3.魔獣王の調略開始
広い庭園を巡る回廊をガーランと共に歩きながら、メイファンは密かにあたりを見回した。広い庭園には大きな池があり、白い花弁に薄紅がさした睡蓮の花がいくつも浮かんでいる。きれいに剪定された庭木の葉は陽光に照り映えていた。どう考えても、こんなきれいなところに罪人を収容する牢があるとは思えない。
ワンリーと別々に収容されて取り調べを受けるのだと思っていたが、あまりに場違いなところにいる気がして、メイファンは落ち着きをなくしていた。ワンリーがどこに連れて行かれたのかも気になる。
幸いガーランは物静かな人のようで、おまけに権力もあるらしい。先ほど周りにいた怒りっぽい兵士たちよりは話しかけやすい。メイファンはおずおずと問いかけた。
「あの、ワンリー様……私の連れはどこに連れて行かれたんでしょうか」
「罪人を収容する牢です。場所は明かせませんが」
確かにそうだろう。場所が知りたかったのだが、さすがにそこまで浅はかな人ではないようだ。
「では、私もそこへ収容されるのですか?」
ため息まじりにメイファンが尋ねると、ガーランはにっこりと微笑んだ。
「いいえ。あなたは収容されません」
「え? なぜですか?」
面食らって目を見開くメイファンに、ガーランは苦笑まじりに明かす。
「もう市井に色々と噂が広まっているのであまり意味はないんですが、これからお話しすることは、できれば内密にお願いします。実は太子様の容態がよくないんですよ」
「はい。それは耳にしました」
「その原因は聞きましたか?」
「いいえ。聞いてもいいんでしょうか?」
「えぇ。噂になっていますから」
「では、どういう?」
「チンロンの呪いと言われています」
「呪い……」
メイファンは思わず絶句する。いったいどうしたら守護聖獣が人を呪うという話になるのだろう。
「チンロンはテンセイの守護聖獣ですよね? 人を呪うなんてあるんですか?」
「真偽のほどは私にもわかりません。ですが、太子様の頬にくっきりと龍の形をした青い痣が浮き上がっているのです」
青い龍。まさしくチンロン。
「この痣ができてから、太子様は体調を崩されました。術師はチンロンの呪いだと言っています」
「それで聖獣殿が立ち入り禁止になってるんですか?」
「そうです。というより、立ち入ることができないのです。術師によると、なにか強い力で結界が張られているということです」
あの黒い幕のようなもののことだろう。ワンリーが呪詛結界だと言っていた。
だいたいの事情はわかったが、それでどうして自分が投獄されないのかメイファンにはわからない。思い切って聞いてみた。
「あの、それで、どうして私は牢に収容されないんでしょうか?」
ガーランがにっこり笑ってメイファンを見つめる。
「あなたが愛らしい女性だからです」
「は?」
こんな時に、からかわれているのだろうか。わかっていてもなんだか照れくさくて顔が熱くなる。それが少し悔しくて、メイファンはムッとしたようにガーランを睨んだ。
「冗談でごまかさないでください」
「冗談ではなくあなたは本当に愛らしい。言われたことはありませんか?」
「……今はどうでもいいことでしょう?」
ワンリーに言われたことはあるが、無関係な人にわざわざそれを言いたくはない。メイファンは眉を寄せたままガーランから目を背けた。
ガーランはフッと笑みをこぼして、話を続ける。
「ご機嫌を損ねてしまったようですね。あなたが愛らしいのは事実ですが、それはこの際置いておきましょう。重要なのはあなたが女性であるということです」
「どういうことですか?」
思わず視線を戻したメイファンに、ガーランは安心したように微笑んだ。
「聖獣殿を封鎖している術師が男だからです。宮廷の術師が目撃しています。あいにく取り逃がしてしまったのですが」
「そうですか」
ようやく自分が牢に収容されない理由がわかった。けれどワンリーにとってはとんでもない濡れ衣だ。
メイファンはすぐさま釈明をする。
「私たちはビャクレンから所用で来ました。さっきテンセイに着いたばかりです。聖獣殿にはお参りをしようと思って行きました。勝手に立ち入ったのは悪かったと思いますが、決して太子様を脅かそうとしたわけではありません」
必死に訴えるメイファンに、ガーランはにっこりと微笑んだ。
「わかりました。取り調べの者に伝えておきましょう」
そう言ってガーランは回廊から池の上にせり出した庵を指さす。
「お連れの方の取り調べが終わるまで、あなたにはあちらにいてもらいます。牢ではありませんが、自由に出歩くことはご遠慮願います。侍女をつけますので、生活の不自由はないように配慮しましょう」
「わかりました」
侍女といっても監視役だろう。牢には収容されないとしてもメイファンも一応罪人扱いには違いない。
庵の前までメイファンを案内したガーランは、メイファンの頬に軽く手を添えて微笑んだ。
「少しの辛抱です。あなたのような愛らしい人が罪人であるはずがないと私は信じています」
「あ、ありがとうございます」
笑顔をひきつらせながらメイファンは礼を述べる。その様子にガーランはクスリと笑ってその場を立ち去った。
それを見送ってメイファンはホッと息をつく。ガーランに触れられた頬から、冷たい恐怖が背筋をゾクリと震わせた。穏やかで優しげな人なのに、言いようのない怖さを感じる。理由のわからない恐怖が不安をかき立て、胸がざわつく。無性にワンリーに会いたかった。
庵の前にひとり取り残されて、メイファンはキョロキョロとあたりを見回す。信じていると言われたが、罪人をひとり放置して立ち去るなど不用心ではないかと思える。
いっそこのまま逃げ出してしまおうかとも思ったが、勝手のわからない広大な宮廷から逃げ出せるとも思えないし、自分が逃げたことが知れれば、ワンリーがどうなるかわからない。ワンリーならひとりでどうにかできそうな気もするけど。
結局無謀な行動はやめて、おとなしく待っていることにした。きっとその方がワンリーにも都合がいいはずだ。ワンリーは必ず助けると言ってくれた。
決意を固めて庵の扉を開くと、中では小柄な侍女が待ちかまえていたように頭を下げた。
「シェンリュと申します。よろしくお願いします」
「メイファンです。こちらこそ、よろしくお願いします」
互いに挨拶を交わしたあと、シェンリュは淡々と庵内の設備や調度について説明する。元々どういう用途で作られたものかは不明だが、内部は狭いながらもいくつかの部屋に仕切られ、浴室や厠も備えられていた。これまでの旅で泊まった宿の部屋のようだ。
一通り説明を終えたシェンリュはメイファンに向かって再び頭を下げる。
「私は隣の控えの間におりますので、ご用の際はお呼びください」
そう言って、さっさと隣の部屋に引っ込んだ。とりつく島もない。
監視役とはいえ、侍女に傅かれたことなど初めてで、どんな態度で接していいのか戸惑ってしまう。変な緊張が解けて、メイファンは部屋の隅にある寝台に腰掛けて大きく息を吐いた。
何気なく目をやった窓の外には、池に浮かぶ睡蓮の花がいくつも見える。
(ワンリー様は今頃どうしているかしら)
もう取り調べは始まっているのだろうか。またちぐはぐな受け答えをして、相手を苛つかせているのではないだろうか。そう思うと心配でしょうがなかった。
あれからガーランは姿を見せることなく、夜になってしまった。出歩くなと言われたので、メイファンはおとなしく庵に閉じこもっている。おかげで閑を持て余してしょうがない。見かねたシェンリュが用意してくれた本をめくって夜まで過ごした。
本をめくっていたものの、内容はさっぱり頭に入ってこない。ワンリーがどうしているのか、そればかり考えていたからだ。
することもないので早々に床に着いたものの、やはりワンリーが気になって眠れない。とにかくワンリーに会いたかった。
眠れないまま窓の外から聞こえる蛙や虫の声を聞きながら、寝返りを繰り返す。すると入り口の扉が微かに音をたてた。
横になったままでこっそりと入り口を窺う。ゆっくりと扉が開き、床を月明かりが照らした。その真ん中に人影が延びてくる。
「誰?」
メイファンはとっさに体を起こして、入り口を見据えた。そこには月明かりを背にして男がひとり立っていた。