人生のプロット
『キャラクターが、駒のように扱われています。もっと血を通わせて!』
ありがたいお言葉。
けれど、具体的なことが一切記されていない、悩ましいお言葉。
それを前にして、深い溜息が出た。
「また、一次落ちか」
慣れ親しんだ机の前で、僕は頭を抱えた。
この経験もまた、慣れ親しんだものだった。とは言え心まで慣れるとは限らない。目の前に広げた一枚の書類を、僕はもう一度、確かめる。そこには僕が生み出した作品のタイトルと、落選の二文字。そして、僅かばかりのアドバイスが記されていた。
別に、人生が終わる程の絶望はない。半年前に応募した、小説の新人賞。その結果が落選だっただけだ。応募した作品は一年以上の時間を費やして執筆したものだった。僕としては、大作で、類を見ない程の面白さがあると自負していた。けれど、審査員のお眼鏡には敵わなかったらしい。評価シートと呼ばれる、審査員のアドバイスを綴ったこの書類は、ありがたいと思う反面、もう見たくないという気持ちもあった。
これでも僕は、作家志望の人間である。当然、ここで諦めるつもりはない。
評価シートをまじまじと眺め、僕は頭の中で、自らの作品の反省点を模索した。
キャラクターが駒のように扱われている。
そう言われても、僕の作品の何が悪かったのか、いまいち分からない。そもそも、僕の生み出したキャラクターだって、物語の中ではちゃんと生きている。盛大に、面白可笑しく表現しているではないか。あれを「生きていない」と評価されたことが、疑問で仕方ない。
悩む僕の隣で、時計のアラームが鳴った。
残念ながら、時間切れだ。評価シートを懐に仕舞い、反省会を中断する。
午前九時。そろそろ、大学に行く時間だ。本日の予定と、鞄の中身を確認して、適当な服に着替えてから家を出た。代わり映えしない景色を眺めながら、無気力に歩き続ける。
大学生になって、二度目の夏がそろそろ訪れようとしていた。眠っていた虫たちが一斉に目覚め、鼻先を滑らかに飛行する。汗を拭いながら、それを払い退けた。
誰も閉めない、ずっと開けっ放しである教室の扉を抜けると、多くの学生が各々の友人と談笑していた。前の席には、大人しく真面目な生徒が座る。後ろの席には、賑やかで友達の多い生徒が座る。真ん中には、どちらにも属さない生徒が座る。僕は前の席に座り、講義が始まるまでの間、頬杖をつきながらぼうっとしていた。
「夏休み前の、最後のレポート課題を出します」
それから、ぴったり九十分後。
淡々とした講義は、誰もが嫌がる一言で締め括られた。
鞄からスケジュール帳を取り出し、レポートの提出期限をメモする。そこで僕は、気がついた。その日は、別のレポートの提出期限でもある。更に、その両端の日も、異なるレポートの提出期限だった。そして、その一週間後には、定期試験がある。
「うわ、最悪。今週レポートだらけじゃん」
「少しは他の講義のことも考えろよな」
「しかも、レポートが終わったら、次は定期試験だ」
周囲の声を聞く限り、苦境に立たされているのは僕だけでは無いらしい。
参った。これでは、新人賞の反省会もできない。それどころか、新しい応募原稿を書くこともできない。スケジュール帳を見ながら、僕は昼食を取った。
とにかく、時間が足りない。なら、求められることは、作業の効率化だ。
つまり計画を立て、それを実行すること。予定していた全ての講義を受け終え、早々に帰宅した僕は、今日から暫くの間のスケジュールを綿密に調整することにした。
計画を立てるには、それを記述する媒体が必要になる。生憎、僕はこれまでに、具体的な計画を立てたことがない。僕は計画の立て方そのものを調べつつ、スケジュールを組み立てようと考え、パソコン上で作業を行うことにした。平べったいノートパソコンを開き、電源を入れる。それから、無意識に、幾つかのソフトを起動する。僕は普段通りの癖で、小説を執筆する際のアウトラインプロセッサを開いた。
「おっと、今日は執筆する余裕がないんだ」
うっかり開いてしまったアウトラインプロセッサを、閉じようとする。
しかし、そこでふと、僕は考えた。
このソフトで、計画を立てることはできないだろうか。
アウトラインプロセッサは、カテゴリをツリー状に分類することで、幾つものデータを整理できる道具である。僕はこれを、プロット――小説の執筆する際の、下書きとなるもの――の製作に利用していた。眼前の画面には、落選した作品のプロットが映っている。全体構成の中に、「起」「承」「転」「結」の四項目が含まれており、それぞれの中身は、僕が必死に考えたストーリーが記されていた。
プロットとは、設計書だ。それは計画書となんら変わらない。
つまり僕は、むこう数週間分の、自分自身を主人公としたプロットを作ればいい。人によっては回りくどい方法かもしれないが、これまで、ろくに計画を立ててこなかった僕にとって、日頃から触れている趣味を応用するという発想は、とても頼もしかった。
一芸に秀でる者は多芸に通ず、という諺がある。実際は、大して秀でているわけでもないが、その諺を体現できるような気がして、僕は内心ワクワクしていた。
早速、自分を主人公にしたプロットを作ってみた。
作り方は、これまでと同じ。書きたいシーンを羅列して、その間の空白を論理的に埋める。AをするにはBが必要で、BをするにはCが必要で。そうやって、幾重にも連なる事象を、細かく、アウトラインプロセッサに入力していく。
やがて、三週間分のプロットが完成した。プロットの中での僕は、今から数分後に勉強を開始するらしい。これによって、明日の小テストで高得点を取るのだ。小テストなどで予め高い評価を得ていれば、レポートで求められる点数が、多少下がる。何も全てのレポートを完璧にこなす必要はない。僕のプロットは、そこまで計算していた。
三週間で、三時間の製作時間。空想ではなく、現実を舞台にしたプロットの製作はこれが初めてだ。だから、費やした時間の長短は分からない。けれど、客観的な視点を心掛けて推敲してみたところ、僕のコレは、完璧のように思えた。
後は、これに従って行動するだけだ。
僕はすぐに、勉強にとりかかった。
◆
レポートの提出と、定期試験が終わって、ひと月後。
大学生になって、二回目の夏休み。この長期休暇は小説の執筆に専念しようと考えていた。朝起きて、パソコンを開き、延々と文章を入力する。傍から見れば、地味で、刺激のない光景かもしれないが、僕は一分一秒の間にも、この世界に存在しない新たな物語を生み出していた。
既に、一ヶ月前に作成したプロットのことなど、忘れていた。レポートと、定期試験の対策として、咄嗟に考えた計画書。当時は画期的なアイデアだと思っていたが、時が経つにつれて、大したものでは無いように思えてきた。所詮はその場凌ぎ。件のプロットに対する僕の関心は、すっかり薄れている。
そんな、ある日。僕のもとに一通の書類が届いた。
送り主は大学。時期と封筒の大きさから、僕はそれが、成績表であると理解した。慌てて、小説の執筆を中断する。そして、緊張と共に、封筒の中身を手に取った。
真っ白な成績表を、両手で広げる。細かい表に、幾つもの講義名が記されていた。一瞬だけ、新人賞で落選した記憶が蘇る。しかし、講義名と隣合わせに示されているのは落選の二文字ではない。そこに記されている点数を見て、僕は思わず息を呑んだ。
全てが、満点とまではいかない。けれど、叩きだした成績は、僕がこれまでに見たことのない、高い点数だった。大学の成績は、点数によって「可」「良」「優」の三種類に分類される。僕の成績は、全て「優」と記されていた。
プロットだ。あの時に製作したプロットが、成功したのだ。
目の前の現実が、過去の自分にスポットライトを当てる。
そうか。通用するんだ。僕のプロットは、現実にも活きる。
抑えきれない程の興奮が、全身を駆け巡る。
僕はもう一度、プロットを作ることにした。
前回のような短い期間のものではない。僕のプロットは成功する。それを知った今、僕はもっと、本格的なプロットの製作に取り掛かった。三週間でもなければ、三ヶ月でもない。三年ですら足りない。もっと、もっと、長く、面白く。物語の主人公を描くように。一本のシリーズがそこにあるかのように、僕はプロットの製作に没頭した。
やがて完成したそれを、僕は人生のプロットと名付けた。
持ち運びができるように、データを印刷する。僕の生み出した人生のプロットは、三十枚弱の紙束として出力された。そこには、現実という舞台で、僕という主人公に焦点を当てた物語が、半世紀近くのスケールで描かれている。
物語の開始は、今、この瞬間からだ。
プロットに従って、僕はすぐに家を飛び出た。
◆
冴えない男子大学生である僕は、この日、一人の少女と出会う。
彼女は同じ大学の女生徒であり、キャンパス中で噂になるほどの美貌の持ち主だった。僕は彼女を知っているが、彼女は僕を知らない。しかし、それを言うなら、大多数が僕と同じである。彼女に顔と名前を覚えて欲しい男子は、どれほどいるだろうか。
だが、そんな彼女の人気が、不幸を呼ぶ。
バイトの帰り道。彼女が普段通り近道として路地裏を通ったところ、そこで複数の不良と遭遇してしまうのだ。彼女は不良たちの反感を買ってしまい、襲われそうになる。
そんな、危機一髪の時、僕が彼女を颯爽と助ける。
とは言え僕は、冴えない普通の男子大学生。腕っ節も弱く、喧嘩になってしまえば勝てる筈もない。しかし、たとえボコボコに殴られたとしても、僕は不良たちに屈することなく、彼女を守り続ける。その態度に、不良たちは不気味な威圧感を覚えて、やがて足早に立ち去る。こうして、僕は彼女を無事に護り抜くのだ。
それから、僕は彼女と、何度か偶然の出会いを果たして、その度に親密度を増していく。いつしか、僕たちは周囲から認められるほどの、情熱的な恋仲となるのだ。
就職活動の時。働きたいと申し出る彼女に、僕は優しく諭してやる。何故なら、僕は誰もが知る大企業に就職するからだ。最初は罪悪感で一杯だった彼女も、僕が就職活動を成功させて、沢山の収入を得るようになってからは、家族に愛情を捧げることに注力するようになった。仕事で優秀な成績を残す反面、心が摩耗する僕を、彼女はいつも家で癒やしてくれる。やがては子宝にも恵まれて、僕達は最上の幸せを手にするのだ。
良い人生だ。良いプロットだ。
紙束の全てを読み終えた僕は、路地裏からの悲鳴を聞く。プロット通りだ。今、少し離れたところでは、彼女が不良に襲われている。紙束を鞄に閉まって、僕は急いで彼女の元へと駆けつけた。悲鳴が徐々に大きくなっていく。
「その人を離せ」
絶好のタイミングで、僕は彼女の前に辿り着いた。
拳を振り上げる不良と、その取り巻きが二人。三人の悪漢が一斉にこちらを見る。
「誰だよ、お前」
「彼女の知り合いだ」
「だから、なんだよ」
「彼女を、見逃して欲しい」
僕がそう言うと、彼らは一様に笑い出した。下卑た顔だ。プロット通りである。彼はきっと、すぐに僕を殴りつける。だが、僕に抵抗する力はない。
ここから、僕は一方的に殴られ続けるだろう。
「失せろ」
ほら、殴られた。
頬骨が軋む。次に腹を蹴られた。肺に溜め込んだ空気が、一気に漏れる。だが、すぐに別の不良から、脇腹を蹴飛ばされた。倒れる僕を、不良たちが冷めた瞳で見る。
「まだ、だ……」
呻きながら、僕は立ち上がった。背後で、いずれ僕の恋人になるであろう彼女が、息を呑む。彼女は今、僕の果敢な振る舞いに、大きく感情を揺らしている。それが恋心と気づくまで、二ヶ月近くの時間を要するだろう。大丈夫。じっくりと待てばいい。
何度倒れても、僕は同じように立ち上がった。髪についた埃を払うこともなく、唇を切って出た血を拭うこともなく、僕は彼らと対峙する。
「ちっ、くそが。面倒臭ぇ」
「行こうぜ」
プロット通り。彼らは、僕に恐れをなして、この場を去った。
鏡がなくとも、僕は自らの惨状を自覚していた。顔面はどこも腫れ上がっており、服はところどころが破れている。みすぼらしく、情けない格好だ。
「あ、あの」
だが、彼女は僕に惚れる。そういうことになっている。
僕はここで、長く会話してはならない。ここで彼女に、次回以降、僕と会話するための伏線――フラグとも言われる――を作っておくのだ。ここで迂闊に会話をしてしまえば、次回の会話内容が消えてしまう。僕は無表情で、彼女に向き直った。
「大丈夫?」
「あ、えっと、はい」
「そうか。じゃあ、僕はこれで」
プロット通りの、最低限の会話を済ませて、僕は路地裏を去った。
彼女の胸中では、複雑な感情が渦巻いている。何故、僕が彼女の前に現れたのか。何故、ボロボロになってでも彼女を護ったのか。その疑問が、彼女を蝕み続ける。やがて彼女は、それを発散するために、僕と交流を持ちたがる。僕に対する興味が、僕に会えない間、ずっと膨らみ続けるのだ。
あっさりと、彼女の疑問に答えてはならない。
何故なら、僕は普通の、冴えない男子大学生。彼女を護ったことに、崇高な目的などはない。だが、それを簡単に悟られてしまえば、そこで彼女の疑問は解消される。だから僕はこれから、偶然という形で、彼女との再会を繰り返す。彼女は僕と会いたがっている筈だが、残念なことに、暫くはその気持ちに応えられない。少しずつ距離感を近づけて、彼女の僕に対する興味を一定以上に保たねばならないのだ。
鞄の中から、人生のプロットを取り出した。丁度、この日から、僕は散歩という趣味に目覚める。今から一ヶ月以内に、彼女と三回以上の遭遇を果たさねばならない。朝から夜まで、この辺りを散歩していれば、遅かれ早かれ目標は達成できるだろう。
紙束を眺めながら、僕は家に帰った。
◆
物語には、起承転結がある。
全ての始まりである「起」。「起」によって生まれた状況や、世界観などを説明することで、舞台にとっての常識を描写する「承」。「承」によって描写した常識を裏切る形で、物語に異変が生じる「転」。そして、その異変を解決に導く「結」。
当然、僕のプロットは、この構成に基づいて製作されていた。
そして、今、僕の人生は「転」に差し掛かろうとしていた。
「それじゃあ、今日はよろしく」
「こちらこそ」
ひと月前、不良から助けた彼女に対し、僕は爽やかな笑みで言った。
今日、僕は物語の「転」に差し掛かる。「転」といっても、僕と彼女の、恋愛模様という観点から述べれば、「結」に相当するものだ。起承転結は、その内側に、更なる起承転結を含んでいる。僕の人生のプロットは、学生時代から老後まで記されている。それを踏まえると、今日は「転」。だが、仮にこれが、単行本のように幾つかの章に区切られているならば、ここ暫くは「恋愛編」の最中だ。本日はその章の「結」になる。
思えば、ここまで長かった。
ひと月前から、彼女と三度の遭遇を果たし、その度に僕達の間柄は良くなった。二度目の遭遇の際、彼女の友人と鉢合わせたことから、僕と彼女の関係については、既に学校の生徒たちにも広まっているだろう。何もかもがプロット通りの進行だ。
今、僕は彼女と、遊園地でデートをしていた。
締め括りは観覧車で、愛の告白だ。だが、当然、そこに至るまで何も無しというわけではない。それではあまりに、物語として淡白だ。ヒロインにはヒロインらしい愛らしさが。主人公には主人公らしい活躍が、物語には求められる。
朝早くから列に並び、僕たちはまず、一番人気のジェットコースターに乗った。待ち時間は長かったが、僕にはまだ、話題のストックが残っている。一方で、彼女も僕に訊きたいことが、まだ幾つか残っていた。遊園地の活気につられて、順番が回ってくる頃には、僕たちの口はとても軽くなっていた。
それから、もうひとつ、アトラクションを満喫してから、カフェで少し早めの昼食を取った。お洒落な店に、彼女の綺麗な容姿がマッチする。僕はそれを眺めているだけで満足だった。だから、彼女の「何を見ているの?」という問いに対し、僕は素直に「君を見ていた」と答えた。すると、彼女は反応に困った素振りを見せる。きっと内心では照れているのだろう。これも、プロット通りの展開だった。
それから、数時間が経過した。
空は橙色に染まっていた。人の気配も、徐々に少なくなっている。僕たちはここで三度目の休憩を挟むことにした。残るイベントは、ひとつだけ。観覧車だ。
ここで、僕は飲み物を購入するために、一度、彼女から離れた。
マンゴージュースと、アイスコーヒーを両手に持ち、彼女の元に戻る。そこで、僕は小さな喧噪を聞いた。見れば、彼女が二人の男に言い寄られている光景があった。
プロット通りだ。彼女はこうして、再び窮地に立たされる。
ここで、僕はもう一度、身を挺して彼女を助けるのだ。すると、彼女は、僕との馴れ初めを思い出す。かつて、不良に襲われていた自分を助けてくれたのは誰か。自分が助けを求めている時に、常に現れてくれた男とは誰なのか。それは僕だ。彼女を助けているのは、いつだって僕だけだ。この一件で、彼女はついにそれを理解する。
僕は慌てて彼女に駆け寄った。ジュースを落とすが、構ってられない。
しかし、その前に、一人の男が現れた。
「悪いけど、どこかに行ってくれ。彼女、俺の連れなんだ」
背が高く、細身で、爽やかな男だった。突如、彼女の前に現れたその男は、ひと睨みするだけで、しつこい男たちを退ける。そして彼は、流れるような動作で背後に振り返り、僕の彼女に「大丈夫?」と、優しく尋ねた。
おかしい。それは、僕の役目だった筈だ。
こんなのは絶対にありえない。だって、これは、プロットと違う――。
「だ、誰だ」
よろよろと、覚束ない足取りで彼女たちに近寄る。
その時、僕は彼女の表情を見てしまった。彼女は、僕ではなく、そこにいる得体の知れない男に、情熱的な視線を向けていた。止めろ。巫山戯るな。それは僕のものだ。
「誰なんだよ、お前! いきなり何をするんだ!」
僕の怒声が、響き渡った。
一方、目の前に悠然と佇むその男は、余裕綽々の態度で返す。
「何って、彼女を助けただけだ」
「そ、それは僕の役目だ!」
「役目? 留美。まだ、伝えてなかったのか?」
「うん。……ごめんね。私、何度も話そうとしたんだけど、あの人、全然聞いてくれなくて。本当は、もっと早く帰れる筈だったのに」
「心配で見に来て、正解だったよ。そういうことなら、俺から伝えておこう」
わけのわからない会話を繰り広げた後、その男は、僕の方を向いた。
「ええと、ごめん。ちょっといいかな」
いいわけがない。だが彼は、僕を無視する。
この物語の主人公は僕だ。にも関わらず、彼は僕を、端役のように扱った。
「さっき、君は俺に、何をするんだって、訊いたよね? その答え、言い直すよ。俺はただ、自分の恋人を助けただけだ。男として、当然のことをしたまでさ」
彼の言葉の意味が、僕には理解できなかった。
恋人? 今、恋人と言ったか? つまり、彼と彼女は、既に恋仲なのか。
「そ、そんな、そんなわけ――ッ!」
僕は鞄から、人生のプロットを取り出した。三十枚弱になる大長編。傑作であること間違いなし。だが、その十五枚目で、プロットに記されていない事態が生じた。
おかしい。おかしい。だって、こんなの書いていない。
彼が彼女と、恋仲だったなんて、僕のプロットには書いていない。
縋るように、僕は彼女との出会いを記したページを見た。不良に襲われているところを僕が必死に助ける。それで彼女は、僕に対する興味を抱き始めた筈だ。
この男は駄目だ。彼は僕の物語の、登場人物ではない。
僕は、彼女に向けて、問いただした。
「ぼ、ぼ、僕が助けなきゃ、今頃、君は……っ!」
「それは、感謝しているわ。でも、あの時、あなたは凄い怪我をして……なんで、あそこまでしてくれたのか、全然わからなくて。……正直、もう、関わりたくない」
彼女の、僕を見る目は、酷く恐れていて、酷く気味悪がっていた。
それから――僕の記憶は、途切れ途切れになっている。プロットを鞄に詰め込み、遊園地の出口目掛けて走り続けて。途中で何度も転けて。それでも止まらずに、家に帰って来た。気がついたら、僕は机の前に座っていた。そして、鞄の中から人生のプロットを取り出して、僕はそれを、忌々しげに睨んだ。
「くそっ、くそっ、くそっ! なんてことだ! プロットが破綻した! これじゃあ先に進めない。ここから先は、彼女という恋人がいることを前提に作っているんだ!」
目の前の紙束から、価値という価値が抜け落ちる。
僕は嘆いた。眦から涙がこぼれ落ちた。
「あぁ、ちくしょう! なんて面倒な真似を! 勝手に動きやがって! 僕の知らないところで、勝手に彼氏を作りやがって! くそぉ! プロットは、まだ半分も残っているのに! 一体、どれだけ修正しなきゃいけないと思っているんだ!」
すぐに修正作業に取り掛かる。最低最悪の経験だ。今日、この日、僕のこれまでのプロットは無意味と化した。これまでの行いも全部、無価値となってしまった。
こうなってしまった以上、すぐにプロットを修正するしかない。しかし、プロットの修正には、膨大な時間と労力がかかる。単に、失敗したシーンを、次回に持ち越せばいいというわけではないのだ。物語は整然とした流れを持つ。ひとつの物語は、幾つものシーンに分割することができるが、それらには全て、論理的な繋がりがある。Aを修正すれば、それがBにも影響を与える。結果、Bも修正しなくてはならず、すると、Cも修正しなくてはならなくなる。プロットの修正は、頭も使うし、体力も使う。
何より悔しいのは、過去に製作したプロットの崩壊によって、自慢のアイデアたちが消えゆくことだ。僕は本来なら、今日、彼女と恋人になり、明日も明後日も、彼女と一緒に過ごす予定だった。僕の家に彼女が泊まり、彼女の家に僕が泊まり、二人はゆっくりと愛を育む筈だった。そんな、大切なストーリーが、消去されてしまうのだ。
耐えられるわけがない。僕が頑張って生み出した物語が、次々と消えていく。練りに練った構想も。不意に浮かんだ発想も。全てが意味をなくしてしまう。
「ちくしょう、次は絶対に、こうなっちゃ駄目だ!」
今回のプロットが失敗した原因は、恐らく、僕の調査不足だ。僕は、彼女の周囲の人間関係を殆ど知らなかった。だから、あの忌々しい男の可能性を考慮していなかったのだ。あの男のことを計算に入れて、プロットを組んでいれば、失敗しなかったに違いない。抑えきれない後悔が、胸に押し寄せる。耐え切れず、口から吐瀉物が漏れた。
「次こそは、完璧なプロットを……!」
泣きながら、僕は二作目のプロットを製作した。
この時、僕は既に、小説家になる夢を持っていなかった。諦めたわけではない。ただ単に、意識の範疇に無かった。何故なら僕は、自分のプロットを書くことに精一杯だったから。主人公である僕には、主人公である僕に相応しい夢がある。それは、小説家ではない。僕は物語の書き手ではなく、物語の中の人物へと昇華したのだ。
それでも、どこか、名残惜しく。
僕の懐では、カサカサと紙の擦れる音が鳴っていた。
◆
二度目のプロットは、全てが順調だった。
新しいプロットを製作したことで、僕はまた、新しいヒロインを手に入れた。彼女は非常に大人しく、大学で、誰かと会話している様子を見たことがない。しかし、顔は僕のヒロインに相応しいくらいの美しさで、おまけに僕と彼女は趣味が合った。
僕のプロットの中では、彼女は、男慣れしていなかった。そのため、キッカケさえあれば、簡単に恋に落ちる少女だった。彼女は読書家で、いつも大学の図書館に通っていた。だから僕も、図書館に度々足を運ぶことにして、そして、彼女が次に借りようとしている本を、毎回僕が先に借りた。やがて彼女は、自分の借りたい本がいつも誰かに借りられていることを疑問に思い、本を借りている生徒の情報を調べ出す。そこで、彼女は初めて僕という存在を認識した。以来、彼女は僕に、関心を抱いている。
その状態で、僕は何度か彼女と偶然鉢合わせて、幾つかの会話をした。
完璧だった。一作目の、身勝手なヒロインとは違う。
彼女は、僕のプロット通りに動いてくれた。
「好きです。付き合って下さい」
観覧車の中で、僕が告白する。
暫しの静寂が終えた後、目の前に座る彼女は、頬を赤らめながら首を縦に振った。当然だ。そうでなくては困る。全てはプロットに記した通り。
こうして、僕は恋人を作ることに成功した。
「夏休みは空いてる?」
ある日の正午。学校の食堂で、僕と彼女は話し合った。
「うん」
「じゃあ、デートしよう。夏は、海に花火に祭りに、イベントが沢山ある」
僕がそう言うと、彼女は楽しそうに笑った。
僕としても、このイベントを逃すわけにはいかない。夏休みは、物語において、非常にメリハリのきいた期間だ。全てのシーンに、魅力が詰まっている。
大学生になって、三度目の夏は、そうして過ぎていった。
「ごめん。暫くは会えないかもしれない」
夏休みがあけて、僕と彼女は再び食堂で会話した。
この頃になると、僕達大学三回生は、ゼミと呼ばれる講義を履修していた。この講義は大学の卒業に大きく関わる。有効に活用すれば、就職活動にも利用できる。
僕の言葉に、彼女は首をかしげた。
「どうして?」
「就職活動に専念したい。大企業に入らなくちゃ、いけないから」
「入る必要があるの?」
「あるよ。入らないと、僕達の関係が終わってしまう」
「私は別に、そんな風に思わないけれど」
「君が思ってなくても、そうなってしまうんだ」
彼女は終始、不安と疑問を綯い交ぜにした瞳を向けていたが、僕は頑なだった。過去に一度、プロットの破綻を経験している僕にとって、二度目の破綻だけは絶対に避けたい。あれから一年近くの時が経過している。ここで再びプロットが破綻すれば、一体どれだけの修正作業が必要だろうか。去年と今年では、残された時間が全く違う。使い回せるシーンだって、殆どない。莫大な労力を要することは明らかだった。
僕の説得もあってか、彼女はすぐに、協力の姿勢を取ってくれた。その辺りは、流石に僕のヒロインといったところか。だからこそ、今作のヒロインは彼女なのだ。
「勉強、楽しい?」
「全然」
週に一回、彼女との会話の時間を設けている。だが、以前までは毎日のように会話していたのだから、彼女は全然満足しているように見えなかった。勿論、それは僕も同じだ。しかし、この伏線が、次の結婚後の日々に影響を齎す。今まで、何度もお預け状態をくらった僕たちは、結婚と同時に、燃え盛るほどに愛し合うのだ。
そろそろ大学編も終わりだ。社会人編が待ち遠しい。
「じゃあ、なんでそんなに頑張っているの?」
「ここで頑張れば、僕達はもっと幸せになれるから」
「私は今でも幸せだけど」
「もっと幸せになる」
「でも、私は、今でも十分だと思うよ」
「君がどう思うかなんて、関係ないよ」
僕がそう言うと、彼女は黙った。納得してくれたのだろうか。
結論から述べると、彼女はこの一言で、納得してくれたようだ。
僕はあれから、見事、大手企業に就職することに成功した。周りの登場人物たちは一様に僕を称えた。僕はそれに慢心することなく、更なる高みを目指し続けた。
全てが、プロット通りに、展開している。
「病気のときも健康のときも、夫として生涯、愛と忠実を尽くすことを誓いますか」
「はい、誓います」
僕は言った。
「病気のときも健康のときも、妻として生涯、愛と忠実を尽くすことを誓いますか」
「はい、誓います」
彼女も言った。
僕が就職活動に成功したことで、結婚資金もあっさりと得ることができた。互いに誓いの言葉を述べたあと、祝いに来てくれた人たちが、一斉に拍手する。
「凄い。こんなに沢山」
「当然だよ」
僕達を祝福する人の多さに、彼女は驚いていた。
だが、これもプロット通りだ。この日のために、僕は彼らに伏線を仕込んでおいたのだから。皆、僕に何かしらの恩があり、それを返す機会を伺っていた。そこで結婚式を開けば、当然、皆参加するだろう。全てが計算通りだった。
この時点で僕は、自身のプロットに対して絶対の自信を抱いていた。
僕のプロットは完璧だ。この通りに動けば、確実な未来を得ることができる。
だから、今日。僕はそのことを、彼女に伝えることにした。
「大事な話があるんだ」
僕がそう言った時、彼女は不安そうな顔をした。どちらかと言えば、今は大事な話が終えた後だ。結婚という重大なイベントの先に、何か更に大きな話でもあるのか。彼女の表情から、そんな疑念が窺える。しかし、僕にとっては、結婚よりも遥かに大事な話だった。
鞄から、三十枚弱の紙束を取り出す。
何年も前から、肌身離さず持っているものだ。
「これは、プロットだ」
「プロット?」
使い慣れていない単語だからか、彼女の発音には違和感があった。
僕は首を縦に振り、紙束を丁寧に彼女に渡した。僕の人生プロットを、彼女はまじまじと見つめる。少し恥ずかしかったが、誇らしくもあった。
「僕達が、八十歳になるまでの道筋が書いてある。とても楽しくて、幸せなストーリーだ。僕も君も、そこに書いていることを実行するだけで、全てがうまくいく。勿論ハッピーエンド。だから、どうか君にも、協力して欲しい。物語を完結させるために」
僕の一言に、彼女は暫く思考した。
だが、やがて口を開く。その素振りも、彼女が見ているプロット通りだ。
「分かった。協力する」
彼女の言葉に、僕は優しく微笑んだ。
「それじゃあ、私はまず、どうすればいいの?」
「そこに書いているだろう。ええと、確か、十九ページ目だ。今日は初夜だから、キスして、セックスして、幸せな気分に浸るんだ」
「今日じゃないと駄目なの?」
結婚式の後ということもあり、妻は疲れているようだった。
僕も疲れている。でもプロットが示す日は今日だ。
「今日じゃなきゃ駄目だ。そう書いている」
「分かった」
こうして、僕達は交わった。
◆
僕と彼女の夫婦としての暮らしは、順風満帆だった。僕はあれから、数度の転勤を繰り返し、今では同期の中でも一線を画するほどの出世を果たしている。一方、妻もあの日から僕のプロット通りに動いてくれて、平穏で、着実な人生が続いていた。
今日。その平穏に、更なる進化が訪れる。
空港で、僕は搭乗予定の旅客機を待っていた。
この日は、会社の上層部の人たちと、ミーティングを行うことになっている。この会議は、通常の社員には行われない。選びぬかれた精鋭が、更なる高みを目指すために用意された舞台だ。研修とは名ばかりの、昇級試験である。
僕は鞄の中から紙束を取り出した。十年以上前から、持ち歩いている、僕の人生のプロットだ。これのおかげで、僕はここまで来ることができた。これがなければ、僕は何処にでもいる凡人として、物語の脇役のように、下らない日々を過ごしていただろう。
何もかもが思い通り。これまでも、そしてこれからも。
既に試験に合格した気でいた僕は、無意識に唇で弧を描いていた。
その時。僕のポケットで、携帯電話が音を鳴らした。
取り出して画面を見ると、そこには妻の名が記されている。これは、おかしい。プロットにない行動だ。まさか、こんなタイミングで予想外の動きを取るとは。僕は怒鳴り散らしたい気持ちをどうにか抑えつけて、通話に出た。
ところが、聞こえてきた声は、僕の知らない誰かのものだった。
「あなたの奥様が、倒れました。今すぐに病院に来てください」
声を交わす余裕すらないのだろう。僕に電話をかけたその人物は、すぐに通話を切断した。だが、僕がその報せの内容を理解するには、長い時間を要した。
頭が真っ白になる。慌てて、紙束のページを捲った。
おかしい。おかしい。おかしい、おかしい、おかしい――こんなこと、一切書かれていないじゃないか。どういうことだ。どうすればいい。
頭に浮かぶのは、一作目の失敗。あの修正作業だけは、もうしたくない。幸い、多少の予想外はあったものの、僕のプロットはまだ続いている。僕はこのあと、大事なミーティングをするために、海外に飛ばねばならない。その後、家に帰ってから、再び妻と愛しあうのだ。この流れを維持するためには、振り返ってはならない。
修正できるか? いや、無理だ。このプロットを製作してから、どれだけの月日が流れたと思っている。今更、三作目に移れるわけがない。僕はもう、この二作目のプロットしか持っていないのだ。プロットの通り、動くしかない。
今日。この日を逃せば、僕の出世の話は無しになるだろう。行くべきだ。今まで通りプロットに従え。それが僕にとって最善の選択なのだ。これまでも、そうだった筈だ。
飛行機が来た。搭乗を促すアナウンスが流れる。
僕はゆっくりと、歩み出した。
「よい旅を」
客室乗務員が、一人ひとり、搭乗客に告げる。
僕は懐から、チケットを取り出した。これでいい。プロット通りに動けば、全てがうまくいくのだ。妻だって、それくらい知っている筈だ。僕がこうすることも。僕がこうすることで、幸せな人生が保たれることを。
改札を通りぬけ、僕は旅客機へと向かった。
「お客様。落し物です」
背後から声を掛けられて、僕は振り返った。
何かを落としたことにも気づいていなかった。いけない、こんな注意散漫では、ミーティングで失敗してしまう。落ち着け、落ち着け。そうやって自分を宥める僕に、客室乗務員は、一枚の紙を手渡した。
それは、プロットではない。
とても懐かしいものだった。
『キャラクターが、駒のように扱われています。もっと血を通わせて!』
ガツン、と頭を殴られるような衝撃を覚えた。
あの時は、全く意味のわからなかった文言。だが、それが今では、手に取るように分かる。駒のように扱われているとは。血を通わせるとは。一体、どういう意味なのか。
僕は今。遂に、その言葉の意味を理解した。
「そうか。そういうことか」
思わず笑う。周囲の目なんて、気にならない。
こんな馬鹿な話があるかと、僕は盛大に自嘲した。
「僕は……僕たちは、駒じゃないんだ。ちゃんと、血の通った人間だ!」
僕は走った。
改札を逆走して、警備員の驚愕した表情を尻目に、空港を出る。近くにいたタクシーを金の力で捕まえて、行き先を告げる前に「いいから出ろ!」と叫んだ。
車に運ばれながら、僕は何度も妻に電話した。
だが、出ない。僕の焦りは増すばかりだった。
「恵!」
病室に辿り着いた僕を出迎えたのは、看護師と、医者と、それから妻だった。
看護師と妻を押しのけて、僕は妻に駆け寄る。
「あなた? どうしてここに」
不思議そうにする妻に、僕は涙を堪え切れなかった。
あぁ。生きている。妻が生きている! それが、何よりも幸せだ!
僕は妻に抱きついた。妻が僅かに呻いたが、それすらも、生きている証のように思えて、僕の彼女を抱く力は、強くなっていった。涙がボロボロとこぼれ落ちる。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
僕の頭には、妻の掌が乗っていた。何時の間にか、看護師たちの姿も消えている。窓の向こう側では、夕焼けに染まる町並みが広がっていた。
「ごめんなさい」
妻が、唐突に謝罪した。
「あなたのプロットを、守れなかった」
なんだ、そんなことか。
心の底から、責任を感じて落ち込む妻に、僕はゆっくりと告げた。
「いいんだ」
「でも、私のせいで、また修正を……」
「もう、いいんだ」
再び、僕の瞳から涙が零れた。
「今まで、ごめんよ。こんな、ちっぽけな紙束で、君を縛ってしまって」
涙と共に、謝罪する。
「これからは、何も気にすることはない。僕も、君も、紙の上じゃない。ちゃんと、この世界に生きている人間なんだ。……これからは、好きな時に好きなことをしよう。そうやって、幸せになろう。それが本当の、幸せなんだ」
僕は、こんな簡単なことに、今まで気づかなかった。
間違ってはならない。僕は加害者で、彼女は被害者だ。僕の、馬鹿げた思想に、彼女は巻き込まれただけなのだ。彼女がこの先、何をしようが、僕はその全てを見届けてみせる。たとえ、僕を殺そうとしても、僕は彼女の意志を尊重する。一人のキャラクターではない。一人の人間として、僕は彼女の答えを、尊重する。
「分かった」
妻がポツリと呟いた。
「じゃあ、早速――」
妻が、言葉を漏らしながら、身体を僕に近づけた。
途端に訪れる恐怖に、僕は思わず目を閉じた。
どれほど、僕を恨んでいるだろうか。想像するだけでも恐ろしい。
しかし、僕に訪れたのは、刃物で貫かれるような痛みでもなく、心を砕かれるような罵詈雑言の嵐でも無かった。
僕の唇に、妻の柔らかな唇が触れていた。
「あ、あ……」
言葉を失った。唇を離した彼女は、とても照れ臭そうに、そっぽを向いた。
それは、結婚初夜の日。僕たちがしたキスの時とは、まるで違う感触だった。心臓がありえないくらい、締め付けられる。緊張で、うまく言葉を発せない。
涙が止めどなく溢れた。そんな僕の頭を、妻は撫で続けた。
◆
この日、僕は初めて、自分のプロットを無視した。
でも、後悔はない。何故なら、僕は今、とても幸せなのだから。
ふと、目の前の紙束を見る。これがあるおかげで、僕は今まで、主人公のように、立派に生きることができた。けれど、ここには僕達の幸せが一切書かれていない。そこにあるのは、淡々とした、都合の良い道筋だけだ。
この物語の登場人物たちは、自分で考え、自分で行動していない。誰も、自分の未来を求めていない。物語のために生きて、物語のために死んでいく。紙束に記された僕達は、僕の作った空想に、全てを捧げていた。
それはとても醜く、不条理な物語だ。
「どうしたの?」
眉を潜める僕に彼女が訊く。
「いや」
僕たちは、駒ではない。血の通った人間だ。
物語にとっての幸福なんて、どうでもいい。自分にとっての幸せとは何だったか。僕はそれを思い出しながら、彼女に答えた。
「小説。また、書いてみようかな」