隣のベッド
注意:自殺に言及する箇所があります。警察に関する描写は記憶をもとに書いたので、間違っている部分があるかもしれません。実在の人物、事象とは関係が無いフィクションです
わたしの姉は頻繁に自殺企図をした。
方法は主に服毒である。
毒と言っても、農薬をゴクゴク飲むとかではない。薬局で買ってきた酔い止めを10箱飲むとか、処方薬をいっき飲みするとかだ。
現代日本においてその方法で死ぬのはたいへん難しい。
昨今の薬はどれも凄く安全なのだ。
企業努力にはいつも頭が下がる。
その日も自宅の踊り場でうつ伏せに倒れている姉を見て、特には驚かなかった。
糞を漏らしているのが汚いなぁと思ったぐらいだ。
こんなに死にたいんだから、このまま死なせた方がいいのかもしれない。そう思って前から後ろから吐く姉のそばにしばらく座っていると、「Aちゃん(わたしのことだ)、救急車呼んで」と姉が言った。
救急隊員の人たちは嫌な顔一つせず、糞とゲロまみれの姉を担架に乗せ、病院へ連れて行ってくれた。
さてここで豆知識なのだが、自殺未遂をすると病院に警察の方々がやってくる。
大体は2人組だ。初めて聴取を受けたときはたいそう緊張したが、今では慣れたものだ。
その日は白髪の目立つ60代ぐらいのおじさんと、30か40か、そのような感じの男性警官2名が質問にやってきた。
「発見した時刻」「発見時の様子」などをこまごまと聞かれる。このとき大学ノートにシャープペンシルでメモをするのがいつもおもしろい。警察官と言えば、ちんまりした手帳にボールペンで書くのだと思っていた。
時刻に関する質問が多いのは少し困る。「それは何時頃でしたか?」と聞かれても、あまり時計を頻繁には見ないし、見ても忘れる。
途中、病院スタッフの方が、ジップロックに入った糞まみれのジーンズを持ってきて、「こちらで処分しておきましょうか?」と訊ねた。
ジーンズはすそから切って脱がす。
服を駄目にしてしまったから申し訳ないというようなことを言われたが、そんなのは少しも申し訳なく思う事ではない。ばっちいものをわざわざ処分してくれるとは、どれだけ親切なのだろう。
ありがたかった。
情けなかった。
姉のためにたくさんの人が動かされて申し訳なかった。
聴取も終わり、胃洗浄されてスッキリした姉がぐっすり眠っているベッドの横に腰かけながら、できるだけ何も考えないようにした。
これから理不尽に父に怒鳴られる事とか、泣き喚く母を慰める事とか、今考えても仕方がない事とか、油断すると脳裏に過ぎる恐ろしい考えとか。
胃洗浄が失敗すればよかったのにとか。
いっそ死んでしまえばよかったのにとか。
そういう、恐ろしい考えが、考えたらいけない事が、脳を巡らないように、何も考えないように、とにかく思考を回さないように、よくないことを考えないようにつとめた。
父は救急車を呼ぶと怒る。
近所の人に「また〇〇さんのお宅よ」と噂されるのが嫌なのだそうだ。
よく怒鳴る。ときどきぶつ。
でも誰も信じてくれない。家族以外には好人物なのだ。
「おおげさに言っているだけじゃないの?」と言われてからは誰にも相談するのをやめた。
母は泣く。
「どうして私がこんな目に」「私の育て方が悪かったんだ」「どうして私の人生はうまくいかないの」
これが約2時間続く。
甘いものを食べさせ、背中をさすり、添い寝をして、眠りにつくまで励まし続ける。
礼を言われた事はない。
わたしが悲しい時、慰めてくれたことも無い。
ふと、カーテンで仕切った隣のベッドから、男性の声が聴こえた。
「死にたかったんでしょ。だからやっちゃったんでしょ」
おや、と思った。
奇遇なこともあるものだ。隣も自殺未遂らしい。
おまわりさんらしき人が話しかける声が聴こえる。
ちょっと笑ってしまった。
みんな考える事は一緒だなあ。ご愁傷さまです。
カーテンの向こう、居るかどうかも分からない付き添いの人に手を合わせた。
それから五年後、わたしは自宅のベランダから飛び降りた。
22年1月の夜8時55分ごろ、寒い日だった。
その日のことをよく覚えていない。
確か、姉が泣いていた。職場でいじめられた、A子が酷い事を言った、人生が嫌だというようなことを言っていた気がする。
三角座りで泣きじゃくる30を超えた姉の背を、母が幼子にするように、慈しみを込めて撫でているのを見て、そこから先が思い出せない。
気が付いたらベランダに居て、下を見ていた。暗くて何も見えなかった。
柵をこえて飛んだ。
落下中も人間は思考するというのは本当だった。落ちながら怖いなあと思ったのを覚えている。
背中に衝撃を感じた後、咳き込んだ。息ができない。遅れて変な悲鳴が上がった。凄く痛いと勝手に声が出るらしい。
救急車の隊員さんたちは、やっぱり信じられないぐらい優しくて親切だった。
わたしは終始「うっかりしてしまった」という態度を貫いた。
「夜分遅くにこんなくだらない事で出動させてしまって、もう本当にごめんなさい」
「昔からおっちょこちょいなんですけど、とうとう人様にこんな迷惑までかけて。恥ずかしい限りです」
レントゲンを撮った。寒くて厚着していたせいか、折れている骨はなかった。灌木で右足を深く切った以外、大した外傷はなかった。
「猫が見えたんです。茶トラの。昔うちで飼っていたんですけど、当時は放し飼いにしていて。気がついたらご近所のSさんの子になっちゃって。その子が久しぶりに通ったものだから、思わず身を乗り出したら、こんなことになっちゃって。ほんとバカです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
やってきた警察のおじさんに、苦笑しながらそのように語った。
「自分で飛び降りたんじゃあないの?」
「まさかあ。ただのドジです。そんな怖い事できませんよ」
「本当に違うの?」
「違いますよお。下、コンクリートなんですよ?落ちたら痛いって分かるじゃないですか。それをわざわざ自分から落ちて、痛い思いをしようなんてしませんよ」
大学ノートを広げたまま、おじさんは真っすぐわたしの目を見て言った。
「何もかも嫌になって、痛くてもなんでも、何もかもどうでもよくなってしまったんじゃないの」
ふと既視感を感じた。カーテンで仕切られた向こう。たしかあそこにはわたしより先に誰かが搬送されていた。女性と、付き添いの人が、
「死にたかったんでしょ。だからやっちゃったんでしょ」
警察のおじさんは、わたしの目をまっすぐ見ていた。
まなざしに労りを感じた。ただの、わたしの願望かもしれない。
ただの事実確認だ。
事実。
事実を見てくれる人が居た。今日会ってもう二度と会わない赤の他人の方が、家族よりも真剣にわたしと対話してくれたことに、深い感謝の念を禁じ得なかった。
絶対に涙がこぼれないように目を大きく開いて、にっこりして言った。
「猫が居たんです」
カーテンの向こう、とっくに絶望している自分がもしかしたらそこにいるのかもしれないと思いながら、元気になったら家を出て行こうと思った。
読んでくださってありがとうございました




