4.聖獣様は案外打算的でいらっしゃる
ふわふわの毛並みに頬をなでられて、メイファンは目を覚ました。腕の中で金茶色の子犬が丸くなっている。あわてて布団をはねのけて体を起こした。
子犬は前足を前に滑らせて背中を伸ばしたあと、何食わぬ顔でメイファンに挨拶をする。
「おはよう」
「ワンリー様、添い寝はお断りしたはずですが」
「おまえが寝ながら抱き寄せたのだ。俺は枕元に座っていただけだ」
「え……」
まったく記憶にない。そもそも床についたとき、ワンリーは人の姿で窓辺にたたずんでいたのだ。
意識しすぎていた初夜はメイファンが気にするようなことはなにもなく、ワンリーは言葉通りにメイファンの話を聞いた。幼い頃の様子やビャクレンでの暮らしなど他愛のない話に相づちを打ちながら耳を傾ける。夜も更けた頃メイファンはひとりで床についた。
ワンリーの言うことが本当だとすると、無意識とはいえとんでもなく恥ずかしい。火を噴きそうなほど顔が熱くなって、メイファンはうつむいた。
ワンリーは気にもとめず嬉しそうにしっぽをフリフリする。
「おまえに抱かれるのは心地よいな。人の姿をしているときも遠慮なく抱いていいぞ」
それは遠慮する。でも子犬の姿だから油断して気がゆるんでいたような気がする。真っ向から拒否するのも妻となる身としてはどうかと思うので譲歩してみた。
「……麒麟の姿なら」
「そうか!」
苦し紛れの言葉にもワンリーは嬉しそうに、ちぎれそうなほどしっぽを振る。そして寝台から飛び降りて人の姿に戻った。
呆気にとられるメイファンの手を引いて立ち上がらせると思い切り抱きしめる。
「ここで麒麟の姿に戻るわけにはいかないからな。いずれそのうち楽しみにしておこう。だが俺は抱かれるより抱く方が好きだ」
「わかりました。わかりましたから放してください」
珍しく素直にメイファンを解放したワンリーは、ニコニコと上機嫌で言う。
「食事が済んだらすぐに発つぞ。次のコンシまでは一日かかるからな。しっかり食べておけよ」
「はい」
身支度を整えてメイファンが朝食を終えると、ふたりはセンダンの町を後にした。
センダンを出て、途中何度か休憩しながら、日が沈みかけた頃、ようやく街道の先に宿場町コンシの灯りが見えてきた。こんな長距離を歩いたのは初めてで、メイファンの足はすでに棒のようになっている。なんとか気力を振り絞って前へ進んでいた。
メイファンの足腰が疲れ果てていることは、ワンリーにも気づかれているらしい。たびたび抱き上げようとするのを丁重にお断りした。
抱き上げられるのは困るけど、あまりに疲れすぎていて麒麟の背に乗せてもらえるならいいのにと思ってしまう。
目立ちたくないから人の姿で歩いて行くとワンリーは言っていた。けれどワンリーは姿を消すことができる。姿を消していれば麒麟の姿で走っていても、かまわないのではないだろうか。
ちょっと気になって聞いてみると、ワンリーは申し訳なさそうに苦笑する。
「人には見えないが、魔獣には見えるのだ。人の姿で人の中に紛れている方が魔獣からは目立たない」
そうだった。目立ちたくないのは人に対してではなく、魔獣に対してだった。ゆうべ魔獣に襲われたばかりなのに、すっかり忘れている緊張感のない自分にあきれる。小さくため息をこぼすメイファンの腕をワンリーが掴んだ。
「俺の背に乗りたいならおぶってやろう。やはり疲れているのだろう?」
「いえ、大丈夫です。町もすぐそこですから」
「遠慮するな」
確かに疲れてはいるが歩けないほど体調を崩しているわけでもケガをしているわけでもない。なのに子どものようにおぶってもらって町に入るのは恥ずかしい。
すっかり暗くなってしまった街道の隅で押し問答を続けていると、突然路傍の藪がガサガサと音を立てた。
また魔獣!? そう思ってメイファンが身構えたとき、藪の中から男が三人飛び出してきて行く手を阻んだ。どうやら人間のようだが、あまりホッとできる状況ではないようだ。それぞれ幅の広い反り返った抜き身の剣を手にしている。
咄嗟に手を引いてワンリーはメイファンを自分の後ろに下がらせた。男たちは下卑た笑みを浮かべてからかうように言う。
「日が暮れてから町の外を出歩いたらダメだろ?」
「俺らのようなろくでもない奴に出くわすからな」
そして笑いながら握った剣の切っ先をワンリーに突きつけた。
「有り金全部置いてけ」
ワンリーはまったく動じることなく、懐から金の入った袋を取り出して男の前に差し出す。
「ほら」
「ものわかりがいいな。命は大事にしなきゃな」
あまりにあっさり金を手にして、男たちは少しうろたえたようにワンリーを見た。そして袋の口を開いて中を確認する。用事はすんだとばかりに、ワンリーはそれを無視してメイファンを促した。
「じゃあ、行こうか」
何食わぬ顔で横をすり抜けようとするワンリーの行く手を剣が遮る。
「待ちな。女も置いてけ」
途端にワンリーの表情が険しくなった。怒りを孕んだ目で男たちを睨む。
「金だけで満足していればよいものを。おまえたちは強欲にもほどがある」
「なんだと、ごらぁ!」
激昂して詰め寄る男たちをものともせずにワンリーはさらに続ける。
「おまえたちの強欲と邪な気は魔獣を呼び寄せるぞ」
それを聞いて男たちは小馬鹿にしたように半笑いになってワンリーをのぞき込んだ。
「なんだ、そりゃ。脅しのつもりか? ぐずってる子どもじゃねぇんだぞ。そんな脅しが通用するか」
「脅しではない事実だ。後ろを見ろ」
男たちが反射的に振り返る。先ほど男たちが潜んでいた藪の暗闇に赤いふたつの目が光っていた。姿はよく見えないが、真っ黒な毛に覆われた大きな影はゆうべの魔獣によく似ている。
「なんだ、ありゃぁ!?」
「ま、魔獣!?」
慌てふためく男たちのひとりが、剣で魔獣を斬りつけた。だが、魔獣はまったく傷を受けた様子もなく、微動だにしない。
「なんだ、こいつ。手応えがねぇ!」
「うわぁっ! こっちに来る!」
魔獣がのそりと一歩こちらに進んだのを見て、男たちは慌ててワンリーのそばまで引き下がった。
メイファンは魔獣を見つめたまま、ワンリーの後ろで彼のそでをぎゅっと掴んだ。それに気づいたワンリーが少し振り向きながらメイファンの手に自分の手を重ねる。見上げると、目があった彼は口元に少し笑みを浮かべて小さく頷いた。
大丈夫。心配するな。そう言われた気がして、メイファンは手を離した。
ワンリーは隣にいた男に手を差し出す。
「剣を貸せ。俺がしとめてやろう」
男は黙って素直に剣を差し出した。受け取った剣を持ってワンリーは魔獣の前に進み出る。そして両手で剣を握り直し、上段に振りかぶった。すぐにそのまま真下に振り下ろす。
魔獣の真っ黒い影は真っ二つに裂け、断末魔の悲鳴を上げながら霧のようにかき消えた。それを見て男たちが感嘆の声を漏らす。
「すげぇ……」
涼しい顔で戻ってきたワンリーは、呆然と見つめる男に剣を返した。男はハッとしたように頭を下げる。
「お見逸れしました!」
「これに懲りてまじめに働くことだな」
「はいぃっ!」
ちゃっかり金の入った袋を奪い返して、ワンリーはメイファンと共にその場を離れた。ペコペコと頭を下げる男たちが見えなくなったところで、メイファンはワンリーに尋ねた。
「ワンリー様、どうしてあの人たちにお金を渡そうとしたんですか?」
「俺は人と争ったり傷つけたりしないのだ」
「悪い人でも?」
「そうだ」
やはり人を守護する聖獣だから、人を守ることしかしないのだろうか。それにしたって悪いことをしている人に対して、傷つけることはなくても怒りもしないというのはどうも納得できない。首を傾げるメイファンにワンリーは説明する。
「争ったり傷ついたりすると、人は陰の気を発する。それでは魔獣の思うつぼだ。金を渡せば争いは回避できるし、欲を満たしてあいつらは喜び陽の気を発する。それは俺の糧になる」
なんと。情けは人のためならずということらしい。案外打算的な聖獣様に内心呆れる。それが知れたわけではないだろうが、ワンリーは不愉快そうに眉を寄せた。
「だが、おまえまで奪おうとするのは許せぬ」
そういえば、あの時もワンリーは怒っていた。あのまま魔獣が現れなければ、あの男たちと争っていたのだろうか。やけに丁度よく魔獣が現れたけど。
「あの魔獣はやはり私の波動に誘われて現れたんでしょうか」
気になって尋ねると、ワンリーはいたずらっぽく笑った。
「あれは俺が作り出した幻影だ」
「へ?」
「あれであいつらとの争いは避けられるし、俺が倒して見せれば感謝されて陽の気も得られる」
どうりで、同じ剣なのに彼らには手応えがなくて、ワンリーにはあっさり倒されたはずだ。ワンリーがなにか聖獣の特別な力でも使ったのかと思っていた。
呆気にとられるメイファンの手を引いて、ワンリーは楽しそうに促した。
「また夜盗に出くわしては面倒だ。さっさと町まで行こう」
「はい」
コンシの町灯りはもうすぐそこに見えている。メイファンは気力を奮い立たせて、疲れた足を前に進ませた。