5
「宮下、さん」
昨日の今日でここに現れるとは思わなかったのか、呆然とした表情の先生と向き合う。
私自身も、どうしてこんな風に先生のところに来てしまうのかがわからない。
一晩中考えて、いつのまにか眠りについた。
夢の中で顔をのぞかせたのは「彼」ではなく「先生」、だった。
いつも抱えていた焦燥感は消え、もっと直接的に訴える不安感だけが渦巻いている。
「昨日のこと……」
それだけを言うと、先生は顔をさっと朱に染めて頭をかいている。
「あの、とりあえず。座って」
何の変哲もない学校の椅子をすすめられ、言われるがままにそこに腰を落ち着ける。相変わらず手際よく缶の飲料水が置かれる。
「先生どういう……、どういうつもりであんなことしたんですか?」
「どういうつもりって」
照れたような、困ったような顔をしながら、頭を掻きむしっている。
「先生、からかってるだけですよね?」
先生と私の接点は少ない。
ほとんどない、といって差支えがない。
ただの偶然の出会い。
そんな言葉がよぎる。そしてどこかでキリリと胸が痛む。
私は、私の感情が把握できていない。
あんなことをされて怒っているのか、傷ついているのか。
あれこれあてはめて、そのどれもがしっくりとはいっていない。
「だって、そうじゃなきゃありえない」
自分を説得させるように、そんなことを口にする。
先生にとってはなんでもない、からかいの一端。
だけど、自分で呟いた言葉に自分自身が思った以上にダメージを受けてしまった。思考はどんどん暗い方へと突き進み、もうコントロールできないほど膨れ上がる。
「私みたいに軽そうな女はそれぐらいなんとも思わないって思ってるんですか?」
「宮下さん、落ち着いて。誰もそんなことは思っていないから」
この声は好きかもしれない。
とたんにそんな関係のない思いが浮かぶ。
そして、徐々に真剣なものへと変化する先生の顔を見つめる。
つかみどころがなく、どこか軽そうな普段の先生と、逃げ出したくなるほど真剣な表情をした先生。
どちらも同じ人で、どちらも私は知っている。
「俺は、俺は宮下さんのことが好きだから」
細切れの感情が上下する中の唐突な告白。
生まれて初めて聞いたその言葉は、まっすぐと心臓に杭をうつように胸に届いた。
たぶんきっと、他の人のではこんなにも響かない。会ったばかりの人だというのに、もうすでにどこか気を許している部分がある。なのに、気持ちとは裏腹な言葉が飛び出してくる。
「好きってどこがですか?話したこともなかったのに」
「それは、もちろんそうなんだけど、時間なんか関係あるの?」
言葉に詰まる。
私が「彼」を気にしたのはあの一瞬からだ。
そしてたぶん、今も彼のことは好きだ。
そこに時間は関係がない。
そんなことは私もわかっている。
「でも、私好かれるような外見じゃないし」
「俺は可愛いと思ったけど」
「先生の目がおかしいんじゃないですか?」
私の事を考えてか少し距離をおいてくれていた先生が、私の側へと近付いてくる。椅子を私の隣に置いてそこに腰をおろす。
「俺がかわいいっていってるんだから、それでいいんじゃない?それともそんなに信じられない?まあ、俺軽く見られる方だけどさ」
「だって……」
私が、素直に言葉を受け取れないのは自分の性格と、環境のせいにする。
美人の母と従姉。比較されるのはあたりまえで、随分と捻くれた性格になってしまったのは自覚している。
まして、私は誰からもそうい風に扱われたことしかないから、なんて先生には言えない。
「俺はすくなくとも宮下さんの事が好きだし、この前はじめて話してみて、ますます好きになった」
とても近い距離で言われた告白に顔が赤くなっていくのがわかる。
「だから、この前のは軽い気持ちからでしょ?」
「それに、先生私の事何も知らない!」
最初に出会った時のように、困った顔をする先生はそれでも好きだからと繰り返す。
私はこの人に思われるような人間じゃない、もっとずるくて汚い人間だ。
「本当はこんな立場だから言うつもりはなかったんだけど……」
それは教師と生徒という立場のことを指すのだろうか、ますます困った顔になっていく。
「でも、話してみたらもうがまんできなくなった。触れてみたらもっと触れたくなった」
顔を背けぽつりと呟く。
「触れたいって言われても」
この人からそんな言葉がでるなんて想像できなくて、思わず聞き返してしまう。
「ごめん、高校生相手にこんなこと言うなんて教師どころか大人失格だよな」
人気のない校舎はひっそりとしていて、まるで私達二人しかいないような錯角に陥る。
「別に、いいよ、それぐらい」
殺風景な部室はひどく寂しくて、昨日の彼とのやりとりを思い出した瞬間、この人の体温が欲しくなった。
「それぐらいって」
「はじめてなわけじゃないし、先生がしたいなら、いいよ、私は」
とてもじゃないけど先生の目を見ながらいえなかった私は、前へ放り出した足先を見つめながら話し続ける。
「触れたいんでしょ?」
ガタンと椅子が後ろへと倒れる音がした。勢い良く立ち上がった彼の反動でそのまま後ろへと倒れこんだらしい。
「どうしてそんなこと、簡単に言っちゃうんだ!」
「そんなに価値があるもんじゃないし」
投げやりに呟いた私の両腕が先生の優しい手に掴まれる。
「俺の目を見ろ!」
「いやっ!」
こちらを覗き込む先生から顔を背ける。まっすぐで優しいこの人の目を見ることができない。私は汚い人間だから。
「どうせ私なんか好かれてもない男の人に平気で抱かれるような女なんだから、遠慮することないのに」
痛い程に腕を掴まれる。
「でも、おまえは好きなんだろう、その男のことが」
ズキリと胸が痛む。先生の瞳に全てを見透かされたようで、一瞬合わせた視線を慌てて逸らす。
「やっぱり泣いてる」
そっと私の頬に触れ涙を拭う。
「お前は好きでもない男に抱かれるような女じゃない。少なくともおまえはその人の事を好きなんだろう?」
「私の事、知りもしないくせに良く言えるわね」
泣いているのだと自覚した途端、涙が溢れだしてくる。先生は次々とその涙を拭っていってくれる。
「私は、身代わりでもいいからって、それでもいいから側にいたかっただけなのに!!」
感情を爆発させた私の頬に口付ける。そっと頭が引き寄せられ、先生の体温を感じる距離に納まっていく。心地よくて暖かくて、涙が止まらない。
「だから、今度は俺を身代わりにしようとするのか?」
びくりと肩が震える。
さっき私が口走った言葉がナイフとなって私の元へとかえってくる。
そう、私はこの人を身代わりにしようとしていたのだ。
手に入らない温もりの代りを求めて。
「俺は、ごめんだね、身代わりにされるのなんて」
「ごめっ」
涙でぐしゃぐしゃになったであろう顔を上げる。本当に近い距離にあった先生の顔にどうしてだか安堵を覚える。
「だから、これから好きになれ、俺の事」
そっとなめるようなキスの後、深い口付けをかわす。
頭の中が真っ白になって、でも、どうしようもなく気持ちが良くて。
この人のことをもっと知りたい、そう思えた。