2.金の聖獣
バイフーの声に誘われて、西から星空を覆い隠すように、うごめく闇が近付いてくる。それはおびただしい数の巨大な異形の魔獣たち。
虫や蛇や猛獣に似たものや、それらがひとつに組み合わさったようなおぞましい姿をしている。
初めて目にした聖獣と魔獣の姿に、メイファンは空を見上げたまま立ち尽くした。
バイフーは口から白い炎を吐きながら、向かってくる魔獣たちを大きな前足でなぎ倒す。
数は魔獣の方が圧倒的に多いが、メイファンにはバイフーの方が優勢に見えた。
しばらく空を見つめていたメイファンは、ようやくハッと我に返った。
魔獣は人を喰らうと聞く。幸い今はみんなバイフーに気を取られていて、地上にいる人には見向きもしていない。
(今の内に逃げなきゃ!)
メイファンは聖獣殿に向かってかけだした。
周りにいた人々はいつの間にかいなくなっている。通りにはメイファンだけしかいなかった。
次の角を曲がれば聖獣殿が見える。メイファンが歩を早めたとき、通りの真ん中に大きな魔獣が降り立った。
全身は炎をまとったような橙色の毛で覆われ、四つの足には黒い縞模様があり姿は虎のようでもある。そして背中には鷲のような二つの翼が生えていた。
その翼が巻き起こす風に煽られて、メイファンは一歩後ろに足を退いてよろめく。
魔獣の赤い瞳がメイファンを捉え、耳まで裂けた大きな口が薄く開いて鋭い牙がのぞく。ニタリと笑ったように見えた。
「見つけたぞ、門の娘」
魔獣がしゃべったことにも驚いたが、地の底から響くような低いその声に身がすくむ。メイファンは声を出すこともできず、その場に立ち尽くした。
門の娘とは自分のことだろうか。だとしても、いったいなんのことなのか、さっぱり思いつかない。
動けずにいるメイファンに向かって、魔獣が一歩踏み出す。
その直後、魔獣の足元に、轟音と共に雷が突き刺さった。
その衝撃に押されてメイファンは、その場に倒れる。上半身を起こして雷の落ちた場所を見ると、そこには光り輝く金の聖獣がいた。
龍のような頭には一本の角。金の鱗に覆われた馬のような体に金のたてがみ。獅子のように細い尾の先には豊かな金の房毛が揺れていた。
守護聖獣よりももっと人前に現れることのない聖獣の王、麒麟。メイファンも伝説でしか知らない。
金の麒麟のそばには、一回り小さい白い麒麟もいた。
翼のある虎の魔獣は、雷の直撃を逃れて後ろに飛び退いたらしい。先ほどより下がった位置から麒麟たちを睨んでうなっている。
魔獣は金の麒麟に向かってほえるように叫んだ。
「おのれ、ワンリー! また邪魔しにきたのか!」
「人の世界を守護するのが俺の役目だ。人の世を乱すおまえの好きにさせるわけにはいかない」
麒麟は前足の蹄でゆっくりと地面をかきながら頭を低く下げる。その額にある角を雷が取り巻き始めた。角の先端は魔獣の方を指している。
「立ち去れ、チョンジー。そうすれば見逃してやる」
麒麟の威嚇に虎の魔獣チョンジーは、忌々しげに顔をゆがめて空へ舞い上がった。
チョンジーは一声雄叫びをあげて西に飛び去る。その後を追うようにバイフーと対峙していた魔獣たちが一斉に西へ退いていった。
魔獣のいなくなった空には、太陽が徐々に顔を覗かせ始めていた。あたりが次第に明るさを取り戻していく。
地面に座り込んでいたメイファンは、魔獣の脅威が去ったことに安堵して、ゆっくりと立ち上がった。
目の前にいた麒麟が、首を巡らせてこちらを向く。
魔獣を追い払ってくれた聖獣だとはわかっていても、普段目にする馬や牛よりもふた回り以上大きな体はやはり少し怖い。
でもお礼を言わなきゃ! そう思って口を開きかけたとき、麒麟がまばゆい光を発した。
メイファンは咄嗟に目を閉じる。そして光が消えたことを察して目を開くと、そこには見知らぬ青年が立っていた。
おそらく先ほどの麒麟が人に変化したのだろうと推測する。なにしろ胸の前に垂らした髪が、麒麟のたてがみのように金色で、まっすぐにこちらを見つめる瞳も金色なのだ。
聖獣が守護するこの世界ガイアンには、黒髪黒目の人しかいない。少なくともメイファンの知っている世界にはこんな派手な容姿の人はいなかった。
おまけに派手なだけでなく、その顔は見惚れるほどに整っている。
言葉を失うメイファンに、金色の青年は話しかけてきた。
「ケガはないか?」
その声は間違いなく先ほど聞いた麒麟の声と同じだ。メイファンはハッと我に返って答えた。
「あ、はい。大丈夫です」
「そうか、よかった」
青年は嬉しそうに微笑む。そしていきなりメイファンを抱きしめた。
突然のことにメイファンの体は硬直し、頭の中は真っ白になる。青年が耳元でつぶやいた。
「会いたかった。ようやく会えた」
その声にメイファンの頭は思考を取り戻す。
(この人、私を知っているの?)
自分自身には麒麟は元より、こんな派手な人に会った記憶はない。いったいどういうことなのか気になるが、それより今はこの状況の方が問題だ。
「放して!」
メイファンは青年の体を突き放し、その腕の中から逃れる。そして反射的に彼の頬を平手で打っていた。
「いきなり無礼です!」
青年を睨んで怒鳴るメイファンの鼻先に、剣の切っ先が突きつけられる。
「貴様こそ無礼だ、娘」
ゴクリとつばを飲み込んで剣の元を目でたどると、金色の青年の横に白髪の青年が、青い瞳に怒りを湛えて睨みつけていた。
この青年も先ほど金の麒麟のそばにいた白い麒麟なのだろう。
「この方はガイアンの守護聖獣たちを統べる王、ワンリー様だ。手を挙げるなど不届き千万!」
今にも手打ちにしそうな白い青年の腕を押さえて、ワンリーが制する。
「退け、ソミン。俺がうっかりしていた。この娘はなにも覚えていないのだ」
ワンリーに言われてソミンは剣を収め、頭を下げて一歩退いた。
ホッとしたものの、ワンリーの言葉が引っかかる。やはりどこかで会ったことがあるのだろうか。それを自分は忘れているということだろうか。
記憶をたどって考え込むメイファンに、ワンリーは懐かしそうに微笑んだ。
「俺はワンリー。おまえ、今の名はなんという?」
「(今の名?)……メイファンです」
「そうか。おまえに会えたことが嬉しくて動転していた。すまない」
「いえ……私こそ叩いてごめんなさい」
こんなきれいな青年に、会えたことを動転するほど喜ばれて、なんだか気恥ずかしくなったメイファンは目をそらしてうつむく。
しかし、何度記憶をひっくり返してもワンリーのことは思い出せない。
自分がなにも覚えていないことは知っているようなので、本人に聞いてみることにした。
「あの、ごめんなさい。私はあなたのことを覚えていません。いつあなたと出会ったのでしょうか?」
「あぁ。謝る必要はない。人の魂は体が変わるたびに記憶をすべて失うからな。おまえと俺が出会ったのは今のおまえにとっては前世のことだ」
「へ?」
そんなこと覚えているはずがない。
呆気にとられるメイファンを気にもとめず、ワンリーはさらに続ける。
「初めておまえに会ってから五百年間、おまえの魂は何度も体を入れ替わり、ただ一度を除いてずっと俺の妻だったのだ。さぁ、共に行こう。わが妻、メイファン」
そう言ってワンリーはメイファンの手を取った。その手をふりほどこうと、メイファンは後ずさる。
「え、いや、ちょっと。いきなりそんなこと言われても……」
「なんだ? 俺に会う前に誰かの妻になっていたのか?」
「いや、それはないけど……」
「ならば問題ないではないか」
「問題あります! さっき出会ったばかりの人といきなり結婚なんてできません!」
そもそもワンリーは人ですらないし。その辺りを前世の自分は疑問に感じなかったのだろうかと不思議でならない。
ワンリーは余裕の笑みを浮かべて自信満々で言い放った。
「案ずるな。おまえはいつも最初はそうやって拒んでいるが、いずれ俺の妻になっている。必ず俺に惚れさせてみせる」
いったいどこからそんな根拠のない自信が湧いてくるのか。王という立場のなせる技か。
メイファンは言葉をなくして、苦笑に顔をひきつらせた。