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たとえ、幾度も肌を重ねたとしても伝わらない思いがある。そんな簡単なことに、気がついてしまったのは少し前。触れられるのはその身体だけ。私の気持ちも、あの人の気持ちも、決して交わることはない。
それでもいい、と、思っていたのは最初から。
あの人が、どういう気持ちでこんなことをしているかだなんて、嫌になるほど知っていた。
それでも、あっさりと切れてしまいそうな絆でも彼とつながっていたい。
その気持ちだけは、本物だったから。
「雅?」
「なんでもない……」
いつものようにただ彼が満足するだけの行為を終え、身支度を整える。
こうやって彼の部屋に上がりこむのは初めてではない。もう数え切れないほどこうしてベッドの上で「会話」を交わしている。
裸のまま、片方の手を枕に寝転がっている彼が煙草を口にする。
「帰るから」
「……そう」
彼の部屋へ泊まることはない自分。
彼もそれを引き止めることは決して無い。これは私が決めたルール。朝まで彼と過ごしてしまったら、余計な期待をしてしまいそうになる。
それでも叶う事の無いその願い事は、私の胸のうちで小さく燻りつづけている。
「じゃあ……」
そう言って彼のほうを振り返ると、何を言うでもなく煙草をくわえたままこちらを眺めていた。
「またね」
小さく頷いた彼を確認して、安堵する。
また、ここに来てもいいのだと。
玄関のドアを閉め、受け取った合鍵で鍵を閉める。
カチリと鳴った金属の音が寂しくて、泣かないようにじっと拳を握り締める。
――もうここに来るのはやめよう。
繰り返し思うけれども、気がつくといつのまにか合鍵を握り締めている。彼の方も、いつも突然やってくる私を拒む事はしない。それだけが私が他の人よりも近くにいられるという証拠のように思えて、ずるずるとこんな状態まできてしまった。口に出してみれば、誰からも「都合のいい女」だと窘められるに違いないのに。
夜の一人歩きもすでに慣れたものだ。
深夜だとはいえ、繁華街に程近いこの通りは人通りもそれなりに多い。行き交う人々の波を掻き分け、帰り道を急ぐ。
無言でただひたすら足を前に運んでいたら、突然右腕を捕まれた。
予期せぬ出来事に咄嗟に対応できずにいると、振り返ることもできない私に向こうから声がかかる。
「おまえ、宮下雅だな、一組の」
「一組?」
唐突に高校のクラスのことを言われ、慌てて振り返る。
そこには、驚いた顔をした眼鏡の男が立っていた。
「誰?」
「誰って……。おまえの高校の教師だろうが」
「先生?」
こんな人いたかしら、と記憶を引っ張り出してみる。
どうしても思い出せないといった顔をしていたのか、溜息をつきながら彼のほうから答えてくれた。
「一年の国語担当で、二組の副担任やっている山崎だけど、知らない?」
私の腕を掴みながらも困った風な顔をしている。
「ごめんなさい、知らないかも」
がっかりしたような自称先生は深く溜息をついた。
「そんなに俺って目立たないかな……」
「いえ、そんなことはないと思いますが」
別に、とりたてていい男というわけではないけど、まあ、普通の好青年といえるこの人ならば、年頃の女子高生が騒いでいてもおかしくはない。大人であるというだけで未成年で形成される集団の中では異質なものだ。ただ、残念ながら私がそう言ったことに興味がないだけで。
「あの、何か御用ですか?」
彼は途方にくれてもなお私の腕をつかんだまま。いいかげんこの停滞状態から解放されたい。
「御用って、こんな時間に未成年が歩いてちゃだめだろう」
「ああ、補導ですか?」
面倒臭い、そう声にださなかっただけましかもしれない。それにしても、最近このあたりでふらついているうちの生徒が多いと、苦情でも来たのだろうか?こうして先生が夜回りをしているなんて。だからといって、これではあまりにも運が悪いではないか。何もしていなくても、こうやって捕まってしまったら親に連絡が行くかもしれない。そうしたら彼のところへ気軽に行けなくなるかも、なんてたぶん目の前の先生には想像もつかないことで悩んでいたら、慌てて先生が否定に入る。
「や、違うって。俺は偶然見かけただけ」
偶然、偶然ですか。そういえば飲み屋なんかも近いから、そこらあたりでプライベートを楽しんでいてもおかしくはない。少しだけ安堵する。
「職業柄見逃せなくて、声をかけたんですね、先生」
「まあ、そういうことになるけど」
今時ないぐらい熱心そうな先生は頭を掻きながら言葉を濁している。
「宮下さんはどうしてこんなに遅い時間にこんなところにいるの?」
「親戚の家へお使いに行ってたんですよ」
まるででまかせだけと、しれっとそんな言葉を吐ける程度にはすれてしまっているのかもしれない。
「お使いって、こんな時間にか?」
「ええ、遅い時間にしかいない人ですから」
できるだけにこやかに、相手から開放されるべく会話を続ける。
「それにしても、女の子がこんな時間に……」
「先生が引きとめたらその分遅くなりますけど」
気弱そうな人にはこれぐらい言っても大丈夫だと判断してみる、案の定彼はうっかりその言葉に納得している。
「そうか、そうだよな。遅くなっちゃうよな」
「はい、ですから……」「俺が送っていくよ!」
私の引き際の言葉と、彼の明るい宣言の言葉が重なる。
いいことを思いついたとばかりに、彼はニコニコしている。
その笑顔につられ私も思わず微笑み返してしまう。それを同意と受け取ったのか、次のステップへと進んでいった。
「じゃあ、案内して、宮下さん」
「あの、その前に放してくれると嬉しいのですが」
今気がついたかのように、ずっと掴んだままだった腕を放す。
「ごめん、痛かった?」
「いえ、そういうわけでは」
どこかずれた受け答えをする彼はあくまで真剣な表情をしている。
「うーーーーん、これならいい?」
そう言って自然な動作で私の手を握る。
後ろから腕を捕まれた先程の出来事よりも驚いた私は、口をあけたまま声もだせない。
私の手よりひとまわり以上大きいだろう手にぎゅっと握りしめられる。そういえば男の人と手を繋ぐなんてこと初めての経験だと、先ほどまで耽っていた彼との行為を思い出し心がチクリと痛む。
「こっち?」
ニコニコしながら彼の指差す方向へただ頷く。
先生の手は暖かくて、ギスギスしていた私の心には優しすぎた。
何も話すことができなくて、ただ先生の話を黙って聞いていた私。
気が強くていつもならこんな手を振り解くはずなのに、そうできなかった私。
気がつかない内に疲弊していた心に、先生の暖かさが入り込む。 こうして一年担当の国語教師山崎先生は私の記憶に強く刷り込まれる事となった。