5.帝都の異変
職場町コンシはシンシュからテンセイへ向かう街道のちょうど中程にある一番小さな町だ。都から離れているため、物流に時間がかかるせいか物価も少し高い。数件の宿と飲食店があるだけで、シンシュやセンダンのように露店は見あたらない。
メイファンとワンリーは、町に入って一番最初にあった宿に入った。宿の食堂で夕食をすませ、案内された部屋はセンダンの部屋よりもさらに狭い。けれど疲れ果てていたメイファンは、そんなことなど気にしている余裕もない。寝台に腰掛けた途端に、横倒しになってそのまま眠ってしまった。
翌朝メイファンが目覚めると、またしても腕の中には金茶色の子犬が丸くなっていた。目があった子犬はしっぽをフリフリして挨拶をする。
「おはよう」
「ワンリー様。何度も申し上げているように添い寝は……」
「それはできない」
言い終わる前に拒否されて、メイファンは目をしばたたく。子犬は真顔でメイファンを見上げた。子犬なのに、この有無を言わせぬ威圧感はなんなのだろうと思う。
「おまえの腕の中は心地いいのだ」
相変わらずの理由にメイファンは思わずため息をこぼした。結局これからもいつの間にか添い寝されてしまうということなのだろうか。
でも子犬の姿ならそれも悪くないと流されそうになっている自分に気づく。なにしろ子犬のワンリーは姿も仕草もかわいくて、ほわほわの毛並みはこちらこそ心地いい。ただし黙っていればの話だが。しゃべるとどうしてもワンリーだと思い知らされてしまうから。
人の姿をしたワンリーがイヤというわけではない。ワンリーは多少強引でズレたところがあるけど、メイファンには優しくていつも身を案じてくれる。おまけに初対面から変わることなく、無償とも言える愛情を見せつけられている。ただ、見た目がきれいすぎて、ドキドキするし、気後れしてしまうのだ。
最初はガイアンの安寧のためとか、両親や自分が辛い目に遭わないためとか、ある意味悲痛な思いで彼の妻になることを決意した。けれど、ほんの少しだけどワンリーを知って、今は夫となる方がワンリーでよかったと思い始めている。そして両親に納得してもらうために言った言葉が真実味を帯びてきた。
『私は幸せよ』
たぶん幸せだと思う。すべてにケリが付いたら、もっと実感するだろう。『必ず俺に惚れさせてみせる』と豪語したワンリーの思うツボな気がして少し悔しいけど。
子犬のワンリーは寝台から飛び降りて人の姿に戻った。そしてぼんやりと寝台に座っているメイファンの手を取って立ち上がらせる。
「食事が済んだらすぐに発とう。昼過ぎにはシタンに着くとは思うが、空模様が怪しい。雨に打たれておまえが風邪をひいては困る」
「はい」
窓から外を窺うと、確かにどんよりと曇っている。すぐに雨が降りそうなわけではないが、途中で雨に降られるのは避けたい。
朝食を終えて昼ごはん用の饅頭をひとつ包んでもらうと、メイファンとワンリーはコンシの町を出た。
午後になってシタンの町が見えてきた頃、空は今にも降りだしそうなほど黒い雲で覆われた。あたりは日が暮れかかっているかのように薄暗くなっている。メイファンの手を引いて、ワンリーが促した。
「少し急ごう。雨が降る」
「はい」
言われたとおりに歩を早めて、ふたりがシタンの町に入ったとき、とうとうポツポツと雨が降り始めた。雨は見る見る勢いを増し、音を立てて地面を叩く。
ふたりは慌てて近くにあった宿屋の軒下に駆け込んだ。
「なんとかずぶ濡れになるのは回避できたな」
「はい」
軒下で空を見上げながら、手ぬぐいで服にかかった雨をぬぐう。そこへ宿屋の奥から男性が現れて声をかけてきた。
「いやぁ、災難でしたね。奥で温かいものでも飲んでゆっくりしていってください」
「あぁ。そうさせてもらおう」
この宿は飲食店も兼ねているようだ。シタンからテンセイまでは半日もかからない。まだ陽も高いので雨宿り客だと思われたのだろう。申し出を快く受けて、入り口を入りながらワンリーが尋ねる。
「ついでに一晩泊まりたいのだが、部屋は空いているか?」
「おや、お泊まりでしたか。えぇ、空いてますよ」
「そうか。では頼む」
「ありがとうございます。では、お部屋で休まれますか?」
「あぁ。その方がありがたい」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
部屋へ案内されホッと一息つく。コンシの宿と同じくらいの小さい部屋には、大きめの寝台がひとつと部屋の隅に小さな円卓とイスが二脚置かれているだけ。ここも夫婦用の部屋のようだ。
メイファンとワンリーが並んでイスに座ったとき、先ほどの男性が飲み物を運んできた。
「どうぞ。温まりますよ」
ニコニコ笑って男性が円卓に置いた小さな器の中には、湯気の立つ白い液体が入っている。ほんのりと甘い湯気の香りから、それが濁り酒であることがわかった。
「ありがとうございます。いただきます」
礼を述べてメイファンは、舐めるようにほんの少し酒を口にする。砂糖で甘く味付けされていて、それほど強い酒ではないようだ。安心してもう一口飲むと、のどを通る酒の温かさに、体が少し温かくなった。
「おいしいです」
メイファンがそう言うと、男性は嬉しそうに笑顔をほころばせる。
「それはよかった」
そして上機嫌のままワンリーに尋ねた。
「お客さんたちはシンシュからいらしたんですか?」
「いや、ビャクレンだ」
それを聞いて男性の表情が曇る。
「もしかして、逃げてきたんですか?」
「なに?」
「ビャクレンは魔獣に襲われたんでしょう?」
「なんだ、もうこんなところまで噂が届いているのか。誰から聞いた?」
「行商人です」
「そうか」
ビャクレンには野菜や果物を仕入れるために多くの行商人がやってくる。行商人なら荷車を引いた馬で移動しているから、メイファンたちより先に噂を運んできたのだろう。
不安そうにしている男性に、ワンリーは笑顔で答えた。
「案ずるな。魔獣が襲ってきたのは事実だが、聖獣が追い払ってくれた。今は元通りだ。それに俺たちは逃げてきたわけではない。所用があってテンセイに向かっているところだ」
「そうですか……」
一応納得はしたようだが、男性の表情は相変わらずさえない。
「どうした?」
「いえ、近頃テンセイもあんまりいい噂は聞かないんで……」
「どういうことだ?」
「太子様がご病気でお加減がすぐれないらしくて、帝がピリピリしてるそうなんですよ。些細なことで投獄される者が後を絶たないってんで、都中火が消えたようになってるらしいですよ。帝都だから以前はシンシュに引けを取らないくらい賑やかで活気があったんですけどねぇ」
「なるほど」
「所用なら仕方ないですけど、長居はしない方がいいと思いますよ」
「わかった」
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ」
そう言って男性は部屋を出ていった。それを見送った後、ワンリーは険しい表情でなにやら考え込んでいる。そんなワンリーを見つめながら、メイファンは濁り酒をちびちびと飲み続けた。やがて酒が底をつきてもワンリーは黙ったまま考え込んでいる。さすがに気になってメイファンは声をかけた。
「あの、ワンリー様。何か気がかりでもあるんですか?」
ハッとしたようにこちらを向いたワンリーは、取り繕うように笑顔で答える。
「いや、明日には雨がやめばよいが、と考えていた」
「そうですね」
窓の外に目を向ければ、今や本格的に降り始めた雨が、幕を張ったように遠くに見えるはずのシェンザイを見えなくしている。視線を戻すと目の前に濁り酒の入った器が差し出された。
「この酒が気に入ったのだろう? 俺の分も飲んでくれ」
「ありがとうございます。あとでいただきます」
ワンリーは飲み食いをしない。せっかくの好意が無駄になるのは申し訳ないので、メイファンがかわりにいただくことにした。だが、あまり強い酒ではないとはいえ、一気に二人分はさすがに酔ってしまいそうだ。夕食の後にでもいただくことにした。
夕食を終えて酒を飲みながら少し話をした後、メイファンは床についた。酒が効いたのか、メイファンはぐっすり眠っているようだ。静かな寝息を確認しながら、ワンリーは窓辺にたたずむ。
雨は夕方には小降りになり、夜も更けた頃すっかり上がってしまった。今は薄い雲の隙間から、時々月が顔を出す。
その様子を眺めていると、雲の切れ間に赤い光が瞬いた。光はまっすぐにワンリーの元へ飛来する。そして窓の外で止まった。
ワンリーは薄く窓を開いて、光の玉を部屋に招き入れる。部屋の中に入った光の玉は、見る見る人の姿に変形した。
「エンジュ、テンセイの様子はどうだ?」
「大変なことになっています」
「やはりな。太子が病で帝が混乱していると聞いたが」
深刻な表情のエンジュに対して、宿の者からある程度話を聞いていたワンリーは、動揺も見せずに淡々と答える。だが、エンジュはさらに続けた。
「それだけではありません」
「まだなにかあるのか?」
「聖獣殿が人によって外から封鎖されています」
「封鎖? チンロンとソンフーはどうした?」
「わかりません。中にいるのだと思いますが、呪詛のようなもので結界が張られていて、私には近づくこともできませんでした。おそらく彼らも出ることができないのだと思います」
「やっかいだな」
人の術師による呪詛は陰の気の塊で、陽の気を糧とする聖獣には直接太刀打ちはできない。まずは呪詛の元となる人から陰の気を祓わなければならないのだ。
「チョンジーの奴、人のてっぺんを狙ったか」
「いかがいたしましょう」
「俺がなんとかする。だが、帝都が落ちれば次は他の都にも奴らの手が伸びる。おまえはシンシュに戻り、万が一に備えてくれ」
「御意」
エンジュは再び光の玉に変化して窓から飛び立った。ワンリーは窓を閉めて、メイファンの眠る寝台の縁にそっと腰掛ける。穏やかな寝顔を見つめながら、口元に笑みを浮かべた。
本当はチョンジーの待ちかまえているテンセイに連れて行きたくはない。けれど自分がそばを離れれば奴らの思うツボに違いない。
不安にさせるまいと黙っていたが、チョンジーの思惑がはっきりしない以上、メイファンにも注意を促すべきだろう。
朝になったら話すことを決意して、ワンリーは子犬の姿に変化する。そしてメイファンの枕元に伏せた。
「ん……」
気配を感じたのか仰向けだったメイファンが、ワンリーの方に体を向ける。そして無意識のまま腕を伸ばしてワンリーを抱き寄せた。
やはりこの腕の中は心地よい。この幸せをチョンジーに奪われてなるものかと決意を新たにさせる。細い両腕に抱えられて、ワンリーはその心地よさに酔いしれた。