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 第15話 「最初の冒険者」

 意識が明瞭になる。

 手は握れる。

 足にも力が入る。

 血と魔力が全身を巡っているのが分かる。


 ホルダはゆっくりと立ち上がる。

 身体のあちこちに岩や小石で擦り剥いた傷が出来ている。

 そして、何より――


 「助けて欲しいのは山々だけど――」


 「妊娠してるのか?」


 「……みたいね」


 素面(しらふ)に戻り、気丈に振舞ってはいるが、さすがにショックは隠せない。

 声が震えていた。

 まだ16歳である。

 剥き出しの下半身と、わずかに膨れた下腹部が現実の厳しさを証明している。

 ゴブリンに襲われてわずか数日だと言うのに、ゴブリンのクローンはホルダの腹の中で確実に成長していた。

 ゴブリンの妊娠期間は短いが、『他胎』を使った場合、更に短くなる。


 「死ぬか?」


 そんなつもりはなかったのだが、ラスカの発した声音はラスカの思った以上に優しい響きであった。


 「……」


 自分の腹の中にゴブリンの子を飼っているのかと思うと、吐き気を催す。

 やがて身も心もゴブリン化するのではないか。

 気が狂いそうになるのを、幸か不幸か『精神耐性』が何とか繋ぎとめていた。


 すぐ傍には、さっきまで醜悪な生をむさぼっていたゴブリンの死体が転がっている。

 不思議とホルダの中にゴブリンに対する怒りのようなものは湧いてこない。未だスキル『他胎』の支配下にある、というわけではない。

 ゴブリンはゴブリンで、過酷な生存競争の中で、生きるためにやったことだ。

 それが例え人間にとって悪夢としか言いようのないスキル、『他胎』であっても。


 正直なところ、ホルダの中にあるのは汚された己の心身に対する嫌悪感のみである。

 ラスカの前だというのに、剥き出しの下半身を隠す気にもならない。年頃の娘らしい羞恥心は影を潜め、いっそどうでも良い、という捨て鉢な気分の方が優っていた。


 「――話は変わるが、表に『精霊の宿り木』があるな。お前の関係者が植えたのか?」


 ラスカが話を変えたのは、何もホルダの気持ちを(おもんぱか)ったことだけが理由ではない。

 ラスカとしては、ホルダが「生きたくない」と言うのなら、自殺の手伝いくらいはしてやるつもりでいる。『他胎』の犠牲になったのだ。彼女にはその程度の優しさ(・・・)を受ける資格は十分にある。


 ただし、その前にラスカにも知りたいことがある。


 「……母よ」


 「(母親の足跡を追って、フィフス村に入ったのね。運の悪い娘だよ)」


 二人の会話をラスカの後ろで聞いていたタチワナは迷っていた。

 ラスカを止めるべきか否かを。

 気持ちとしてはラスカを止めたいが、「死にたい」と言う者を救う義理はないし、責任も持てない。

 冒険者としての暗黙の了解もある。

 直接、タチワナには関係のないことなのだが、ある種の修羅場ではあった。

 正しくは、愁嘆場か。

 空気が重い。

 ふとタチワナが横のハリチコに視線を移すと、ポロポロと貰い泣きしていた。


 ラスカはブッハルト一行は隣村であるエルグレン村にまだいると考えている。

 別行動のケイリィとジムをブッハルトに直接ぶつける予定だが、この場で知れることは確認しておきたい。


 「そうか。木には精霊もまだいるようだ。もう、読んだのか?」


 「まだよ。精霊と契約しようとしていた時にゴブリンに襲われた」


 『精霊の宿る木』に集中していたところ、『他胎』発動圏内にゴブリンが入ってきたのだろう。


 「表の――そうだな、100m四方くらいに、野生化した芋が自生している。特に病気に冒されてる感じじゃない。これもお前の母親の仕業なのか?」


 「!?」


 ホルダはラスカを押しのけるようにして、洞穴から飛び出した。

 下半身は丸出しだ。

 タチワナとハリチコがホルダを追う。


 それを見届けると、ラスカは洞穴の中を調べ始めた。

 時に、ゴブリンやオーク、オーガといった二足の亜人種はお宝を溜め込んでいる場合がある。金属で出来たコインは、亜人たちにとっても、何となく価値があるように思えるのかも知れない。


 収穫は銅貨が数枚のみ。

 錆びて完全に茶色になったナイフ以外、刃物の類もなし。


 「(特に、目ぼしいものはねぇか……、ん?)」


 砕けた骸骨の傍に落ちていたのは指輪であった。

 拾って泥と埃を払う。

 

 「(金だな。ホルダの母親のものか?)」


 ザッと探した結果、他には価値のありそうなものは無さそうであった。

 ホルダの荷物らしきものも見当たらないので、ラスカも洞穴を出た。


 『精霊の宿る木』の前で、ホルダが土の精霊を呼び出していた。


 【:――大地を守護する翠樹界の聖霊よ】


 木の幹の一部に白い魔法陣が浮かんでいる。

 スキル『古代語』を持つ者か、あるいは特別に学習し、修めた者以外には一文字たりとも読めない。

 

 『精霊召喚』には古代語の詠唱が必要である。

 ホルダは精霊と仮契約を結び、『大樹の記憶』を読むつもりなのだ。

 ただし、記憶を読むだけなら、『精霊召喚』の必要はない。

 ホルダが白い魔法陣を展開しているということは、『精霊召喚』を試みているのだ。

 記憶を読むだけに留まらない。

 

 『精霊召喚』を展開しているということは――


 【:――我は聖霊の眷属にして、天に捧げた(レィダ)の末裔】


 ラスカは少し離れた場所に陣取り、経過を見守る。

 ロンは精霊に興味があるようで、タチワナ、ハリチコと共に近付いてホルダの様子を見ている。


 【:――我、聖なる盟約に従い跪く】


 これが「世界樹のレプリカ」だとは到底思えない、か細い、頼りない木であった。

 幹の直径は10cmもないのではないか。

 ただ、普通の木とはどこか違う、奇妙な(おごそ)かさがあるのは事実だ。


 【:――万法一切却し、再び青樹界(アラト)に顕現せん】


 ゆっくりと白い魔法陣が回転を始め、基礎陣に忙しく古代語が書き込まれていく。

 ホルダの魔力を吸収しているのだろう。

 すぐに変化が現れた。


 「(顔から!?)」


 果たして、出てきたのは精霊である。


 「うぅ~ん、呼び出されるのも久しぶりね」


 「「「!!」」」


 精霊は最初、木の幹からズズッと顔を出したかと思うと、すぅ~っと『精霊召喚』の白い魔法陣を通って、全身が幹から離れた。

 別に閉じ込められていたわけでもないだろうに、両手を挙げて伸び(・・)をしている。


 ロンとタチワナとハリチコは『精霊召喚』の現場に立ち会うのは初めてだ。

 ロンなど、完全に固まっている。

 そもそも彼らは精霊を目の前にするのが初めてである。

 噂に聞いたことはあったが、「こんなに小さいのか」というのが3人の率直な感想。

 体長は50cmくらいか。


 一方、ラスカは経験あり。

 曽祖父キェト・ヴォロノフの記憶はもちろん、祖父のリィフ・ヴォロノフが記憶を残す現場にすら立ち会っている。

 ただし、精霊を見たのは今回が初めて。

 つまり、『精霊召喚』を試したことはない。


 ラスカの率直な感想は、「期待はずれ」、であった。

 もっと、荘厳で圧倒的なものだと思っていたのだ。

 

 「?」


 呼び出された土の精霊が首を捻っている。

 

 「あぁ、あなた、ミリィの娘なのね。ミリィが生き返ったのかと思ったわ」


 「……ええ、名前はホルダ。16歳よ」


 「で、どうするの? 『契約』? 『盟約』? ミリィは死んじゃったから、どちらでも良くてよ。ん? あら……、あなたの魔力、ミリィと違って、何だかとっても不味そうね」


 「……んふんっ、『契約』と『盟約』の違いは何?」

 

 一つ咳払いをした後、ホルダが尋ねる。


 「『契約』は『大樹の記憶』をあなたの記憶に転写すること。『盟約』は私が『精霊術』を使えるよう、あなたに印を刻むことよ」


 『古代語』を持っている者が木に手を触れ、体内魔力を注げば、貯蔵された記憶が勝手に頭に流れ込んでくる。

 それがスキル『大樹の記憶』だ。

 一般には、「仮契約」と呼ばれている。

 注いだ魔力は精霊の(かて)(?)となるらしい。

 精霊を呼び出すには『精霊召喚』が必要だが、通常、『大樹の記憶』を使用するだけなら、精霊を召喚する必要はない。

 どうしてホルダはわざわざ精霊を召喚したのか。


 「母はどうだったの?」


 「もちろん『盟約』よ」


 精霊がミリィのことを知っているということは、つまり、そういうこと。

 契約は大樹の記憶を読むこと。

 一方、精霊と本契約を結ぶのが「盟約」というわけだ。


 「じゃぁ、それでお願い」


 ホルダは即座に了承する。


 「待てホルダ。『盟約』によって、『精霊術』を使う代償が不明じゃないか」


 外野から待てが掛かった。

 ラスカである。


 「ん? あら、あなたの魔力は美味しそうね。あなたもどう? 契約だけでも良いわよ。私の身体を見てよ。魔力が足りなくて、こんなに小さくなっちゃった」


 精霊の本来の体長は1mくらいである。


 「話を逸らすな」


 「別に逸らしてないわよ。人間の言葉は難しいから、途中で話しかけられても、なかなか理解が追いつかないのよ。ごめんなさい。もう一度お願い出来るかしら?」


 「ちっ。ホルダが『精霊術』を使えるようになるんだろ? その代償を聞いてないと言ってんだ。魔力だけで良いのか?」


 「確かにラスカの言う通りだ。そうそう人間にばっかり都合の良い契約があるわけがない」


 精霊を初めて見て固まっていたロンがやっと口を開いた。


 「ぷふっ。精霊でもない人間が『精霊術』を使えるわけがないじゃない。変な事を聞くのね。『精霊術』はあなたたちの使う『魔術』とは違ってよ。くすくす」


 「「「!?」」」


 ラスカは意味が分からない。

 『精霊術』とは、おそらく『精霊魔術』のことだろう。

 それは問題ない。

 

 問題は誰が『精霊術』を使うのか。

 契約者が使うのではないのか?

 一般に、精霊と契約すると、魔力を代償に『精霊魔術』が使えるようになると言われている。

 ラスカですらそういう認識であった。

 ロン、タチワナ、ハリチコにとっては、推して知るべし。

 

 「私が(・・)『精霊術』を使うのよ。私が『精霊術』を使う代償に、『盟約』を交わした人間が血肉を支払うの」


 「はぁ?」


 思わずラスカが声を上げる。

 皆の総意だろう。


 『精霊召喚』も精霊との契約も、基本的に精霊に関する知識やスキルはエルフ族の専売特許である。

 もちろん、他の種族も可能ではあるが、種族特性スキルが多すぎて、なかなか手を出せないのが実情だ。


 しかし、問題は純血のエルフ族であるラスカが、どうしてその程度の知識を持っていないのかということ。


 それは禁句(タブー)とまではいかないが、それに準ずる忌避感のようなものがエルフ族の間に存在するからだ。

 なるべくなら、精霊とは関わらぬように、といった。

 その為、親から子へ、情報が正確に伝承されないことが多いのだ。


 「何か、あなた失礼ね。別に無理にとは言ってないわ。私の『精霊術』が不要なら、『盟約』を交わさなければ良いだけよ」


 不思議な話である。

 曽祖父キェトもそうだし、祖父リィフもそうだ。

 彼らは『大樹の記憶』を利用したではないか。

 彼らに限らず、多くのエルフ族が今も利用している。

 それはつまり、精霊を利用したということだろう。

 それで一体、どんな忌避感があると言うのか。


 ラスカなど、忌避感の存在自体を知らなかったほどだ。


 「代償が人間の血肉というのも、何か酷いな。しかも、術を使うのは精霊だけで、人間が『精霊術』を使えるわけじゃないんだろ?」


 「くすくす。気が向けば、人間の為に『精霊術』を使うこともあるわよ。あなたの母親の時もそうだったわ」


 エルフ族にはトラウマがあるのだ。

 精霊契約に関するトラウマが。

 エルフ族は過去に手酷い裏切りにあったことがある。

 それも、現在のエルフ族にとっても大きく影響を与えている裏切りが。それはエルフ族にとって、口にするのも汚らわしいと思えるほどの。

 

 「――まずは母の記憶を読みたいわ」


 「しかし、あなた随分と臭いわね。ん? あなた、良く見たら、私とは『契約』も『盟約』も出来ないみたいよ。馬鹿ねぇ。くすくす」


 「どっ、どうして!?」


 「だって、あなたの体内には魔核があるもの。道理で臭いと思ったわ。汚らわしい」


 綺麗な精霊の顔が蔑みの表情に変わる。


 クローンだろうが、胎児だろうが、ゴブリンはゴブリン。

 魔物である。

 魔物には魔核がある。

 それがどんなに小さかろうと魔核であることに違いはない。


 「私は人間だか魔物だか分からないような如何(いかが)わしい相手とは、『契約』も『盟約』もごめんよ」


 取り付く島もない。

 精霊との契約が可能なのは、人間のみ。

 魔物や魔族は、どんなに知能が高かろうと、精霊と契約を交わすことは出来ない。体内に魔核を持つ為に。

 魔核と精霊の核、のようなものが反発しあうから、と言われているが、正確なところは分かっていない。

 いずれにしても、精霊がNOだと言うのだから、契約は結べない。


 「そんな……」


 「ど、どうしても『契約』したきゃ、堕ろした後にでもするさ。腹ん中にゴブリンの子がいたんじゃ、精霊(こいつ)だって嫌なんだろうよ。読むだけなら、『古代語』を持つ俺なら読める。別に俺が『大樹の記憶』を使ってやっても良いぞ」


 思わず助け舟を出すラスカ。

 だが、少々言葉が荒かったか。


 「ラスカっ!」


 タチワナが叫ぶ。

 ラスカの言葉があまりに不用意であったからだ。


 ラスカの直感では、精霊というものは、どうにも胡散臭い。

 一応、ホルダに対して気を使ったつもりだったが、あまりに態度がぶっきらぼう過ぎた。

 ホルダはただショックを受けただけである。

 若さゆえの浅慮か。


 「あぁ……」


 ホルダが膝立ちの体勢から、ガクリと上半身を落とす。

 しかし、下半身丸出しで四つん這いの態勢はいかにもマズかった。

 ハリチコが慌ててホルダの腰にマントを掛ける。

 ラスカはそれを見なかったことに――出来るわけがなかった。

 ラスカは15歳である。

 


 ◇◆◆◆◇



 「『精霊の宿り木』?」


 「そう。俺たちエルフ族は、『大樹の守人』という種族特性スキルで精霊を木に留め置くことが出来るんですよ。全員が持ってるわけじゃないんですけどね」


 ラスカがゴブリンの巣近くで見付けたという『精霊の宿り木』。

 それはホルダの母ミリィが植えたものだったわけだが、ラスカたちと別行動を取っているケイリィたちに知る由はない。

 現在、ケイリィ、ジム、セルゲィ、ザキエフの4名はフィフス村の隣に位置するエルグレン村に向かっている。

 ブッハルト・ケイランに会う為に。

 隣と言っても、随分と離れた距離になるのだが。


 「私も『大樹の記憶』なら若い頃に何度か使ったことがありますよ」


 エルフ族であれば『大樹の記憶』を持っているのは普通のことなので、一度や二度は使ったことがあるのだ。


 「今はどうです?」


 ケイリィがセルゲィに問う。


 「今はあまり使いたいとは思いませんね。何だかエルフという種族自体への興味が薄れた、というのもありますが、やはり、エドラ教が第一の理由でしょう」


 かつてエルフ族は『精霊の宿り木』と共に集落を作ったが、人族の数と支配地域が多くなるにつれ、そういった習慣も昔日のものとなりつつあった。


 「ですよね」


 「そういや、エドラ正教のエドラってのは、光の精霊王のことだったな。アーイル・コーカが契約者だ」


 「預言者」アーイル・コーカは約1800年前を生きた人族で、エドラ正教の創始者であり、エドラ教皇国の初代教皇である。

 アーイル・コーカが契約した精霊はただの精霊ではなく、光の精霊王であった。その精霊王の名こそ、エドラ正教の名称にもなっている「エドラ」である。

 

ちなみに、太陽暦である『コーカ暦』の「コーカ」はもちろんアーイル・コーカに由来する。

 更に言うなら、アラトで最も多く流通している通貨の単位『セラ』はアーイル・コーカの妻の名「セーラ」に由来する。


 「エドラが本当に精霊王だったかどうかはともかく、まぁ、そういうことです。エルフ族にとっては眉唾でも、それが世界の標準になってしまった」


 エルフ族は長命種であり、1800年前というのは、感覚的には、それほど大昔というわけではない。

 しかも、彼らには『大樹の記憶』がある。

 エドラ正教は成立の時点で、やはり多くの宗教と同じく、「神話」を必要とした。

 その「神話」が問題であった。

 エルフ族が有する『大樹の記憶』と乖離がありすぎたのだ。

 エドラ正教の「神話」には、始祖大陸以前(・・・・・・)が描かれていなかった。


 「どういうことだ? 『魂一体説』なら教会で習ったぞ」


 「あるいは三位一体説だな」


 ジムの問いを補完したのは、ザキエフ。


 「魂一体説」とは、神、光の精霊王、アーイル・コーカは魂の次元で一体である、とする教えである。

 エドラ正教の教義における根幹を成す教えであり、正統教義とされる。

 

 エドラ「正」教と言われるように、実は、1800年余りの間に、何度か宗教的な対立や、派閥抗争による内部分裂の危機があった。しかし、この「魂一体説」だけは、全ての派閥が共有している。

 現在では「魂一体説」を否定する派閥は存在しない。仮にあっても、泡沫派閥の類であろう。


 「ようは、エドラ正教のお陰で、エルフ族が生き辛くなった、ってことですよ。実際はともかく、少なくともエルフ族の中にはそう考える人たちがいるのは事実です」


 「逆恨みじゃねーのか?」


 実際に、エドラ正教のせいでエルフ族の生活は息苦しいものになっている。だが、ジムの言う「逆恨み」というのも、ある面における事実であった。

 

 どうしても許せないのであれば、「逆恨み」じゃなく、「本恨み」すれば良いのだ。

 生きることと闘争することは同義だ。

 自分たちで闘争を避けておいて、そのくせ、「生き辛い」とはまさに「逆恨み」。

 奴隷の発想であろう。


 「ザキエフさんは聖書を読んだことは?」


 「『エダー』なら教会で暗唱させられた。もう、ほとんど忘れたけどな」


 「聖書『エダー』は全12章70篇からなります。まぁ、いろいろ書いてありますが、エルフ族が問題としたのは二点。一点目は『エダー』第1章冒頭の『創世篇』です」


 「唯一神ラトが神の分身である『世界(アラト)』を作り、大地に種を蒔いた――ってとこか?」


 神の別名を「ラト」という。

 唯一神ラトは、自身の分身として世界を創った。そして、創った世界を自らの名からとって、「アラト」と名付けた。

 世界を創ったラトは殺風景なアラトに種を蒔いた。

 

 「そうです」


 「確かにちょっと人族本位の考えではあるな」


 「神が大地に種を蒔き、そこから一組の人族が生まれた。『アイダとラムド』です。その後、彼らはラトが残した豊かな大地に種を植えます」


 まず、唯一神ラトが蒔いた種から人族が生まれた。

 しかし、アラトには彼らが食べる物がなかった。

 そこでラトは様々な種を蒔き、成長を促した。

 やがてアラトは動植物が繁茂する豊かな世界になっていった。

 だが、豊かすぎる世界は人族だけの手に負えなくなってしまう。

 そこで、アイダとラムドはラトの真似をして、種を蒔く。


 「で、そこからエルフ族が生まれたんだったな。確かに言われてみりゃ、エルフ族にとっちゃ良い気分はしねーわな。ははは」


 最初に生まれたのがエルフ族。

 アイダとラムドはエルフ族に森や自然の管理を任せた。


 「その後も『アイダとラムド』は種を蒔き続けます。人族が蒔いた種から生まれたエルフ族が森を守り、その森から獣人族が生まれた。森を拓く道具を作る為に、人族はまた種を蒔く。で、ドワーフ族が生まれた」


 「改めて聞くと、結構酷いな」


 ようは、『創世篇』は人族にとってのみ、都合の良い神話であった。


 「酷いと言うか、巨人族や竜人族、魔族はおろか、魔物や獣すら出てきません。まるでアラトには人族、エルフ族、獣人族、ドワーフ族しかいないと考えているかのようです。神話にしてはお粗末過ぎますよ」


 確かに世界は強者にとって都合の良い世界ではあるが、少々露骨である。

 暗喩も直接的過ぎる。

 聖書の解釈は様々あるが、アイダとラムドの蒔いた「種」からエルフ族が生まれた、といった記述など、エルフ族にとっては屈辱以外の何ものでもないだろう。

 いずれにしても、あまりに歴史からかけ離れた「創世篇」は、エルフ族にとっては噴飯物のホラ話として認識されている。


 「巨人族と竜人族が出ないのは、『エダー』を書いたやつが知らなかったんじゃないか、とされてますね」


 普段、あまり自分の意見を主張することのないセルゲィだったが、こと、エルフ族に関することなら、一家言あるようだ。


 「竜人族はほんの4000~5000年前まで普通にいたはずだし、巨人族は今もアルフォ山脈の東にいる」


 ジムは時々野良仕事をしている百姓に話を聞き、情報を集めつつ、一行の会話にもちゃんと加わってくる。

 なかなか器用な男である。

 斥候職としての適性なのだろう。


 「ですね。それと、魔族と魔物、獣が出てこないのは、光の精霊王――とされていあるエドラが『エダー』製作に関わっている可能性があるんじゃないかと」


 「どうしてそうなる? 精霊王が人族の聖書なんぞに興味を持つかね」


 「そこまでは分かりません。ですが、魔族、魔物、獣には共通点があります」


 「「どんな?」」


 ジムとザキエフの声が重なる。


 「精霊と契約できません。魔族と魔物は魔核のせいで。獣は知能が低く、会話が成立しない為に」


 「ほぅ。そいつは初耳だ」


 ジムは精霊との契約の条件など知らないし、大して興味もないが、精霊と契約すれば、大きな力を得る、ということくらいは知っている。

 どうすれば精霊と出会えるのかは知らないが、出会えば契約出来るものだと思っていた。

 それが、契約には条件があるとは――といったところか。


 「エルフ族は皆、知っていることですよ。人族の間では、精霊はあまり知られた存在ではありませんが」


 「哀しいのは、歳を取るにつれ、そういうことを知るとは無しに、知ってしまうことなんですよ。私もそうでした」


 「へー」


 「それで、何となく、精霊に対して拒否感というか、忌避感のようなものが芽生えてきます」


 何となく同意している風のジムとザキエフだが、どうして忌避感が生まれるのかが分からない。


 「もし、精霊王が『エダー』製作に関わっていたとしたら、それこそ、精霊はエルフ族にとって、敵になります。だからエルフ族の多くが、エドラを光の精霊王とは認めていません」


 「アラトに出現した精霊王は、水の精霊王アークアのみと?」


 「と、民族主義的なエルフ族は考えているようです」


 ケイリィはそう付け加えたが、民族主義的なエルフ族に限らず、ほとんどのエルフ族が「光の精霊王=エドラ」を認めていない。

 水の精霊王アークと契約したのはエルフ族である。

 そのことも光の精霊王に対する忌避感に繋がっているのだろう。


 「まぁ、ようは、精霊に関する魔術やスキルの多くがエルフ族の種族特性スキルですよね。古くからエルフ族と精霊は深い付き合いを続けてきました。エルフ族としては、裏切られたような気分なんですよ。実際、私もかつて裏切られたような気がしたものです」


 「しかし、1800年前の話だろ?」


 「ええ、古い話です。ただ、エルフ族の中に、頼りにしていた友人に裏切られたような、一抹の寂しさみたいなものがあるのは事実です」


 「結局は、不甲斐ない自分たちの現状を1800年前の精霊の所為にしているだけなんですけどね」


 だからこそ、自分たちは立ち上がるのだと、ケイリィは言いたいのだろう。

 自虐ではなく、自戒を込めて。


 「しかし、すげぇな。俺、初めて知ったよ。ジムさんもそうだろ?」


 「まぁな。人族とエルフ族は、身近なようで、知らないことばっかだからな」


 特に、あの大陸(・・・・)が発見されて以降は顕著だ。


 「聖書『エダー』の問題点は理解した。エルフ族の国を作ろう、ってことなら、確かに認められる話じゃねーな。で、もう一点は?」


 

 「始祖大陸ですよ」


 

 「「「始祖大陸?」」」



 「始祖大陸には『世界樹』があるはずなんです」



 世界樹――別名「翠樹」はアラト中の『精霊の宿り木』に貯蔵された膨大な記憶を統括していると言われている。

 世界で唯一、始祖大陸にのみ存在する「不死の魔樹」とされる。

 

 どうしてそんなことをケイリィが知っているのか。


 『大樹の記憶』のお陰である。

 『精霊の宿り木』の中には、それこそ「世界樹」と言っても過言ではないくらい古い樹も存在する。

 エルフ族にとってすら「古い樹」である。

 樹齢数千年では利かない。


 数万年。


 アラトで唯一の世界樹ではなく、そのレプリカである『精霊の宿り木』の中にも、恐ろしく古い樹がある。



 巨人族と竜人族を除く、全ての種族発祥の地、始祖大陸。

 エルフ族も人族も魔族もドワーフ族も、全て始祖大陸で生まれた。

 ちゃちな「神話」などではない。

 時の為政者や強者の論理で作られた「歴史」でもない。


 もっと生々しい個人の「記憶」が存在する。



 「どうして、始祖大陸を管理運営している合資ギルド『始祖極星』は世界樹の記憶を公表しないんでしょうか?」



 はるか昔、始祖大陸から海を渡り、世界中に散って行った祖先たち。

 困難な旅だったに違いない。

 多大な犠牲を払ったことだろう。

 約束の地などあるわけがない。

 未知の海に船出したのだから。



 彼らこそ、最初の冒険者。



 当然ながら、その中にエルフ族もいた。

 今、アラトの各地にエルフ族がいることが、その証だ。

 新大陸に到達した彼らは、その誇らしい冒険の記憶を必ずどこかに残したはずなのだ。


 世界のどこかに彼らの記憶が残っている。

 数万年前の本物の冒険者の記憶が今も尚。


 

 その最初の冒険者の記憶を読んだ者がいる。


 

 もちろん、ケイリィが直接その古い樹を見付け出して、『大樹の記憶』で読んだわけではない。

 ケイリィは、ある研究者の著作を読んだのだ。

 


 そのタイトルは『翠樹の記憶』。

 

 著者はカミル・エバレット。

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