鱗粉の伝言
窓ガラスに張り付いた蛾を、私はじっと見つめていた。
深夜二時。部屋の明かりに誘われてきたのだろう。灰色の翅には複雑な模様が浮かび、まるで古い樹皮のようだった。蛾は微動だにせず、ただそこにいた。
「また来たのね.....気持ち悪いわぁ......」
私は呟いた。この蛾——あるいは同じ種類の蛾が、三日連続でこの窓に現れていた。偶然だと思いたかった。でも、翅の模様の配置、左前翅の端にある小さな欠け、それらは確かに同じだった。
祖母の葬儀から帰ってきた夜、最初にこの蛾を見た。祖母は生前、蛾が大嫌いだった。
「あれは死者の使いだよ。羽を閉じて窓に止まってる時のあの不気味さ、あなたには分からない?」
と、よく私に話していたものだ。迷信深い人だったから、私は聞き流していた。
けれど今、窓の向こうで静止する蛾を見ていると、祖母の声が蘇る。
蛾がゆっくりと翅を開いた。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。翅の模様が、一瞬だけ、人の顔に見えたのだ。
私は思わず後ずさりし、乾いた音を立ててフローリングを踏みしめた。心臓が早鐘を打つ。幻覚だ。そう自分に言い聞かせる。深夜の疲労と、喪失感が作り出したパレイドリア効果——壁のシミが顔に見えるのと同じ現象に過ぎない。 私は恐る恐る、もう一度窓に近づいた。
蛾はまだそこにいた。 先ほどよりも羽を大きく広げ、腹部を窓ガラスに押し付けるようにしている。改めて凝視すると、その模様はやはり顔だった。それも、深く刻まれた眉間の皺、への字に結ばれた薄い唇……それは、私がよく知る「不機嫌な時の祖母」の顔そのものだったのだ。
「嘘でしょう……?」
声が震え、喉の奥から乾いた笑いが漏れた。 冗談がきついよ、おばあちゃん。あれほど嫌っていたものに、自分がなって現れるなんて。 祖母は生前、蛾を見るたびにヒステリックな声を上げ、時には殺虫剤の缶を振り回すこともあった。その必死な形相は、子供心に滑稽であり、同時に恐ろしくもあった。
「典子、入れて」
ふと、頭の中に声が響いた気がした。耳で聞こえたのではない。脳の奥に直接、粘り気のある意思が流れ込んできたような感覚。
コツン。
硬質な音がした。蛾が頭部をガラスに打ち付けた音だ。
コツン、コツン。
そのリズムは、祖母が生前、私が勉強をサボっていると感づいた時部屋のドアを叩く、あの苛立たしげなノックのリズムそっくり。
コツン、コツン、コツン……
小さな羽虫一匹が、部屋全体を支配するほどの圧迫感を放ち始めていた。
蛾の——祖母の顔をした模様が、じろりと私の目を見据えたように見えた。 ガラス一枚隔てた向こう側は、ただの夜ではない。死者の領域が、すぐそこまで迫ってきている。
「開けないわ」
私は無意識のうちに言葉を発していた。返事を待つかのように、蛾の動きがぴたりと止まった。
「……貴女は、『おばあちゃん』じゃないでしょ。そんな醜い姿で私の前に現れるなら、偽物よ。蛾は大嫌いだったじゃない。だから……開けてあげない」
その瞬間だった。 蛾が激しく翅を震わせ、鱗粉を撒き散らしながら、狂ったようにガラスに体当たりを始めたのだ。
バン、バン、バババババ!
小さな体からは想像もできない重い音が、深夜の部屋に響き渡る。まるで、ガラスを突き破ってでも、こちら側へ来ようとするかのように。
私は反射的にカーテンを引いた。厚手の遮光カーテンが、蛾の姿を完全に覆い隠す。けれど音は止まなかった。バン、バン、バン——。規則的な打撃音が、布越しに響き続ける。
息を整えようとソファに座り込んだ時、携帯電話が震えた。画面には「母」の文字。表示を見た瞬間、直感的に分かった。母にも何か起こっていると。
「もしもし……?典子?ごめんね、こんな夜中に……」
電話に出ると、母の声は疲れていた。
「ううん、起きてた。どうしたの?母さん」
「それがね、さっき変な夢を見て……お母さんが怒った顔で、あなたの部屋の窓を叩いてる夢。気になっちゃって……」
母の声が上ずっている。背筋が凍った。
「お母さん、生前よく言ってたでしょう。"死んだら必ず挨拶に行く"って。でもあの人、こういう風に来ることないよね……まさか」
母は自嘲気味に笑ったが、その笑い声は震えていた。
窓を叩く音が、ピタリと止んだ。
不気味な静寂。私は息を殺してカーテンの隙間から外を覗いた。蛾はいなくなっていた。窓ガラスには無数の鱗粉が張り付き、薄く人の顔のシルエットを作っていた。
「ねえ、聞いてる?」
「う、うん……ただの偶然じゃない?」
「……そうよね」
電話を切り、私は震える手で水を飲む。グラスを持つ手がカタカタと鳴る。テレビの横に飾られた祖母の遺影に目をやった。笑顔の写真。この人は、死んでなお、私を試しに来るのか。
グラスを置いた直後、部屋の照明が一瞬だけ明滅した。蛍光灯ではなく、LEDの新しい電球のはずなのに。停電かと天井を見上げると、そこには十数匹の蛾が円を描いて飛んでいた。驚愕と恐怖が入り混じったまま、私は悲鳴を上げた。
いつの間に入り込んだのか。換気扇か、エアコンの隙間か。それとも——。
蛾たちはゆっくりと高度を下げ、私の周りを取り囲むように舞い始めた。どの蛾の翅にも、祖母の顔が浮かんでいる。怒った顔、悲しげな顔、何かを訴えるような顔。
一匹が私の頬に触れた。鱗粉の感触がざらりと残る。
『まだね、言ってないことがあるの』
今度ははっきりと聞こえた。蛾たちの羽音が重なり合って、祖母の声になっていた。
『仏壇の引き出し。赤い封筒。あなただけに……』
そこまで聞いた時、玄関のチャイムが鳴った。深夜二時の、乾いた、電子的な音。この世の全ての恐怖が凝縮されたような、不快なチャイムの音だった。 私は身動きが取れなかった。部屋の中には祖母の顔を宿した十数匹の蛾が舞い、その羽音は、まるで悲鳴の合唱のように頭の中で響いている。 外には誰がいる?母だろうか?いや、母なら電話してきたばかりだ。
思考がまとまらない。息がうまく吸えない。床がぐにゃりと歪んだような錯覚に襲われる。
蛾たちの羽音が突然乱れた。
「まだ、聞いてね……!」「早く」「時間が……」
複数の声が重なり合い、混乱した囁きとなって渦巻く。その声には焦燥がにじみ出ていた。まるで、誰かに見つけられる前に、この秘密を伝えきらなければならないかのように。
『仏壇の引き出し。赤い封筒。あなただけに……』
最後のメッセージが、焦燥の中で再び強く響く。引き出し?赤い封筒? 私は恐る恐る首を巡らせ、仏間へと続く襖に目を向けた。
その瞬間、再び玄関のチャイムが鳴った。今度は少し長く、催促するように。 私はインターホンを無視した。誰であろうと、今はそれどころではない。この秘密——祖母が、死後まで蛾の姿を借りて伝えようとした、赤い封筒のメッセージの方が重要だ。
私は身をかがめ、頭上を旋回する蛾の群れを避けながら、部屋の隅にある仏壇へと向かった。 蛾たちは私を追尾するように、一緒に移動する。頬や首筋に、冷たい鱗粉の気配を感じる。
仏壇の引き出しは、祖母が亡くなって以来、一度も開けていなかった。鍵はかかっていないはずだ。
震える指で一段目の引き手を掴み、ゆっくりと引き出した。 中には、黒い線香の箱、仏花の造花、そして——。
そこにあったのは、予想よりもはるかに鮮烈な、紅い封筒だった。 結婚式の招待状のように濃い赤ではなく、まるで鮮血が染み込んだような、深く、陰鬱な紅。それは仏壇の荘厳な黒檀の中で、異様なまでに目を引いた。
私はその封筒を掴んだ。紙質は硬く、中には分厚い何かが入っているようだ。 その瞬間、頭上の羽音がピタリと止んだ。
私は一瞬安堵したが、次の瞬間に凍り付いた。 蛾たちが、今度は一匹残らず、紅い封筒めがけて一斉に降下してきたのだ。まるで、その封筒こそが蛾たちの目的であり、今や私から奪い取ろうとしているかのように。
蛾が群がり、視界を覆い尽くす。私は反射的に封筒を胸に抱きしめ、両手で顔を庇った。
封筒の外側に、無数の小さな体が這い回る音が聞こえる。 一瞬だけ顔を上げたとき、数匹の蛾が翅の模様で形作る祖母の顔が、私の耳元で囁くのが見えた。
『開けてはいけない』
さっきのメッセージとは正反対の言葉。封筒を開けさせまいとする強烈な阻止の意思。 しかし、私は紅い封筒の重みを胸に感じながら、考える。
「あなただけに」
この言葉が、私に選択を迫っていた。
私は意を決し、封筒の裏側、糊付けされた部分に爪をかけた。 封筒を開けるか、それとも蛾たちの警告に従うか。その決断の瞬間、玄関のインターホンが、再び鳴り響いた。
今度はチャイムではなく、まるで固定ボタンを押し続けたような、長くて耳障りな、警告音のような鳴り方だった。 そして同時に、封筒の裏側に、外側から液体が滲み出すのを感じた。
液体は温かく、粘り気があった。私は思わず手を離しかけたが、封筒は私の手のひらに張り付いて離れなかった。
赤黒い液体が封筒の縁から滴り落ち、畳に小さな染みを作る。それは血のようにも、古い墨汁のようにも見えた。
蛾たちが激しく羽ばたき、鱗粉の嵐が部屋中に舞った。目に、口に、鼻に入り込んでくる。咳き込みながらも、私は封筒を握りしめた。この中身を見なければ、決して終わりはないという確信があった。
玄関のインターホンは鳴り止まない。その音に混じって、今度はドアを叩く音まで聞こえ始めた。 音は徐々に大きくなり、ドア全体が震えているのが分かる。規則的で、執拗な音。
「開けなさい」
扉の向こうから、低い男の声が聞こえた。家族ではない。知らない声だ。
「封筒を渡していただきます」
丁寧だが、拒否を許さない口調。
蛾たちの羽音が、言葉を紡ぎ始めた。
『逃げて』『隠して』『燃やして』
三つの異なる指示が、混乱した祖母の意思を表しているようだった。生前の記憶が断片化し、矛盾した警告として現れているのか。それとも、祖母自身が何をすべきか迷っているのか。 無理もないと思った。それだけ重大な情報がこの中にあると思うと、中身を知りたいと思う気持ちが強くなる。
私は震える手で封筒の封を完全に破った。中から出てきたのは、古い写真の束だった。全て白黒写真。一番上の写真には、若い頃の祖母が写っていた。いや———祖母だけではない。
隣に立っているのは、見知らぬ男性。軍服を着ている。そして祖母のお腹は、明らかに膨らんでいた。
写真の裏には、走り書きのメモ。
「昭和二十三年八月、東京にて。彼が最後に笑った日」
母は昭和二十三年生まれだ。となると、おなかにいる子は母なのか?
ドアを叩く音が激しくなった。
「最後の警告です。封筒を渡していただけますか」
男の声は、玄関の向こうから響き渡る。感情は感じられないが非情に大きい。
私は次の写真をめくった。同じ男性が、今度は別の女性と写っている。その女性も妊娠しているように見えた。そして次の写真、また別の女性。次も、次も——。
全ての写真の裏に、祖母の筆跡で日付と場所が記されていた。そして最後の一枚には、赤いインクで大きく書かれていた。
「この男に、子孫を会わせてはならない」
蛾たちが一斉に窓に向かって飛び立った。窓ガラスにぶつかり、次々と落下していく。その様子は、まるで自ら命を絶つかのようだった。
最後の一匹が、私の手に止まった。翅の祖母の顔が、今度ははっきりと目を合わせてきた。口が動いた気がした。
『あの男は——』
その瞬間、玄関のドアが、轟音とともに破られた。轟音は、ドアが蝶番ごと吹き飛んだかのような、凄まじい破壊の音だった。木材の砕ける音、金属の軋む音が混ざり合い、深夜の静寂を引き裂いた。
私は写真を胸に抱えたまま、仏壇の影に身を潜めた。心臓が早鐘を打つ。玄関からの砂利を踏む音が、一歩、また一歩と廊下に近づいてくる。
その爆発的な音響の中、私の手に止まっていた最後の一匹の蛾が、力を使い果たすかのように翅を硬直させた。
『あの男は、あなたの——祖』
途中で途切れたその言葉が、まるで見えない糸で私の心臓を締め付ける。同時に、冷たい鱗粉が指から滑り落ちる。祖父と言うつもりだったんだろうか——母の父。私が、物心つく前に亡くなったと聞かされていた、祖母の夫。写真など見たこともないし、母も父も、まるでその存在自体が禁忌であるかのように話題にしない人物。
私は愕然とした。この写真の数々で、祖父と思わしき男性は複数の女性との間に子どもを持った可能性がある。この紅い封筒が語るのは、家系図を根底から揺るがす「真実」なのかもしれない。
玄関ホールから、重い靴音が響いてくる。男が侵入したのだ。
「その手に持っているもの、渡してもらえますか」
男は低い声で言った。その声は、感情を完全に排した、機械的な響きを持っていた。
私は顔を上げ、侵入者の姿を見た。 そこに立っていたのは、軍服の男ではなかった。黒いスーツに身を包んだ、中年の男。手には工具のようなものを持っている。そして何より異様なのは、その顔つきだった。無表情の奥に、獲物を追い詰めた獣のような執着が宿っている。
「あなたは……誰ですか?」
私の声は震えていた。男は私の問いには答えず、一歩ずつ近づいてくる。
「その封筒の中身を確認させてもらいます。危険なものです。あなたが所有するべきではありません」
「危険?」
私は思わず繰り返した。写真を隠すように胸に押し当てる。男の目は、私が握りしめている紅い封筒に釘付けだ。
「とにかく渡していただきましょう。それは、歴史から消されるべきものです」
男が一歩踏み出すと、床に散乱していたはずの蛾の死骸、そして窓に残った鱗粉のシミが、一瞬だけ白熱したように光を放った。
『逃げて!』
光の中から、祖母の声が木霊した。それは、もう羽音ではなく、力強い、生前の声。
男はたたらを踏んだ。顔が一瞬、苦痛に歪む。 私はその隙を見逃さなかった。紅い封筒をジャケットの内ポケットに押し込み、仏壇の横の廊下へと駆け出した。
「待て!」
男の叫びが背中に突き刺さる。彼は一瞬遅れて、私を追って廊下へ入ってきた。
廊下の先は、薄暗いキッチンと、裏口へと続く勝手口だ。私は迷わず勝手口の鍵に手をかけた。
鍵を回し、ノブを捻る。外の空気が一気に流れ込んできた。深夜の冷たい、静かな空気。 しかし、その空気には、窓の蛾の鱗粉とは違う、鉄と血のような臭いが混じっていた。
勝手口のドアを開け放ったその外にも、人影があった。
全身を黒い作業服に包み、覆面で顔を隠した人影が、二人。彼らは音もなく、まるで影そのもののように、私を待ち構えていた。
私は後ろを振り返った。廊下からは黒いスーツの男が迫ってくる。前には覆面の二人。完全に挟まれた。
「観念しなさい」
スーツの男が言った。その声には、もう焦りも怒りもなかった。ただ確信だけがあった。
私は封筒を握りしめた。祖母が死後、蛾という忌まわしい姿を借りてまで守ろうとしたもの。この写真には、誰かにとって都合の悪い真実が写っているのだ。
覆面の二人が一歩踏み出した瞬間、キッチンの窓ガラスが一斉に割れた。
四方の窓から、無数の蛾が雪崩れ込んできた。数百、いや数千という数。灰色の翅が月明かりを反射し、まるで生きた霧のように男たちを包み込んだ。
「うわあああっ!」
覆面の一人が悲鳴を上げ、顔を覆って後ずさる。もう一人も同じように蛾の群れに押され、庭へと転がり落ちた。
スーツの男は蛾を払いのけようと腕を振り回したが、蛾たちは執拗に彼の顔に、目に、口に群がった。
『今よ!』
祖母の声が、蛾たちの羽音から響いた。
私は決断した。勝手口から飛び出し、庭へと駆け出した。蛾の群れが、まるで私を守るように背後に壁を作ってくれる。敷地を飛び出すと、そこには一台のタクシーが停まっていた。運転席から、初老の運転手が私を見て驚いた顔をした。
「お客さん、こんな夜中に——」
「お願いします、すぐに出してください!」
私は運転手を遮り、後部座席に滑り込んだ。
「行き先は?」
「とにかく走ってください!」
運転手が困惑した表情でアクセルを踏み込もうとした瞬間、家の窓という窓から、蛾の大群が溢れ出した。まるで建物全体が蛾の巣だったかのように。
タクシーが発進する。バックミラーに映る家は、灰色の雲に覆われたように見えた。
「あの……お客さん、これって」
運転手が怯えた声で言う。
「......一体なんなんですか?」
「分かりません。とにかく、遠くへ……」
私は封筒をジャケットから取り出し、残りの写真を確認した。軍服の男、複数の女性たち、そして——最後の一枚に、私は息を呑んだ。
そこには幼い母が写っていた。五歳くらいだろうか。その隣に立つのは、あの軍服の男。男は母の肩に手を置き、カメラに向かって微笑んでいた。
裏には数行の走り書き。
「昭和二十四年一月。彼が娘を連れ去ろうとした日。許せなかった私は、然るべき機関に彼のことを報告し、事態を収拾するために動いた。彼は一種の兵器であるらしく、その後当時の研究者たちの協力もあって無事聖心霊園に保管されたとのこと。」
聖心霊園....祖母の墓がある場所だ。この封筒を、どこに持っていくべきか。答えはそこにしかない気がした。
「聖心霊園までお願いします」
私は運転手に告げた。 鏡に映る蛾の群れは、徐々に小さくなっていく。
運転手が頷いてハンドルを切った瞬間、携帯電話が鳴った。
母からだった。
画面を見つめながら、私は震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『——あなた、今どこにいるの?』
母の声は、いつもと違っていた。怯えているような、でも何かを隠しているような。私は咄嗟に答えた。
「タクシーの中。母さんこそ、どうしたの?」
『おばあちゃんの封筒、見つけたでしょう?』
電話の向こうの母の声は、確かに私の知っている母の声だった。しかし、その声色には、長年抱え込んできた重い秘密の殻が張り付いているようだった。
「お母さん……何のこと?封筒?」
『紅い封筒のことよ。お母さんの部屋の引き出しから見つけたんでしょう?』
母の声には、確信めいた響きがあった。私がそれに気づいていることを知っていて、それでもなお平静を装おうとしている。私の中で警戒心が急速に膨らんだ。
「見てないわ。何のことだか、分からない」
『……嘘つかないで。あなたが手にしているのは、ただの写真じゃない。一族の呪いの証拠よ』
私は息を呑んだ。呪いという言葉に、背筋が寒くなる。
「呪い……どういうことなの?あの写真に写っている男は、誰なの?」
母は一瞬躊躇したように沈黙した後、意を決したように話し始めた。
『私も聞かされたのは二十年前。お母さんが亡くなる直前のことだったわ。あの男、軍服の男はね——人工的に造られた兵——』
母の声が、突然ノイズに掻き消された。
「もしもし? お母さん!」
再びスマホのスピーカーから聞こえてくることはなかった。私は車の窓の外を見た。タクシーは街灯の少ない郊外の道に入っている。 すると、ヘッドライトに照らされた夜空の景色が、異様な光景に変わった。
空が、黒い点で満たされている。
それは遠く、小さく、まるで夜空に広がる星のようだったが、その黒い点は、星のように静止してはいなかった。それは不規則に、そして恐ろしい速さで、タクシーが走る方向に集結し始めていた。
「蛾だ……!」
思わず叫んだ。さっき家から飛び出した、あの途方もない数の蛾の群れが、私を追ってきている。タクシーの速度に関係なく、空の黒い点は徐々に大きさを増し、蛾の輪郭がはっきりと見えてきた。
運転手が前方のヘッドライトの光に映る黒い塊に気づき、慌てて急ブレーキを踏んだ。
「お客様!何が起きてるんですか!?」
運転手の悲鳴と同時に、タクシーは急停止した。車体が大きく揺れ、私の体はダッシュボードに叩きつけられた。衝撃で前につんのめる。幸いエアバッグは作動しなかったが、シートベルトが胸に食い込んだ。
窓の外で、蛾の群れがタクシーを取り囲むように着地し始めた。フロントガラスに、側面の窓に、そして屋根に。灰色の翅が無数に重なり合い、タクシーは瞬く間に灰色の蚕の繭のような外観に変わっていった。
「助けてください!何が……何が起きてるんですか!」
運転手がパニックになり、ドアに手を伸ばした。その瞬間突然、タクシーの後部座席に強い衝撃が走った。運転手が「うわ!」と叫び、車が激しく横に揺れる。 私は反射的に後部座席の窓を振り返った。
黒いセダンが、私たちのタクシーに猛スピードで追突していた。セダンの運転席からは、黒いスーツの男が、無表情でこちらを見つめている。マンションに侵入してきた男だった。ここで捕まるのは非情に不味い、私はそう思った。
「聖心霊園まで急いで! お願い!」
私は運転手に懇願した。運転手はもう、完全に怯えながらもハンドルを握り直し、エンジンを吹かした。
「くそっ、わ、わかりました!」
タクシーは急加速し、黒いセダンを振り切ろうとする。しかし、セダンは執拗に追跡してきた。ヘッドライトの光が、蛾の群れを貫き、私たちの進行方向を照らし出す。必死に進む最中、今度は、タクシーのフロントガラスに、何か硬いものが叩きつけられた。 蛾の翅などではない、それは上空から降下してきた巨大な蛾だった。羽には祖母の顔が浮かび上がっている。
「止まらなくていい!そのまま行くのよ!」
私は叫んだ。 運転手は悲鳴を上げながらも、タクシーを加速させた。巨大な蛾の羽に浮かぶ祖母は、私に一言言葉を紡いだ。
『決して自分の血を、その土に触れさせてはいけない』
祖母の言葉を反芻しているうちに、タクシーは、聖心霊園の古びた正門の真ん前で、激しく停車した。 ヘッドライトに照らされた正門は、深夜の闇の中、まるで異界への入り口のように佇んでいた。 その門扉には、夥しい数の蛾が、鱗粉を撒き散らしながらびっしりと張り付いていた。 そして、その後ろからは、黒いセダンと、空を覆う灰色の蛾の群れが、確実に迫ってきていた。
私は紅い封筒を胸に、血塗られた真実を抱きしめたまま、タクシーのドアを開けた。
冷たい夜気が肌を刺した。タクシーのドアを開けた瞬間、蛾たちの羽音が一斉に高まった。それは風の音のようでもあり、何千もの声が重なった叫びのようでもあった。
「お客さん、待って!」
運転手が引き留めようとしたが、私は振り返らずに正門へ向かった。門扉に張り付いた蛾たちが、私の接近を感じ取って一斉に翅を開いた。その模様は全て祖母の顔だったが、表情は様々だった。怒り、悲しみ、後悔、そして——恐怖。
背後でタクシーのエンジン音が遠ざかっていく。運転手は逃げたのだ。無理もない。
黒いセダンが急停止する音が聞こえた。ドアが開き、スーツの男が降りてくる足音。
「そこまでです」
男の声は冷静だった。
「封筒を置いて、ここから離れなさい。そうすれば命は助けます」
私は正門の前に立ち止まり、振り返った。男はゆっくりと歩いてくる。その顔は無表情だったが、目だけが鋭く輝いていた。
「封筒の中身、見ていないでしょうね?」
「全部見たわ」
私は答えた。男の歩みが止まった。
「そうですか……」
一瞬の沈黙。男の顔に、初めて表情らしいものが浮かんだ。それは失望だったのか、諦めだったのか。私は錆びついた門扉に手をかけた。蛾たちが一斉に飛び立ち、私の周りを旋回する。その中の一匹が、私の耳元で囁いた。
『奥へ……一番奥の、柳の木の下……』
祖母の墓だ。門を押し開けると、軋んだ音とともに古い墓地が姿を現した。月明かりに照らされた墓石が、不規則に並んでいる。石段を上がった先、確かに大きな柳の木のシルエットが見えた。
「逃がしません」
男が走り寄ってきた。同時に、黒いセダンからもう一人、同じく黒いスーツの男が飛び出してきた。二人組で来るみたいだ。私も走った。
墓石の間を縫うように、息を切らせて駆ける。足元の砂利が音を立てる。蛾の群れは私を守るように、男との間に壁を作った。灰色の霧の中で、私は祖母の墓へと急いだ。
汗が額を伝い、呼吸が荒くなる。柳の木が近づいてくる。その下に、見覚えのある墓石。祖母の名前が刻まれた、黒御影石の墓。
私は墓前に膝をついた。封筒を握りしめ、周囲を見回す。何かあるはずだ。祖母が本当に守りたかったもの。真実を示す、何かが。
『土……』
誰かの声が聞こえた。蛾の声ではない。もっと低く、しかし澄んだ声。
『土の中に……』
私は手を伸ばし、墓石の周囲を掘り始めた。爪が土に食い込む。冷たく湿った土の感触。
「やめろ!」
男が蛾の壁を突破して近づいてくる。
穴は十センチほど掘り進んだところで、何か硬いものに当たった。木の箱だ。
私は箱を掘り出し、蓋を開けた。中には古い日記帳が一冊。手が震える。これが、祖母の守ろうとした「真実」なのか。男の足音が迫る。私は日記を掴み、立ち上がった。
日記には、細かい文字でびっしりと記述されていた。読み進めながら、私は息を呑んだ。
『昭和二十三年。彼と出会った。軍人だと名乗ったが、その目は人間のものではなかった。私は彼に魅入られた。そして娘を身籠った。後に知った。彼には同じような娘が、全国に十二人いると。彼は人ではない。何かを探している。自分の血を引く者の中から、「器」を——』
男の手が私の肩を掴んだ。
「それ以上読むな!」
私は日記と封筒を箱に押し込み、土の中に投げ入れた。そして土をかぶせようとした瞬間——。
男が私の手を掴み、引き倒した。その拍子に、私の手のひらが墓石の角に激しくぶつかった。
鋭い痛み。そして、温かい液体。
血だ。
『決して自分の血を、その土に触れさせてはいけない』
祖母の声が脳裏に甦る。しかし時すでに遅し。
私の血が、一滴、二滴、掘り返された土の上に落ちた。その瞬間、墓地全体が震えた。
地面から、何かが蠢き始めた。土が盛り上がり、そこから無数の蛾が湧き出してくる。だが今までの蛾とは違う。翅は真っ黒で、模様はない。そして、その蛾たちは一斉に、一点に集まり始めた。
土の中から、手が伸びてきた。腐敗した、だが確かに人間の手が。
スーツの男が青ざめて後ずさった。
「まさか……起動させてしまったのか」
土を割って、それは姿を現した。
軍服を着た男。写真で見た、あの男の面影を感じる。顔は蛆に食われ、眼窩には蛾が巣食っている。だが、その腐った口が、確かに笑みを浮かべた。
「娘よ……」
掠れた声が、私に向けられた。
「やっと……会えたな……」
スーツの男は口元から泡を吹き、顔面蒼白になって後ずさった。だが彼もプロだ。すぐに拳銃を取り出し、亡者へと狙いを定めた。だが発砲するよりも前に、真っ黒な蛾が、男の顔に群がった。男は悲鳴を上げ、銃を落とした。
土を割り、完全に立ち上がった軍服の男は、腐り落ちた指先を私に向かって伸ばした。 その全身からは、黒い鱗粉を撒き散らしながら、おびただしい数の真っ黒な蛾が湧き出し続けている。それらは墓石の間に満ちていた祖母の蛾を圧倒し、吸収し始めた。祖母の残した最後の守りは、源流の力には敵わなかった。
「器よ……」
祖父は、笑っているように見える腐敗した口で囁いた。
「お前が、一番純粋な血を引いている。お前は私に最も近い……」
スーツの男が顔を押さえ、蛾の群れに抗いながらも、私に向かって何かを叫ぼうとした。だが声が出ない。その目は、完全に恐怖に支配されていた。
私は立ち上がろうとしたが、足が竦んで動かない。祖父の目が、私を捉えた。眼窩の中の蛾たちが一斉に羽ばたき、黄色い光を放つ。
「来るがいい、私の娘。お前は、この私を完全にする最後のピースだ」
祖父は腐臭を撒き散らしながら、一歩一歩、私に近づいてくる。足元の土から湧き出す黒い蛾は、最早数えきれない。
私は、柳の木の下で膝をついたまま、逃げ場がないことを悟った。墓地全体が、この「祖父」の支配下に置かれている。私一人の力では、どうすることもできない。
そう、私一人では決して気付くことができなかった。でも、不思議なことに、私の頭の片隅には、ある方法が浮かび上がってきた。
なぜ私がそれを思い付いたのかはわからない。たぶん、墓地に足を踏み入れた時点で、既に何かが私を導いていたのかもしれない。
祖母の声が聞こえたわけではない。けれど、私の心の中に、確かに存在していた何かが、こう囁いた。
「あなたの血に、特別な力がある。その力はあの男に対抗するべくして存在している」
私は息を整え、祖父が迫ってくるのをじっと見つめた。恐怖は消えていない。むしろ増している。しかし、奇妙な冷静さが胸の奥に生まれていた。
それは、自分の血に対する認識の変化だった。これまで私の血は、単なる生命の証でしかなかった。だが今、それは特別なものになった。なぜならば、目の前にいるこの「祖父」が、その血を求めているからだ。
「器」という言葉が頭の中で反響する。
祖父は私を、何かの媒体にしようとしている。その何かが何なのかは分からない。けれど、一つだけ確かなことがあった。
私の血は、彼に対抗できる唯一の武器だ。
恐怖に震える手で、私は自分の左腕を持ち上げた。先ほど墓石にぶつけた傷口からは、まだ血が流れ続けていた。スーツの男がもがきながら、私に何かを伝えようとする視線を感じた。おそらくそれは祖母の墓石へと向けられていた。もしや、これが対抗するための方法なのか。私は何かを期待し、自分の血に、祖母の墓石を触れさせる。
私の血が墓石の黒御影石に触れた瞬間、血は稲妻のように表面を走り、祖母の名が刻まれた部分で止まった。
祖父の動きが止まった。眼窩の蛾が激しく羽ばたき、混乱を示す。
「何を……! お前、何をしている!」
祖父の声には、初めて焦りが含まれていた。
私の体から力が抜けるような感覚があった。何かが血を通じて、墓石へと流れ込んでいく。それは痛みではなく、むしろ解放感に似ていた。
「おばあちゃんが、あなたを葬るために……」
私は微かに口を開いた。声が震えている。
「私に流れる血は、このためのものだったんだね……」
その瞬間、血が触れた墓石の表面に、無数の亀裂が走った。亀裂はたちまち巨大な音を立てて広がり、墓石は爆発するように砕け散った。
砕け散った墓石の破片の中から、強烈な白い光が溢れ出した。それは太陽の光ではなく、純粋な、魂を焼くような浄化の光。
白い光は瞬く間に祖父の全身を包み込んだ。祖父の腐った肉体は、光の中で瞬時に干からび、黒い蛾たちも光に触れるや否や、灰となって消滅した。
「ぐああああああああ!」
祖父の絶叫が墓地全体に響き渡る。その声は、何千もの蛾の羽音を混ぜ合わせた、地獄の叫びだった。
光が消えた後、そこには何も残らなかった。軍服の男の肉体も、黒い蛾の群れも、すべてが塵となっていた。
私は崩れ落ちた墓石の破片と、黒い鱗粉の残骸に囲まれ、息を切らせていた。
そして、遠くでかすかに聞こえる、サイレンの音。




