4.月夜の逢瀬
メイファンはすぐに寝台から降りて身構えた。身の回りに武器になりそうなものはなにもない。そもそも男に勝てるとは思えない。逆光で顔は見えないけど、体格から男であることはわかる。
入り口を入った男は悠然とメイファンに近づいてくる。入り口から男の背後に空間ができた。入り口横の部屋には侍女が控えている。メイファンは大声で叫んだ。
「シェンリュ! 逃げて! 誰かに知らせて!」
すぐそばまで迫っていた男が、いきなりメイファンの腕をつかんで引き寄せ、手で口をふさいだ。
「大きな声を出すな。彼女を呼んでも無駄だ。入る前に眠ってもらっている」
「んーっ!」
すっかり混乱して暴れるメイファンに、男は顔を近づけて諭す。
「落ち着け。俺だ」
「ん?」
目を見開くメイファンの前には、ずっと会いたいと思っていたワンリーの顔があった。メイファンが気付いたことを悟って、ワンリーは手を離す。今度はメイファンがワンリーの腕を掴まえて迫った。
「ワンリー様、どうしてここへ? 牢に収容されたんでしょう?」
「今も収容されているぞ。俺の幻影がな」
そう言ってワンリーはいたずらっぽく笑う。やはりワンリーがおとなしく言いなりになっているはずがなかったようだ。ホッとしてメイファンはクスリと笑った。
「どうして私の居場所がわかったんですか? やはり門の波動で?」
「それもあるが、おまえがずっと俺を呼んでいたからだ」
「え?」
まったく覚えのないメイファンは首を傾げる。ワンリーはメイファンの頬に手を添えて目を細めた。
「俺のことをずっと考えていただろう?」
手のひらから伝わる熱が心の奥まで暖かくする。その温かさが再びワンリーに会えた実感となって、目を潤ませた。メイファンはワンリーを見上げて小さく頷く。
「はい。ずっと心配していました。ワンリー様がご無事で安心しました」
微笑んで目を細めたとき、目の端から涙がこぼれて頬を伝った。それを見てワンリーが焦ったように顔をのぞき込む。
「どうした? なぜ泣く? なにか酷い目にあったのか?」
「いいえ。客人のように扱われています。ごめんなさい。ホッとして気が緩んだみたいです」
笑いながら指先で涙を拭うメイファンを、ワンリーが抱きしめた。
「すまなかった。そんなに心配をしていたのか。もっと早く来ればよかったな」
「もう大丈夫です。ワンリー様は大丈夫ですか? なにか酷いことされたりしませんでしたか?」
「いや。牢に入れられていただけだ」
「そうなんですか?」
不思議に思ってメイファンはワンリーを見上げる。捕まってからずいぶんと時間が経っている。少しくらいは取り調べが行われていると思っていたのだ。
ワンリーは腕をほどき、メイファンの手を握る。そして庵の出入り口に向かった。
「話はあとにしよう。ここを出るぞ。姿を消すから少しの間黙っていろ」
「待ってください」
立ち止まったメイファンの腕に引かれて、ワンリーも立ち止まる。怪訝な表情で振り返ったワンリーにメイファンは告げた。
「私が黙ってここから姿を消したら、シェンリュがお咎めを受けてしまいます」
「なるほど。それはまずいな」
ワンリーは少し考え込んだあと、名案を思いついたように目を輝かせる。
「途中まで同行してもらうというのはどうだ? 頃合いを見てひとりで帰ってもらうんだ。一緒に連れ去られたならお咎めはないだろう」
それを聞いて、メイファンは申し訳なさそうに苦笑した。いい考えのようだが、おそらくお咎めは免れない。
「たぶんダメだと思います。ひとりで帰っては、シェンリュが私を放ってひとりだけ逃げてきたと思われます」
「人というのは疑り深いものなんだな」
呆れたようにため息をつくワンリーに、メイファンはひとつ提案する。
「あの、ワンリー様は元の牢に戻っていただけませんか?」
「どういうことだ?」
ワンリーは訝しげに眉をひそめた。メイファンは続けて昼間ガーランの言っていたことを説明する。
「確実にうまくいくかどうかはわからないんですけど、帝の側近だという方に事情を説明しました。その方が取り調べの人に伝えて下さるそうです。もしかしたら、ワンリー様は釈放されるかもしれません」
「そうか。そういうことなら、少し様子を見てみるか」
「ありがとうございます」
ワンリーが納得してくれたようで、メイファンはホッと息をつく。するとワンリーの腕がメイファンをふわりと抱きしめた。
「俺のために骨を折ってくれてすまない」
「いいえ。いつも私はワンリー様に助けられています。私もワンリー様を助けたくて……」
メイファンの言葉に、ワンリーはクスリと笑って耳元で囁く。
「かわいいな」
そして頬に軽く口づけたあと、抱きしめる腕に力を込めた。耳や頬に触れた吐息にドキドキしながらも、メイファンは力強い腕の温もりに安心して身を委ねる。少しして腕を緩めたワンリーはメイファンのあごに手を添えて上向かせた。少し意地悪な色をたたえた瞳がメイファンを見つめる。
「またおまえと離れるのは寂しいな。おまえもそうだろう? 俺から離れていると俺のことばかり考えるほど俺に惹かれているのだろう?」
いつものように自信満々で断言されて、ドキリと鼓動がはねた。けれど図星には違いない。いつの間にかメイファンの中で、ワンリーがなくてはならない存在になっていた。
メイファンは微笑んで小さく頷く。
「はい。そうだと思います」
「ようやく気付いたか」
嬉しそうに笑ったワンリーの顔が徐々に近づいてくる。メイファンは静かに目を閉じた。
唇が触れ合い、メイファンの体がピクリと硬直する。抱きしめる腕に力を込めて、ワンリーがついばむように何度も口づけを繰り返す。初めての体験にどうしていいかわからず、メイファンは身を堅くしてワンリーにしがみついていた。
やがてワンリーがゆっくりと体を離して、メイファンは目を開く。なんだか気恥ずかしくて、まともに目が合わせられない。うつむくメイファンの頬をなでて、ワンリーが告げた。
「あと少しだけ辛抱してくれ」
「ワンリー様も無茶はなさいませんように」
メイファンはようやく顔を上げて、互いに笑みを交わし合う。ワンリーは来たときと同じように静かに庵を出ていった。
誰もいなくなった暗い部屋の中で、メイファンはぼんやりと立ち尽くす。ワンリーと触れ合った唇に指先でそっと触れてみた。途端に記憶がよみがえり、顔が熱くなる。頭がぎゅっと締め付けられるような感覚に、鼓動も早くなった。
「ワンリー様……」
無意識に名前を呼んでみて、恋しさが募る。さっき別れたばかりなのに、自分で牢に戻るように促したのに、またすぐにでも会いたくてしかたがなかった。
月明かりに照らされた庭園の回廊をガーランはひとりで歩いていた。政務から解放され、ひとりきりになれる夜の散歩は心地いい。特に決めているわけではなかったが、いつの間にか日課のようになっていた。
今日はシィアンの魂を宿す娘がいる。まだ心を許してはいないが、シィアンのように冷たく拒絶されてはいない。もう少し言葉を交わして、距離を縮めたい。
まだ眠るには少し時間が早いだろう。そう思って娘のいる庵に足を向けた。
池の上にある庵が見えてきた時、強い光の気配を感じてガーランは咄嗟に自分の気配を殺す。回廊の柱の影にひそんで庵を注視すると、金の麒麟が飛び立つのが見えた。人にその姿は見えないが、チョンジーと同化したガーランには見える。
ガーランは庵を睨んで歯噛みした。
「ワンリーめ。もう嗅ぎつけたか。急がねば」
ガーランの胸の内で、黒い炎が燃え上がった。