフラーが目に入る。
せっかく防寒具があるというのに、マフラーを取り出すことを一瞬ためらった自分に嫌気がさした。何を考えてるんだ自分は。これは俺のマフラーだろうが。
何かを振り払うように頭を振って、紙袋に乱暴に手を突っ込む。マフラーを引っ張り出して首に巻くと、かさりと音を立てて何かが地面に落ちた。
「何だ……紙?」
気になって拾い上げると、それは四つに折りたたまれたメモだった。紙袋に入っていたのだろうか。かじかむ指でメモを開くと、そこには少し丸みを帯びた小さな文字が並んでいた。
『遊馬くん、昨日はマフラーをどうもありがとう。なんだか心まであったかくなりました! なんてね。とりあえず返すけど、クリスマスにはマフラー編むから期待しててね』
「咲本……」
無邪気な笑顔が目に浮かぶような文面に心が震える。
思わず空を仰ぐと、冬の澄み切った青空が眩しすぎて、俺は目を閉じた。まぶたの裏に焼き付いた咲本の笑顔。考えれば彼女に告白をしたのはたった二日前のことだった。
咲本のことは忘れよう、考えないでおこうと思っているのに、頭は俺の意志に反して咲本と過ごした時間を丁寧になぞり始める。いきなり目の前に飛び出して味気ない告白をした俺に触れた、咲本の冷たい手。その感触を、まだはっきりと思い出せる。あの時、あの場所を通りかかったのが咲本じゃなければ、考えてもしょうがない事なのに、もしこうなっていれば、あそこでああしていたら、そんなことばかりを考えてしまう。通りかかった相手が咲本じゃなくても、俺がその相手を傷つける事実は変わらないというのに。そこまで考えて、俺はやっと気が付いた。
「そうか……俺は――」
――俺は、咲本のことが好きだったのか。
そんなことは絶対にないと思っていたのに、『好き』と名前がついたとたんに、その感情は俺の胸にすとんと落ちてきた。