3.記憶の呪縛
ワンリーの言葉に従ってメイファンは急いで湯から上がる。そしてワンリーの後ろに身を隠した。おそるおそる陰から覗いてみれば、目だと思われるふたつの赤い光は、まっすぐにこちらを見ているように見える。反射的に身震いして、もう一度身を隠す。
ワンリーは丸腰でどうするつもりなのだろう。麒麟の姿に戻って戦うのだろうか。それはものすごく目立つだろうし、宿にも迷惑がかかってしまう。逃げるのが上策のように思い、メイファンは声をかけた。
「ワンリー様、早く逃げましょう」
「逃げれば追ってくる。宿に迷惑がかかるぞ」
「ここで戦っても迷惑がかかります」
「案ずるな。雑魚など一撃で事足りる。格の違いを見せてやろう。もう少し下がっていろ」
そう言って振り向いたワンリーは、不敵の笑みを浮かべて一歩も引く気はないようだ。メイファンはそれ以上なにも言わず、言われた通りに少し後ずさりをする。
メイファンに頷いて魔獣に向き直ったワンリーは、右手を広げて天に突き上げた。
「雷聖剣!」
ワンリーの声に呼応して、手の中には刀身に雷をまとった金色の剣が現れる。そしてその切っ先を魔獣に向けた。
「退け。おまえごときに勝ち目はないぞ」
魔獣は臆することなく、ゆっくりと木陰の闇から出てきた。黒光りする長い毛に覆われた大きな犬のようで、長いしっぽを口にくわえている。爪のない太い足はヒグマのようだった。
ワンリーには目もくれず、メイファンの方に注意を向けている。まるでワンリーの姿が見えず、声も聞こえていないかのように。
魔獣が一歩踏み出す。次の瞬間、その鼻先をワンリーの剣が素早くかすめた。さすがに魔獣も気づいたようで、あわてて身を退く。
「シィアン……」
一言つぶやいて魔獣は煙のように姿を消した。それを見届けてワンリーはフンと鼻を鳴らす。握った剣は忽然と姿を消した。
ホッとして気が抜けたメイファンは、その場にヘナヘナと座り込む。振り向いたワンリーが心配そうに身を屈めてのぞき込んだ。
「大丈夫か? 体が冷えただろう。もう一度湯につかってこい。俺が見張っているから」
「いえ、もう。少し休めば……」
「いいから、すぐにつかれ。目のやり場に困るのだ」
「え……」
言われて自分の体に目をやる。濡れた薄衣が張り付いて肌が透けて見えていた。
メイファンは自分の体を抱きしめて湯の中に飛び込む。湯船の縁から顔を出すと、目の前に子犬の笑顔があった。
「この姿の方が緊張しないだろう?」
「はい……」
確かに中身がワンリーだとわかっていても、子犬の方が不思議なことに緊張しない。しばらく湯船の縁にすがって子犬のワンリーと言葉を交わす。十分に体が温まって頬が火照ってきた頃、メイファンはワンリーの後ろを指さして声を上げた。
「あっ!」
「ん? なんだ?」
子犬が体ごと振り向いたと同時にメイファンは湯船から勢いよく出て駆け出す。建物の中から顔だけ出してワンリーに告げた。
「先に部屋に戻っていてください。結界はちゃんと解いていってくださいね」
「あぁ、わかった」
子犬のワンリーは目を細めてしっぽをブンブンと振る。その愛らしさにメイファンは思わずクスリと笑った。
メイファンが部屋に戻ると、ワンリーはすでに人の姿に戻って寝台に腰掛けていた。メイファンの姿を認めて、嬉しそうに笑いながら歩み寄ってくる。そしていきなり抱きしめた。
「怖い思いをさせてしまったな。おまえが無事でよかった」
「いいえ。ワンリー様のおかげで助かりました。ありがとうございます」
すぐに放してくれるものと思ったら、ワンリーはしがみつくようにして益々きつく抱きしめる。耳元で少し辛そうな声が告げた。
「この先もおそらく魔獣に出くわしてはおまえに怖い思いをさせると思う」
「大丈夫です。ワンリー様がいてくだされば」
「あぁ。おまえは俺が必ず守る」
今度こそ放してくれるかと思ったが、しばらく待ってもワンリーは離れない。
「あの……ワンリー様、そろそろ放していただけませんか?」
「それはできない」
「え……どうして……」
また”そうしていたいから”とか言うんだろうか。
「湯上がりのおまえは温かくていい匂いだからだ」
そう言ってワンリーは首筋に顔をうずめてくる。予想外の答と首筋に触れる息のくすぐったさに、メイファンはどぎまぎしながら身をよじる。
「ちょっ……! ワンリー様っ……!」
メイファンの抵抗を腕の中に押さえ込んで、ワンリーは囁いた。
「頼む。もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
聖獣王に頼まれてはしょうがない。メイファンは抵抗をやめた。
「はい……」
返事をしておずおずとワンリーの背中に腕を回す。ワンリーはクスリと笑い、メイファンの頬に軽く口づけた。
ようやく中天に達した臥待月が、庭園を淡く照らしている。広い庭園を巡る極彩色の回廊に男がひとり立っていた。背中に垂らした長い黒髪を夜風になびかせながら、池の水面に映る月をぼんやりと眺めている。
ふいに池の畔にある木がガサガサと揺れた。男がそちらに目をやると、木陰から毛足の長い大きな黒犬の魔獣がのそりと姿を現した。自分のしっぽを口にくわえ、太い四つ足をそろえて座る。
男は不愉快そうに眉をひそめて魔獣を睨んだ。
「どこへ行っていた、フンドゥン」
魔獣フンドゥンはぼんやりと男を見つめる。うつろな赤い目はなにも見えず、頬の横に垂れた耳はなにも聞こえてはいない。ただ人の魂に刻まれた名前とその色だけは見えていた。
フンドゥンが聞こえていないことは男も知っていた。だが勝手な行動をとる彼に憤りをぶつけずにはいられない。
「おまえの気は人の世に混乱をもたらす。むやみに出歩いては、私の計画の妨げになることがわからないのか」
男の憤りなど解していないフンドゥンは、ポツリとつぶやく。
「シィアン……」
それを聞いて男は目を見開いた。
「あの娘に会ったのか?」
問いかけてもフンドゥンが答えるはずもなく、同じ名前を繰り返す。
「シィアン……」
「シィアンではない。あの娘はおまえのことなど覚えてはいない」
なにもわかっていないフンドゥンに苛ついて、男は声を荒げた。
シィアンと同じ色、同じ波動の魂を持つ門の娘。けれどシィアンではない。
男はフンドゥンから目を逸らし、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうだ、覚えてはいない。私のことも」