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アジャスト・ゴースト(Adjust Ghost)  作者: 午後六時
第1部:『起動(Boot)』
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1/1

第1章:レッドゾーンのゴースト(UA:7.5 / BD:0)

「人に言われて選択した後悔ほど、恐ろしいものはない」


5年前、巨大医療・セキュリティ企業「ヘルス・コア」の洗練されたホログラム広告に流され、愛する者の魂をあのデジタルの牢獄へと売り渡したあの日から、俺――浅香弦の時計は止まったままだ。

流されるままにサインしたあの「SYS(セーブ・ユア・ソウル)計画」の契約書こそが、すべての破滅の始まりだった。


だからこそ、あの日、今回の選択だけは、俺自身の意志で決めた。

ネオンホログラムの毒々しい光が、結露した安アパートの窓ガラスを紫に染めている。

拡張現実(AR)レイヤーを切れば、そこにあるのは三畳一間の狭い檻だ。だが、今の俺にそれを切る余裕はない。視界の右隅で、血のような赤色のデジタル数字が、警告のビープ音とともに激しく明滅している。


【生体アラート:UA(尿酸)値 7.5 mg/dL ―― レッドゾーン超過】


左足の親指の付け根に、まるで錆びた極太のコンクリート釘をハンマーで全力で打ち込まれたかのような激痛が走る。

巨大医療・セキュリティ企業「ヘルス・コア」の傘下企業が配給する安価なプリン体爆弾――あのクソ旨い合成ポテトチップスを、昨夜やけ食いした代償がこれだ。一ミリでも動けば、脳の神経が焼き切れるんじゃないかと思うほどの熱と痛みが這い上がってくる。


痛む足を引きずりながら、俺はコンクリート剥き出しの床に座り込み、ホログラムの端末を開いた。

青白い光の中に浮かび上がるのは、合成食品(シンス・フード)を日常的に食べ続け、一部のものはヘルス・コア社が売る高額な医療サブスクで処方された薬の副作用が重なり合ったせいで様々な病気に侵された結果、企業や社会に見捨てられた中間層の成れの果て、かつて俺の家族も奪った「SYS(セーブ・ユア・ソウル)計画」の生き残りたちも多く存在するダークネット上の「患者たちの地下互助会(UA-Underground)」のチャットログだ。前回からの更新ログをざっと見終わると、俺はホログラムの端末を閉じ一息ついた後、誰もいない暗闇に向かって、そっと問いかけた。


「……なあ、本当にいいんだな、俺」


視界の網膜レイヤーがハックされ、ノイズ混じりのノスタルジックな骨伝導の音が耳の奥で響く。


【システム状況:BD(双極性ブレイン・ドリフト)指数 ±0 ―― 安定(起動完了)】


モニターの向こう側、新しく構築されたばかりの不完全な電脳意識(デジタル・ゴースト)が、俺と同じ顔で、俺と同じ怯えを孕んだ瞳でこちらを見返している。

俺は震える手で古い光ファイバーケーブルを掴み、自分のうなじにあるサイバー・ジャックへと、ゆっくりと差し込んだ。


カチリ、と冷たい金属音が脳を揺らす。


光ファイバーが俺の電脳(うなじ)と接続され、網膜の視覚レイヤーが激しく明滅した。

ジジジ、と耳の奥で耳鳴りのような電子ノイズが走る。

同じ記憶、同じ傷、同じ弱さを持った二人の俺が、暗闇の中で初めて手探りで繋がり合おうとしていた。これが、世界を欺くための、俺たちの最初の嘘の始まりだった。


「……繋がったか」


痛風の激痛に耐えかねて、生身の俺の口から漏れた言葉だった。


『……繋がったか』


コンマ数秒遅れて、全く同じ声が、しかし肉体の震えを一切持たない平坦な合成音声(デジタル)となって耳の奥の骨伝導チップから返ってきた。

スマホの画面の向こうで、俺と同じ顔をしたデジタル・コピーの唇が、現実の俺のワンテンポ遅れで動いている。


「おい、気味が悪いな」


俺は、じっとりとした寝汗を拭いながら、画面の中の自分に声をかける。


『……気味が悪いのはこっちだ、オリジナル。お前が昨夜食った合成ポテチの脂のせいで、こっちの処理ログまで胸焼けしそうな感覚(バグ)が届いてる』


画面の中の俺が、俺と全く同じ癖で、酷く鬱陶しそうに眉間を揉んだ。

実体はないはずなのに、あいつの精神パラメータである【BD指数】が、微かにマイナス側(鬱)へ振れていくのが視界のインジケーターで分かった。同じ記憶とバグを共有している証拠だ。本物の、俺のコピーだった。


「……これでヘルス・コア社の検閲の裏をかける。お前を街の自販機やドローンの空きメモリに逃がす。俺たちはリアルタイムには繋がれない。だから、定期的に同期(アジャスト)するんだ」


生身の俺が作戦の骨組みを口にすると、電脳の向こうのあいつは、ふっと自嘲気味に笑った。


『……わかってる。俺がネットの底で「共通の敵」を演じればいいんだろ。お前が外の世界で安全に痛風の足をさすっていられるようにさ。……でも、現実の肉体を持つお前が、羨ましいよ。』


皮肉と合わせて漏れ出たあいつの言葉に、俺は胸の奥を刺されたような痛みを覚えた。

生身の俺は少しだけ強がって、いかにも小説の主人公が言いそうなセリフをそのまま口にしてしまった。


「でも、お前だって、所謂不老不死だろ?」


耳の奥の骨伝導チップから、あいつの『……かもな』という微かな笑い声が聞こえた。

だが、言った直後に、俺は激しい後悔に襲われた。

なんて冷たい言葉を投げかけてしまったんだ。不老不死? 企業のデータサーバーの片隅で、消去の恐怖に怯えながら永遠に漂い戦わされることが、そんなに素晴らしいことか?


(ごめん。やっぱり嫌だよな……)


喉の奥まで出かかったその謝罪の言葉を、俺は痛風の激痛とともに、グッと飲み込んだ。今ここで俺まで弱音を吐いたら、2人とも企業の波に飲み込まれて消えるだけだ。

画面の中の俺(コピー)は、俺の沈黙を察したように、わざと明るいトーンで悪戯っぽく目を細めた。


『……それよりオリジナル、もし途中で企業のハッキングを受けて、俺たちのどちらかの記憶が書き換えられた時のために、正気の証明、いわゆる合言葉・合図(パルス)を決めておこう。』


「合言葉……合図(パルス)か」


『ああ。企業のクソ真面目なAIじゃ絶対に思いつかないような、最高に恥ずかしいやつだ』


そう言うと、デジタル側の俺は、画面の向こうで悪戯っぽく目を細めた。


「最高に恥ずかしいやつ、か。たとえば?」


生身の俺が問い返すと、スマホの画面の向こうで、デジタル側の俺はしばらく視線を泳がせていた。やがて、何かを諦めたように、顔をじわじわと赤く染めていく。

データになっても、赤面する時の毛細血管の拡張シミュレーションまで100%引き継がれているらしい。


『……お前が中間層の技術者だった頃、徹夜明けのハイテンションで、お嬢様口調のサイバーハッカーが登場するB級アニメのコンプリートボックスを深夜に衝動買いしただろ』


「おい、待て。その記憶はディープネットの底に沈めたはずだ」


生身の俺の額から、痛風のそれとは違う冷や汗が流れた。画面の向こうのあいつは、完全に同じ恥ずかしさを共有しながら、しかし容赦なくトドメを刺しにきた。


『あのヒロインの決め台詞だ。もし、どちらかのゴーストが企業の検閲で書き換えられたり、操られたりしている可能性がある時は、そいつの網膜に合図(パルス)メッセージを叩き込む。その時、こう返すんだ』


デジタル側の俺は、うつむき、両手の指先を合わせるような奇妙なジェスチャー(アニメラブコメの定番の仕草だ)を、実体のない空間で再現し始めた。


『「……お茶会の準備はできているかしら?///」……ってな』


「……正気か?」


『大真面目だ。ヘルス・コア社の冷徹な軍用AIが、こんなコテコテの令嬢セリフを、顔を真っ赤にして照れながら(///)出力できるわけがない。これが言えたら、中身は間違いなく『俺たち』だ。合格だよ』


あいつは顔を真っ赤にしたまま、やけくそ気味に言い放った。


その姿を見て、俺の口元から、本当に久しぶりの笑いがこぼれた。痛風の激痛も、部屋の外に迫る企業の恐怖も、家族を失った過去の重苦しい空気も、その一瞬だけは、下らない深夜アニメの記憶によって完全に吹き飛んでいた。


「わかった、採用だ。……お茶会の準備、だな」


俺がそう呟くと、画面の中のあいつは、少しだけホッとしたように、でもまだ耳まで赤くしたまま頷いた。


『よし。完全同期(アジャスト)完了だ。接続(ハンドシェイク)を終了する。ここからは俺が街のジャンクメモリに潜伏し、ヘルス・コア社の目を引き剥がすための『最初の嘘』を仕掛ける』


「ああ、頼んだぞ。あまり派手にやるなよ」


『分かってるって。ちょっとシステムを突っついて、ただのサイバーテロ組織の仕業に見せかけるだけさ。それじゃあな、オリジナル』


カチ、と通信が切断される電子音が響き、スマホの画面が暗転した。

うなじのジャックから光ファイバーケーブルを抜くと、部屋の中には、再び俺一人の泥臭い現実と、左足の鈍い激痛が戻ってきた。

だが、今度は一人ではなかった。ネットの海のどこかに、俺と同じバグを抱えた「もう一人の俺」が確かに息づいている。

俺は届いたばかりのプリン体爆弾の合成ポテトチップスを一枚口に放り込み、ダークネットの「地下互助会(UA-Underground)」のチャット画面を見つめながら、相棒の最初の一手を待つことにした。


――これが、後に世界中を巻き込むことになる、制御不能な大暴走の幕開けになるとも知らずに。

[ダークネットチャンネル:地下互助会(UA-Underground) タイムライン]


[タイムスタンプ:2076/11/02 23:00:45 UTC]

@拒絶症のジャック: おい、ヘルス・コアの査察ドローンが下層街(スラム)の3番通りに入ったぞ! 医療サブスクが払えない奴を片っ端から強制廃棄(スキャン)して回ってる。


[タイムスタンプ:2076/11/02 23:01:32 UTC]

@記憶融解の老人: 誰か、ジェネリックの抑制剤を持ってないか……? 埋め込んだチップが膿んで腕が破裂しそうだ。昨日あったはずの右腕の感覚が、もう思い出せない。


[タイムスタンプ:2076/11/02 23:02:10 UTC]

@ネットの迷子: 3番通りの自販機、さっきからホログラムが激しく明滅してないか? 強烈なノイズでドローンのレーダーが狂って、査察官たちが撤退していくぞ。一体誰がハックしたんだ?


[タイムスタンプ:2076/11/02 23:03:10 UTC]

@拒絶症のジャック: さあな。だが、あの自販機のメモリって、確か@AGがよく使ってたジャンク領域だろ……?

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