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kiss  作者: 神崎みこ
本編
4/10

4

「珍しいな」


突然彼の家へ行っても、当然社会人である彼が所詮高校生の帰宅時間に在宅しているはずはない。誰もいない部屋に黙って上がり込み、適当に彼の集めた本を読んでいた私に第一声がかかる。


「そう?」


時期を置かずにやってきたことなのか、こんな時間からのこのこと上がり込んでいることなのかわからないけれど適当に相槌をうつ。

先ほどから、同じページが開かれたままとなった小説を思いきり良く閉じる。今の私には一文字だって入ってこない。


「どうする?」


私の様子などおかまいなしに寝室の方へと親指を向ける。

つまり、そういうことだ。

おかしなことをしている、という自覚はあるが、だからといって止めることはできないでいる。


「ん……」


暗黙の了解のようにそのまま寝室の方へと転がり込む。さっさと着ているものを脱いで一人でベッド中に潜り込む。それに習って彼も黙って私の横へ入り込んでくる。


彼の手が触れる。


いつもは暖かいと感じていた彼の手がとても冷たい。

別に、私の中で何かが変わったわけでもないのに、どうしてそんなふうに感じてしまうのかがわからない。

彼とは違う男性と、ただ二人きりになっただけのこと。

私はきっと自意識過剰で、ただの「先生」が私に特別な感情を抱くはずもないというのに。

大好きな人と一緒にいるはずなのに、思考は別の人に支配される。しかも、知覚してからわずかしかたっていない人間に。

まるで機械仕掛けの人形のようにぎこちなく応える。

不安がせりあがる。

彼が誰を好きだとしても、かまわないと思っていた。

なのに、と、ちらりとよぎるのはどちらの顔かもわからなくなっていく。

この世で一番彼の側にいられる行為だと言うのに、ただそれだけでよかったはずなのに。

涙が出そうになって思わず彼にしがみつく。




「調子悪いのか?」

「べつに……」


いつものようにタバコを吸いながらちょっとした雑談を交わす。


「べつに、か。それ雅の口癖だな」


曖昧な笑顔を浮かべる私の髪を掬う。薫さんに近付きたくて必死で伸した髪を彼は愛おしそうに撫でる。まるで誰かさんの代わりのように。

ぞくりと背筋に寒いものが走り、思わず彼の手をかわす。


「帰る、から」

「もう?」

「いつもそんなもんでしょ」


乱雑に脱ぎ散らかした制服を再び身に纏う。そういえば制服でやってきたのは初めてかもしれない。

急いで身支度をする私を黙ったまま見つめる彼は、次のタバコに火を付ける。

制服のほこりを払い、リボンを確認する。

これ以上ここにきてはいけない、そんな思いに駆られるのはいつものこと。だけど、今日はいつもよりずっとずっと強く、後悔の二文字が浮かぶ。

何も得られるものはない。

わかりきっていたことを突きつけられる。

彼と一緒にいる安心感も、なにもかも、私には手が届かない。憐憫にも似た気持ちが湧き上がって膨らんでいく。

悲劇のヒロインのような気持ちに浸りきり、けれども自業自得だと別の私が嘯く。

「彼」は何を言いたかったのか。

けれども、汚い自分が近づいてはいけないような気がして。

ぐるぐると思考が空回りする。


「雅?」


後ろから声をかけられ慌てて彼の方へ振り向く。

ここは彼の家だというのに、どうして知り合ったばかりの先生のことがちらつくのか。

接触した時間はごく僅かだというのに、いつの間にか深いところまで侵食している。そんなことにも気がつかずに、私は足りない思考で思わず今まで蓋をしていた「事実」を口にする。


「言えばよかったのに」

「は?」


唐突に沸き上がった衝動は、こんな関係に疲れきっていたからなのか、先生のせいなのか。

衝動のままに言葉が暴走する。


「そんなに薫さんのことが好きなら言えばよかったのに!」

「おまえ……」


まさか私が、彼が薫さんのことを好きだということを知っているとは思わなかったのか、タバコを持つ手が止まる。厳しい表情で眉根を寄せこちらを睨み付ける。

彼が口を開こうとした瞬間に声をかぶせる。


「ガキがしった風な口を聞くな!でしょ」


目を丸くして私を見つめる。


「前に聞いたわよ、そんなこと。ええ、わからないわよ、ガキの私を身代わりにして欲求を発散させているような男のことなんて」

「身代わりって」


呆然としたまま二の句がつげない彼をそのままに、言いっぱなしで部屋を飛び出す。

もう二度と来ちゃだめだ。


いつもそう思うのに、それでも未練がましく、ポケットにいれた合鍵の存在をそっと確認する。


もう、戻ってはいけないとわかっているのに。







「先生?」


中途半端なまま一週間が過ぎ、どういうわけか私はまた先生の根城に足を運んでいた。

彼の部屋へも行かず、だからといって何をするわけでもなくだらだらと過ごす日々はやけに時間が経つのを遅く感じた。

言ってはいけないことを口にした自覚はある。

けれども、気がつかれていないと思っていた鈍感さにも腹が立っている。

何もかも自分勝手だ。

けど、と、立ち止まったまま思考すら停止している。

彼のことを考えながら、それでもここに来てしまった理由もわからない。

わからないことだらけで、許容量の小さな私にはいっぱいいっぱいだと言い訳をする。


「……宮下さん」


再びゴミが散乱する部室を見渡す。


「とりあえず、ゴミはゴミ箱に入れたらいいと思うんだけど」


いくつかを拾い上げ、置物のようなゴミ箱へと放り込む。


「ごめん」


あまり悪いとは思っていない風な先生が、軽い返事をする。


「あ、ジュースでも飲む?」


無言で頷くと、やはり冷えすぎた缶を差し出された。

一口飲むと、飲みなれていない炭酸が口の中にひろがっていく。


「で、どうしたの?」


椅子に座り、ちびちびと飲料水を飲んでいる私に先生が声をかける。

前回一瞬だけ抱いた不安定な雰囲気はなく、どこまでも穏やかな先生に笑顔を向けられる。どうして、こんなにも凪いだ気持ちでいられるのかがわからない。

彼と一緒にいるときは、きりきりとした気持ちに振り回され、ジェットコースターにでも無理やり乗らされたような気持ちでしかいられない。

好きだ、という気持ちは変わらない。

けれども、少しだけその気持ちに穴が開いてしまったかのような気分だ。


「どうしたというわけでもないんだけど」


曖昧に、自分ですらつかめない気持ちを言語化できるはずもない。

深く追求することはなしに、先生は黙ったままパソコンに向き合い始める。


「先生、それ、日本の鳥?」


やけにきらきらした青い鳥が映った画面を指差して尋ねる。

好奇心が上回り、デスクトップの画面を眺めている先生の後ろへと歩み寄る。

ちょうど、先生の頭が視界に入り込む。なんとなく嬉しくて、気分が少し浮つく。


「日本の鳥って、これカワセミだけど、知らない?」

「知らない」


ふるふると頭を振る。

聞いたことはあるような気もするが、その単語と写真の生物がつながらない。

そもそも、日本には地味な鳥しかいないと認識していた。


「いやぁ、知らないって。現代っ子?都会っ子?」


頭をかきながら、私の顔と写真を交互に見比べる。

その距離が随分と近いことに気がつく。

どきり、と心臓の音が響き、思わず半歩後ずさる。


「宮下さん?」


訝しい、といった顔をして先生が私を見上げる。

右手をぐいとつかまれる。

反動で、左手に持っていた缶が滑り落ちていく。

金属質な音を上げ、中身の液体が弧を描くようにして拡がっていく。

距離がゼロになった、と思った瞬間、空いた手で先生を平手打ちしていた。


「ごめん」


硬質な音が響き、頬を押さえた先生が情けない顔をする。


「どうして……」


その疑問は、先生に対するものでもあり、自分に対するものでもある。

反射的に体は拒否したものの、自分自身はそれほど不快に思ってはいない、という事実に対して。

そして、知り合ってほとんどたっていない自分にそんなことをしでかした先生に対して。

同じような接触の仕方をしでかした誰かさんを思い出す。あの日を境に、私は彼を意識してしまった。


「いきなりこんなことするつもりじゃなかったんだけど」


戸惑いを隠せない顔をする。


「けど、あの……」


何かを言いたそうにしながら口ごもる。

先生は、しでかした行為に反省はしているけれども後悔はしていないようにみえた。

私の希望的観測なのかもしれないけれど。

沈黙に支配され、どうしていいのか一層わからなくなる。

怒りに任せて先生を詰ればいい。そう思うけれども、私の中でその感情は突出していない。

あの時のような感情の波に飲み込まれ、どうしていいのかがわからないほど暗い気持ちを抱いてもいない。

どこかで受けいれてしまっている。

わけがわからなくて、その気持ちをどう名づけていいのかもわからない。

ぐらぐらと不安定な感情は何も答えを出してくれることはない。

混乱したまま、私は結局逃げ帰るようにして部室をあとにすることしかできなかった。


彼の家へとむかおうとしていた足を必死の思いで止める。

鞄の中にある鍵を確認する。

握り締め、そして再びそれを鞄の奥底へと仕舞い込む。

深呼吸をして、私は自分の家へと歩き始めた。


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