涙の音
振り向き様、突然彼はこう言ったのだった。
「俺は、凡人で終わりたくないんだ」
私は笑った。
何を言う、と。
「それで?」
含み笑いの私は問う。
「バンド」
「は?」
「俺は歌を歌う」
ぶわっと強い風が吹いて、私のスカートが勢いよく捲れ上がった。
「…可愛いパンツ」
彼は、いつものように泣きそうな顔で笑った。
「でしょ」
桜はもう八分咲きで、ひらひらと小さな分身を散らしていた。
そんなふうに、突然の思いつきで彼が歌を歌い始めたのは去年の春の事だった。
ひどいものだ。
何もここまでやじらなくてもいいのに。
小さな真っ暗なハコ。田舎のライブハウスで、彼は今日も歌ってる。自作の、正直私にもよく分からない歌を。
彼の後ろでは、冴えない風貌のドラマー。両隣には、これまた冴えないギターとベース。
見ていて痛々しい。
飛び交う罵声。彼の歌を罵る人々。
私はハコの隅っこに立って、じっと固まっている。まるでそこから一歩も動けないかのように。
ステージ代を稼ぐために、彼がどれだけバイトをしているのかを、私は知っている。
ただ、叫んでるみたいな歌声。
正直上手くない。
だけど私の耳は痛くない。
今日も彼は未完成な歌声で、世の中の不条理を歌ってる。ここに居る人達に語りかけるかのように。
決して届かない。
「面白いテレビないね」
私はぼんやり呟く。
隣には、私と同じ体制で彼が寝ている。
「なんで付き合ってくんないの?」
彼はボサボサのパーマを当てた髪を、手でくしゃくしゃとしながら言った。
「付き合って、別れて今に至るんでしょう」
私はくるりとうつ伏せになって、枕に顔を埋める。彼のシャンプーの匂いがする。
「いっつもそれじゃん。なんか違う切り返しないの?」
彼は起き上がり、トランクス一枚のままMDコンポの方へ、のそのそ歩いていく。
殺風景な部屋。
MDコンポとギター、テレビ、ベッド、ゴミ箱。目につく物はそれぐらいしかない。四畳半の部屋を、切れかけの電球がチカチカ照らしてる。
「あんたみたいな、カッコ悪いやつと二度と付き合いたくない」
私はボソッと呟く。
「…あっそ」
彼はコンポにMDを入れ、スイッチを押す。その骨張った指先を、私はじっと見つめる。
薬のやり過ぎで痩せ細った体。肋骨が浮き出てる。肌の色は蒼白いし。彼は本当にカッコ悪い。
「そんな歌じゃなくて、もっと静かな歌かけてよ」
私は起き上がり、ブラジャーも付けないまま煙草に火をつける。
「静かな歌なんてないよ」
彼もまた、ジッポで煙草に火をつける。
「じゃぁ歌って」
私の声は冷たい部屋に妙に響いて、何処かへ吸い込まれていった。
ぱっと私と目を合わせた彼は、嬉しそうに微笑んだ。薬漬けになっても、相変わらず幼くて泣きそうな笑顔。
それから彼は、ギターを弾きながら悲しいラブソングを歌った。未完成な歌声で。
「おい、あんた」
真っ暗なライブハウスで、今日も彼の歌声が響いている。
「はい?」
私は見知らぬ男に突然呼び止められた。暗くてそいつの顔はよく見えない。
「あんた、あいつの彼女だろ?」
そう言って、そいつはステージに立つ彼を顎で示した。
「…はぁ」
否定するのが面倒で、思わずそう答える。
「俺、あいつの古いダチ」
そいつは吸いかけの煙草を床に落として、スニーカーで踏みつけた。
「…そうですか」
私はコートのポケットから煙草を取り出す。くわえた煙草にそいつが火を付けてくれる。
「あいつ、あのままだと死ぬんじゃない?」
そいつはぶっきらぼうに言った。
「…薬のこと?」
「あぁ」
私はステージに居る彼を見つめた。この数ヶ月で一体何キロ痩せたんだろう。頬は痩け、ただでさえ小さい顔が更に小さく見える。
「いつも来てくれてるんですか?」
「俺?」
「うん」
「…時々ね」
こんな田舎で歌を歌う事に、一体なんの意味があるのだろう。誰もちゃんとは聴いてくれなくて。何か言われたと思えば罵りばかりで。
多分彼にもそんな事の意味は分かっていないんだと思う。
「ありがとうございます」
私はその男に頭を下げた。
男はそれ以上何も言わなかった。
「…何で突然カレーなの?」
彼はキッチンに立つ私を不思議そうに見ている。
「だってあたし、カレーしか作れないもん」
料理をするのなんて何年ぶりだろう。がらにもなくエプロンなんて付けた私は、鍋をかきまぜながら苦笑いする。
「…俺、お腹すいてないよ?」
「いいから」
「…変なの」
「ほら、できたよ。お皿取って」
彼はしぶしぶ立ち上がり、私の方に歩いて来る。
「…料理なんて作らなくていいから、付き合ってよ」
「馬鹿」
彼のお皿にカレーを山盛りに入れる。
「そんなに!?」
彼は目を丸くする。
「残したら承知しないからね」
彼はブツブツ言いながら椅子に座った。
「あたし、ちゃんと最後まで食べるまで見てるから」
彼の向かい側に座り、私は頬杖をついた。
「…いただきます」
嫌そうに、ゆっくりスプーンを口に運ぶ。
「どう?」
「…まずい」
「やっぱり?」
「なんか水っぽいよ、これ。しゃばしゃばしてる」
彼は泣きそうな顔で笑った。
私も思わず笑った。
彼は文句を言いながら、その山盛りのカレーを最後まで食べた。
完食して、吐きそうになった彼に胃薬を飲ませて無理矢理ベッドに寝かせ、ゆっくりセックスをした。
また笑った。
今日も彼は歌っている。田舎の小さな、小さなライブハウスで。
沢山の罵声を浴びながら。
私は今日も隅っこでステージの彼を見ている。じっと、身動きひとつしないで。
「俺は…」
彼が突然喋り始めた。
客は一気にシンとする。
彼が今まで、ここで喋った事は一度も無かった。
「俺は正直、ここで歌うことになんの意味があるのかわかりません」
マイクから、弱々しい彼の声が響く。
「薬もやめられないし、いい歌も歌えないし」
客が彼の声を、こんなに静かに聴いたことがあっただろうか。
スポットライトに照らされた彼は、やっぱり痩せ細っていて、情けなくてカッコ悪い。カッコ悪い男だった。
「…だけど、昨日久々に飯食って元気出たんで、もうちょっとここで歌ってみようと思います」
そう言って彼が歌い始めたのは、あの時歌ってくれたラブソングだった。
そこに罵声はひとつも無かった。
彼は泣いていた。
泣きながら歌っていた。
歌声は最低で聴けたもんじゃなかった。
情けなかった。
だけど、私は泣いた。泣きながら笑った。彼みたいに。
彼の涙の音が、とても美しかったから。
最後まで読んで頂いた方、ありがとうございました。感謝、感謝です。