2.温泉の町センダン
すっかり日が落ちてあたりが暗くなった頃、ふたりは街道の途中にある宿場町センダンに到着した。テンセイに行くには、他にふたつの宿場町を経由することになる。センダンはその中で一番大きな町だ。
町のあちこちから湯気が上がっているのは温泉が湧いているからで、それを目当ての湯治客も多い。どの宿にも当然のごとく大きな温泉風呂があった。
通りには宿が建ち並び、温泉の熱を利用した饅頭やゆで卵を売る露店もある。それらを横目に眺めながら歩いていると、ワンリーが黙って立ち止まり、ゆで卵をひとつメイファンに買い与えた。どうやらよっぽど卵好きだと思われているらしい。
素直に礼を述べて、メイファンは少し先にある宿へ入った。
先に宿の食堂で食事を済ませ、部屋に案内してもらう。シンシュで泊まった宿の半分にも満たない部屋には、大きめの寝台がひとつに、鏡台がひとつあるだけだった。
ふたりは夫婦ということになっているので、夫婦用の部屋なのだろう。もっとも眠るのはメイファンだけでワンリーは眠らないのだが。
部屋に入ったワンリーはニコニコと嬉しそうに笑う。
「今夜はふたりきりだな」
「そう、ですね」
言われてみればその通りだ。そう思った途端、メイファンの体に緊張が走った。次第に鼓動が早くなっていく。まだ気持ちが追いついていないのに、今夜が初夜になるのだろうか。
そんなメイファンの心の機微を知ってか知らずか、ワンリーは楽しげに目を細める。
「ゆうべはろくに話もできなかったからな。今夜はおまえの話を聞かせてくれ」
「はい」
「まずは風呂だな。せっかくの温泉だ。疲れを癒してこい」
「はい」
とりあえず風呂に入って落ち着こう。そう思いメイファンは置いてあった手ぬぐいを持って部屋を出ようとした。すると当たり前のようにワンリーが後ろからついてる。
「ワンリー様も入浴なさるんですか?」
「おまえをひとりにするわけにはいかないからな」
「え、ちょっと待ってください。一緒には入れませんよ。浴場は男女別々だって言ってたじゃないですか」
「おまえを警護するためなのに、ダメなのか?」
「絶対ダメです」
メイファンひとりしかいなかったとしてもお断りなのに、他の女性客がいたら大騒ぎになってしまう。
「俺の姿は誰にも見えないぞ」
そういえばワンリーはそんなことができるんだった。けれど――。
「それでもやめてください」
姿が見えなくてもそばで見られていることがわかっていると恥ずかしい。たとえ今夜名実共に夫となるかもしれない方だとしても。
「なるべく早くあがりますから、お願いします」
「そうか」
メイファンが頭を下げると、ワンリーは渋々引き下がった。それでも心配して浴場の前までついてくる。
くれぐれも中に入らないようにもう一度お願いして、女性用の大浴場に入った。
入ってすぐの脱衣所には誰もいない。メイファンは服を脱ぎ、手ぬぐいを持って奥の浴場に向かった。石造りの洗い場には大きな桶に湯が溜めてあり、その横には手桶が積み重ねて置いてある。手桶に湯を汲んで、髪と体を洗う。洗い髪を頭の上にまとめてさらに奥に進むと、のれんの掛かった出口があった。出口の横には入浴用の薄衣が積み重ねられている。それを羽織ってのれんをくぐった。
岩を組んで作られた岩風呂は、こじんまりとしていて、五人くらい入ればいっぱいになりそうだ。入り口側は宿の壁、通りに面した側と男湯との境界は背の高い竹垣で囲まれている。入り口正面は鬱蒼と茂る木の向こうが崖になっていて下には川が流れているようだ。
自分の他に誰もいないので、メイファンは湯船につかって足をのばした。頬に触れるほわほわと温かい湯気と、耳に聞こえる川のせせらぎと虫の声にホッと息をつく。見上げると無数の星が瞬いていた。
夜は魔獣の活動が活発になるとエンジュが言っていた。ワンリーも過剰なほど心配していたが、そんなものとは無縁の世界にいるような気分になる。
じわじわと体の芯から温まって、眠くなりかけたとき、入り口の方で音がした。
メイファンが振り向くと、金茶色の子犬がふさふさとしたしっぽを振りながら、カポカポと足音を響かせてこちらに駆け寄ってくる。足音がカポカポいってる時点で子犬ではない。足には蹄がついていた。
子犬はつぶらな瞳でメイファンを見つめながら、嬉しそうにしっぽを振る。
「わん」
メイファンはズブズブと湯船に首までつかって、目の前の子犬を冷ややかに見つめ返した。
「”わん”じゃありません。あれほどお願いしたのに、どうしていらしたんですか、ワンリー様」
「よく俺だとわかったな」
「わかりますよ。蹄のある子犬なんて怪しすぎます」
「おっと。うっかりしてた」
言ったと同時に子犬の四つ足の先は、蹄から毛に覆われた丸い足に変わる。全く悪びれた様子のないワンリーにあきれて、怒る気力も失せたメイファンはため息と共に入り口を指さした。
「とにかく、人が来る前に出て行ってください」
「案ずるな。おまえが入った後、入り口に結界を張っておいた。おまえが出るまで誰も入ってこられない」
「え……」
入ったとき誰もいなかったのは偶然としても、後から誰も来なかったのはそのせいだったのか。
「幸い他に誰もいないようだから、あわてて出なくてもゆっくりしていけ。俺が見張っているから」
「いえ、もう十分ゆっくりしたので、そろそろ出ようと思っていたところですから。外でお待ちください」
「そうか?」
子犬のワンリーが不満げな表情で首を傾げる。その愛らしい姿に、うっかりほだされそうになったとき、背後で木の茂みがガサリと大きな音を立てた。
咄嗟に振り向いた視線の先には、茂みの中に浮かぶふたつの大きな赤い光。獣のような低い唸り声も聞こえる。魔獣!?
「でたな。メイファン、湯から上がって俺の後ろへ」
その声に向き直ると、ワンリーが人の姿に戻っていた。