ぽっちゃり侯爵と大食い令嬢の甘い婚約生活
三段のシンプルなケーキスタンドに、軽食や菓子が並んでいる。その横にある銀のトレーの上にはプディングやゼリー、カットされた果物などが彩り豊かにテーブル一面を飾っている。
カップに注がれた紅茶も相まって、その光景は、かつて絵本で見た、少女と動物たちのお茶会のようだ。甘やかな香りが、侯爵邸のガゼボ周りを包み込む。
その席に座っているのは、一組の婚約者。
ふくよかな頬の男性が、優しいまなざしで女性を見つめている。
対する女性は、目の前のお菓子にすっかり心を奪われ、そんな視線にはまるで気づいていない。
男性の名はキーレン・オウネル。白金の髪を持つ彼は、平均よりもかなり恰幅がよく見える。
一方、アッシュブロンドの長い髪をした細身でしなやかな体つきの女性は、ダニエラ・ローガンである。
「見てダニエラ。こっちは西のサイ国から取り寄せたカカオを使った焼き菓子で、これは今城下で流行ってるパイだよ。全部味見していってね。」
「美味しそうですが…今日はなんだか、胸がいっぱいで、全部は無理かもしれません。」
「そう言わずに、しばらく会えなくなるんだから。ほら、これは私のおすすめ。はい、あーん。」
ふくふくした指で持ち上げられたフィナンシェを、ダニエラは無表情に見つめ――パクリと一口齧った。
「…甘い。」
「ふふ、シンプルな感想だね。私はこっちが食べたいな?」
マカロンを指差し、キーレンはダニエラに食べさせて欲しいとアピールする。
やれやれ、と指差されたマカロンを摘み、彼の口元へ運んでやった。
すると、「!」パクリと指先まで食べられてしまい、咄嗟に手を引っ込める。
「おふざけは辞めてください。」
ダニエラは頬を赤くし、キーレンを睨みつける。
「はは、余りに美味しそうだったから、つい。」
キーレンはというと、悪びれもなく楽しげに微笑みを返す。
後ろに控えてる侍女たちは思う。
なんだよ、この甘ったるい空間は、と。
◇
「キーレン・オウネル様ですか?あのオウネル家のご子息?なんでまたそんな大物が。」
これまで仕事一筋だったダニエラ・ローガンに、突如として結婚話が舞い込んできた。
子爵令嬢である彼女は、十八歳の頃から宮廷で女性秘書官として働き続けてきた。
実家の子爵家は政略結婚をするほどの家柄でもなく、後継として兄夫婦が既に実家を継いでいる。そのため、親からは恋愛や結婚の類は本人の自由にしてよいと言われており、これまで婚約者の類もいなかった。
気が付けばもう二十三歳――未だ未婚のダニエラを心配した上司であるガリウスが、今回縁談を取り付けてきたのだ。
しかも、そのお相手というのがキーレン・オウネル侯爵、二十八歳。
肥沃な穀倉地帯を治める名門の当主であり、国外との交易で莫大な利を生む切れ者だ。
社交界の事情にうといダニエラでさえ、その名前だけは知っていた。
「というより、まだ未婚でらっしゃったんですね。」
「ああ、実は数年前に一度ご結婚されているんだが、お子ができる前に、すぐ離縁になってしまったそうだ。それで、そろそろ後継も必要だと次のパートナーを探していたところに、ローガン君の噂を聞きつけて、向こうから打診があったんだよ。」
「噂、とは?」
「痩せの大食い令嬢、と。」
「失敬な。」
ダニエラは長身で細身のすらりとした体形だが、かなりの大食漢で、底なしの胃袋を持っていた。
どれだけ食べても太らないという羨ましい体質の持ち主で、職場の同僚たちからは冗談めかして「ダニエラが食べたものは胃袋を通って宇宙の彼方に消えているんだ」とまで言われていた。
たまに社交の場に顔を出すことがあっても、料理を片手に談笑しているのがいつもの姿で、そのせいか、いつしか“大食い令嬢”という少し不名誉なあだ名まで付いてしまった。
「でも、なぜ格下の子爵家の大食い娘なんかに婚約を申し込んで来たんでしょうか?」
ダニエラは全く持って解せなかった。
今ノリに乗ってる侯爵ともなれば後妻を娶るとしても、引く手数多であるはずである。
なぜ下級貴族で政治的にも何の旨味もない自分に声がかかったのだろうか。
「あー、えと、ダニエラ君は男性の外見にこだわる方かな?」
突然、ガリウスはダニエラの尋ねた答えとは関係のないことを確認してきた。
「いえ、外見よりも私と同じくらい強靭な胃袋を持っているかどうかにこだわります。」
「君はほんとにブレないね!でも、それなら良かったよ。」
先程の歯切れが悪い聞き方から一転して、ガリウスは安心した様子で、ダニエラに婚約の話が降って湧いた理由を語り出した。
「侯爵は君と同じようにかなり食べる方でね。でも、痩せの大食いの君とは違って、外見にもその貫禄が出ているお方なんだ。どうも見た目で敬遠してしまうご令嬢が多いらしくてね…。」
「あら…」
ダニエラはオウネル侯爵に今まで会ったことはないが、ガリウスの言い方からしてさぞかしふくよかな方なんだろうと想像する。
彼女としては、健康であれば太ってようが痩せてようがどっちでもよかった。それよりも――自分と同じくらい食べることが出来る男性を求めていたから。
「それに、前の結婚は政略結婚だったそうなんだけれど、奥方が侯爵の見た目を受け付けられなかったことが主な理由で、結局は離縁されてしまったらしいんだ。それどころか、一緒に暮らしているうちに自分まで太ってしまったとかで、慰謝料まで請求されたんだって。その反省から、今度こそ“食の相性”が合う相手を探していたらしいよ。」
(慰謝料って…元奥方も食欲を自制すればいいだけなのに…自分が体形を維持出来なかったのを、相手のせいにするなんて)
そんな理由で離縁されたなら、次の相手に食生活が合う者を探すのも納得がいく。
「でも、食の相性というか、要は相手がよく食べる人かどうかですよね。あと、見た目を気にするかどうか。」
「まあそのとおりだな。とにかく、君は彼のお眼鏡にかなったらしい。後妻といえど、君の実家としても侯爵家と縁続きになれるのは良いことなんじゃないだろうか。」
「まあ実家のことは置いといて…私もそろそろ結婚したいとは思っていましたので、願ってもないことです。お話を聞いている限り、食欲に関しては気が合いそうな感じがしますし。」
ダニエラの前向きな言葉に、ガリウスがぎょっとした顔をした。
「え、ローガン君って結婚に興味あったの?こういってしまうのもなんだが、君は仕事一筋だから、お断りされるかと思っていたよ。」
「失礼な。私だって人並みに結婚願望はありますよ。でも、そういったお相手がいなかったから仕事に打ち込むしかなかったというか…」
ダニエラの学生時代の友人たちは皆、結婚して子供までいる。職場の同期も、数年前にみんな結婚と同時に退職してしまっていた。気付けばダニエラはこの職場で古参の人間になっており、少しばかり将来に不安を抱えていたところであった。
これまで男性経験がなかったわけではない。ダニエラはすらりとした美貌の持ち主で、容姿だけなら誰もが認めるほどだった。そのため、彼女に近づく男性は決して少なくなかった。だが――デートで食事を共にした瞬間、皆そろって彼女の元を去っていった。
一番強烈な別れ言葉は、「君といると、食費がかかって仕方ない」だ。
前菜に二品、メイン三品、デザート二品とダニエラにしては控え目にしたにも関わらず、である。(ちなみにこの男性はダニエラの三分の一しか食べない少食っぷりだった。)
そんな経験もあって、ダニエラはパートナーには自分と同じ食事量を食べる人を求めていた。そのほうが相手に遠慮せず食事を楽しめるし、気を遣わなくて済むからだ。
今回の"よく食べる人"だという侯爵からの打診は、ダニエラとしては願ってもいないことだった。
「実は、君の優秀な仕事ぶりも評価されてるんだよ。侯爵家に嫁ぐからには、オウネル侯爵夫人として彼の仕事の一端を任されることになるだろうからね。うちとしては優秀な部下が減ってしまうのは非常に惜しいんだけど…でも、ダニエラ君が思いのほか好意的で良かったよ。」
「寧ろ自分でも少し驚いています…。こちらの一件、一度両親にも確認し、前向きに検討させて頂きます。」
ダニエラは縁談を仲介してくれたガリウスに対し、頭を下げた。
◇
「はじめまして、ローガン子爵令嬢。私はキーレン・オウネルです。突然の誘いに応じてくれて、嬉しく思います。」
「はじめましてオウネル侯爵様。こちらこそ、お招き頂きありがとうございます。」
今、ダニエラはたった一人でオウネル侯爵邸の応接間でオウネル侯爵と対面していた。
なぜそんな状況になっているのかというと、「正式な返事をする前に、よかったらうちにお茶をしに来ないか」と、ガリウスを通じて侯爵から誘いを受けたためだ。
オウネル侯爵としては、自身の体形が女性受けしないことを承知しており、ダニエラにも一度自分の人となりを見てもらった上で、縁談を進めるかどうかを判断してほしい――そう考え、彼女への配慮としてこの場を設けた。
しかしダニエラは、侯爵邸でのお茶会といえば、きっと見事な茶菓子が並ぶに違いない――そう思い込むあまり、深く考えもせず、二つ返事で承諾してしまった。
しかも、当日になって肝心の仲人のガリウスが、用事があるとかで急遽欠席となってしまった。
ガリウス抜きで、初対面の高位貴族のお宅にダニエラ一人で訪問なんて、日程を変更したほうがいいかと思ったのだが、向こうも既に準備を終えているだろうし、何より、頭の中はスイーツでいっぱいになっていた。
そんなわけで、今のこの状況に至る。
「ガリウス殿は今日来れなくなってしまって残念でしたね。」
「ええ、急な用事が入ったみたいで…私一人で上がり込んでしまって申し訳ないです。」
「いえいえ、ローガン子爵令嬢に来ていただけて、こちらとしてはとても喜ばしいですよ。」
そう言って優しく微笑むオウネル侯爵は、噂に違わず大きな人だった。
長身であるダニエラよりも頭一つ大きく、横幅に関しては彼女がすっぽりと隠れてしまうくらいに大きい。お腹の大きさなんて、ダニエラの父や兄の三倍はあるように思えた。
しかしながら、その姿が不快に映るかと言われたらそういう訳では無い。寧ろ、侯爵の格好は全てが洗練されていた。
白金の長い髪を一つに結び、服装はというと、少し窮屈そうではあるが、落ち着いた色味で纏め、清潔感と品が漂っていた。顔立ちはというと、盛り上がった頬肉に隠れて分かりづらいのだが、よく見るとその瞳は翠色をしており、とても優しげな印象を与える。
昨今この国では痩身の男性ブームが来ているのだが、ダニエラとしてはこれくらいでっぷりとしてても全然許容範囲である。
職場の同僚男性なんて、みんな繁忙期になるとゲッソリとやつれ、「今日の昼、草だけでいいわ」なんていうしなびた体格の者ばかりである。なんなら自分より体重が軽い者もいるのではないだろうか。
ダニエラはそんな人たちに長年囲まれて来たので、栄養満点のどっしりした体格の侯爵が物珍しかったりする。
「来て早々ですが、庭を案内しましょう。今日は天気が良かったので、外にお茶を用意させています。」
差し出された、ふくふくとした手を取って外へと向かう。
――さすがは高位貴族である。身体が大き過ぎることに目を瞑れば、一つ一つの動作は、全てが上品で優雅だった。
侯爵の案内で、見事な花々が咲き乱れる庭園を歩いていく。実家の二倍どころか三倍はありそうな広大な侯爵邸は、門から屋敷までの道のりも相当長い。そして、庭園の中もまた、ため息が出るほどの広さだった。
しばらく進むと、丸い白い屋根をもつガゼボが見えてきた。その下には、すでに使用人たちが控えているのが見えた。
「あちらです。」
オウネル侯爵に先導されるまま中へと近付くと、甘い匂いとともに、テーブルの上に所狭しと並べられた甘味の数々が視界に入ってきた。ダニエラがこれまで見たことがない形のスイーツたちは、空腹の胃袋を視覚で刺激してくる。
「さあどうぞ」とオウネル侯爵に自然な動作で椅子を引かれ、促されるままに着席した。
「綺麗…全部美味しそうに見えます。」
菓子はもちろん、器やカトラリー、飾られた花に至るまで、すべてが一体となって美味を引き立てる演出をしていた。
「見た目だけでなく、味も抜群ですよ。これらは主にうちの領地で取れた小麦を使った焼き菓子や、交易で仕入れた外国の菓子たちです。お好きなだけ召し上がってください。こちらを摘まみながら、お茶をしましょう。」
「ありがとうございます、遠慮なく頂かせてもらいます。」
こういうとき、ダニエラは遠慮を知らない。
食を目の前にした途端、それまで僅かばかりあった緊張は全て吹っ飛んでいった。
ダニエラの横から、使用人が香りのいい紅茶を注ぐ。この香りも彼女にとって初めて嗅ぐものだ。
彼女は注がれたばかりの紅茶を一口含み、話そっちのけで、どれから頂こうかと品定めをする。
(…シブーストも美味しそうだけど、形が可愛いこのクッキーたちも気になるわ。)
むむむ、と難しい顔で悩んでいた彼女を見かねたのか、オウネル侯爵は自分のおすすめを提案してくれた。
「最初に、このオランジェットはいかがでしょう。こちらの紅茶によく合いますよ。」
「まあ…ではそちらを頂きます。」
トングに手を向けると、つかさず側に控えていた使用人が取り分けてくれた。さすが侯爵邸、自分の子とは自分でやる方針の子爵邸とは違う。
取り分けてくれたお皿の上には、丸く薄くスライスされたオレンジピールの砂糖漬けに、チョコレートが上品に半分コーティングされたオランジェットが三枚乗っていた。見た目を存分に味わった後、一口ぱくりと口に含む。
(め、めちゃくちゃ美味しい)
ほろ苦いが、周りの砂糖がその苦味をやわらげ、さらにカリッとしたチョコのコーティングが心地よい食感とほどよい甘味を添えている。
「…とんでもなく、美味しいです。」
「それは良かった。こちらは南のターザム領から取り入れたオレンジで作られたものです。うちのオウネル領の焼き菓子店で一番人気の品なんですよ。」
「そうなんですね!一番人気なのも納得です。これだったらいくらでも食べられちゃう。」
(本当に、百枚くらい食べたいくらいに美味しいわ。街で売られているのなら、帰りに箱買いして帰りたい…もちろん、お土産ではなく、自分用に。)
ダニエラはおかわりを要求しようかと思ったが、他の品も魅力的なため、それはやめておいた。
「別のものも頂いてよろしいでしょうか?」
「もちろんです。次はこれなんていかがでしょうか。」
ダニエラの反応がよほど良かったのか、オウネル侯爵は次々と新しいおすすめを紹介してくれた。いずれも彼が交易で取り扱ってる品か、オウネル領で作られているもので、ダニエラにとっては初めて口にするものばかりだった。
当然遠慮することもなく、それらを次々とお腹へと収めていく。オウネル侯爵もまた、ダニエラに勧めるだけでなく、ご自身でも一緒に召し上がっていた。
同じようなペースで同じような量を食べる。
普通の人なら日常にありふれていることで、気にしたことすらないだろう。
しかし、ダニエラにとってはありふれたことなどでは決して無かった。
同性では、まず、この状況はありえない。お茶をしても、みんなすぐに「もうお腹がいっぱい」だとか「太ってしまうのは嫌だから」と小さな茶菓子一つで終了してしまうのだ。
だからといって、異性であっても同様で、最初は一緒のペースでも、途中で「よくそんなに食えるな」と呆れられてしまう。
そのため、率直に言って、ダニエラにとって侯爵が同じペースで次々とお菓子を食べていくこの状況は、もう最高に嬉しいものだった。なんというか……同志を見つけたみたいな気分だ。
そうして勧められるまま一通りの種類を食べたあと、彼女はふと我に返る。
(あれ、私、味の感想しか話してなくない?)
「あの…すいません。私お菓子に夢中になり過ぎて、侯爵様自身のことをお伺いしていませんでした…」
(恥ずかしい。これだから下位貴族は、と内心呆れていないかしら。)
ダニエラがおずおずと顔を上げ前を見ると、侯爵は丸いお顔をキョトンとしていた。
「私のこと、ですか?」
「はい、侯爵様の、です。だって、私との縁談を進めるために呼んで頂いたんですよね?だったらもっとお互いのことを知らないと。」
「…」
ダニエラの言葉に、侯爵様は黙り込んでしまった。
(あれ、元々そういう話だったんじゃなかったっけ。私、早とちりした?そもそも今日ってどんな目的で呼ばれたのかしら。)
少しの沈黙のあと、侯爵様は「はい、そうですね…すいません、そんな風に前向きな言葉を頂けるとは思っていなくて…」と小さく呟いた。
少し気恥ずかしそうにして、ふくふくした指で頬をかく。その姿は照れている少年のようで、なんとも可愛らしかった。
…年上で、しかも格上の方に対し、可愛いというのは失礼かもしれないが。
「…実は、前にザック伯爵邸のパーティーで、出された料理をとても美味しそうに召し上がっていた貴方をお見掛けしたことがあるんです。」
「え!?」
唐突に侯爵の口からダニエラのことが語られた。
(ザック伯爵邸のパーティー?どれだったっけ…)
そもそも社交の場に顔を出すこと自体が少ないダニエラであったが、たとえ参加する場合も、お相手探しやダンスのためではなく、もっぱら料理目当てで出席していた。
彼女が記憶を掘り起こして思い出したのは…
「あ!魚介料理が絶品だったアレですか!」
やはり、そのときのパーティーで出された料理であった。
「はい。私もあのとき出された魚介料理は持って帰りたいくらいに素晴らしかったと記憶しています。ザック伯爵領は海に面していますので、食材のどれもこれもが新鮮でした。」
「ふふ、侯爵様も素晴らしいと思っていたんですね。実は私、あの後こっそり残り物を包んでもらったんですよ。」
「なんと」
(ザック伯爵邸のパーティーは、というかあそこの料理は、本当に素晴らしかったわ)
フィッシュアンドチップスにロブスター、ブイヤベースに白身のソテーetc...
ダニエラは父親に咎められるも、社交そっちのけで数々の魚介料理に舌鼓した。そして、彼女のあまりの食べっぷりに、主催の伯爵が気を効かせて、パーティーの終わりに宜しければ、と日持ちするものを選んで持ち帰らせてくれたのである。
「私は、あのパーティーでローガン嬢のことを見初めました。なんて気持ちのいい食べっぷりなんだろうと。人生を共にするなら、気持ちよく食事ができる人がいいな、と…。私は以前、相手の方から離縁され、外見もこの通りです。でも、あなたとなら、幸せな結婚生活が送れることができるのではないかと思い、ガリウス殿に頼んで縁談の話を持ち込んでもらったんです。」
「そ、そうだったんですね…」
オウネル侯爵の言葉に、ダニエラの胸は熱くなった。
これまで、咎められることはあっても「気持ちよく食べる」と言われるなんて、初めてのことである。
「はしたない」
「仮にも貴族令嬢なんだから」
「慎みを持つのが淑女」
そんな風にしか言われたことが無かったのに。
「…はしたないと思いませんか?」
「なぜ?貴方の所作はとても綺麗だ。何もはしたないところなんてない。」
「私、普通の女性よりたくさん食べるから、食費がたくさんかかりますが…」
「ローガン嬢一人養うくらい訳ないです。それよりも、私とともに視察先でたくさん試食などをすることになると思うので、たくさん食べてくれると嬉しいです。」
「あの…うちは子爵位で、一般教養は身についているとは思いますが、高位貴族のような教育は受けていません。」
「全く問題ありません。今一緒に過ごした限りでも、教育が足りないと思うようなものはどこにもありませんでした。それに、ガリウス殿からもあなたの職場での優秀さは聞いております。でも、もしなにか気になることがあると言うのであれば、そういった教育を手配することも可能です。」
まん丸な顔を少し傾け、穏やかに微笑まれる侯爵様に、ダニエラの心は見事に射抜かれた。
顔に熱が集まる。
「…私、これまで誰かと一緒にお茶や食事をする場面で、こんなに心穏やかだったことはないんです。いつも、人よりたくさん食べると、驚かれたり、揶揄われたり、たしなめられたり…なので、今日このお茶会に誘っていただき、楽しい時間を過ごせて本当に感謝しています。」
侯爵様はダニエラの物言いに、どういった返事が来るか図りかねているらしい。
ダニエラを見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
「実は、親からはすでに了承をいただいております。この度のご縁談、謹んでお受けいたします。」
「!」
そう、ダニエラは既に両親には自分の方から話を通していた。侯爵家と聞いて卒倒しかけていた両親と兄夫婦だったが、ダニエラがいいと思うなら、と返事をしてくれたのだった。といっても、格下のローガン家から断りを入れるなんて、簡単にできるようなものでないのだが。
「…ありがとうございます。これから、よろしくお願いします。」
「はい、こちらこそ。」
二人して顔を赤くして微笑み合う。
こうして、ダニエラとオウネル侯爵の二人は、結婚を約束した婚約者同士となった。
◇
文書の手続きなどを終え、二人は一年の婚約期間を経て結婚することに決まった。オウネル侯爵は大丈夫と言ったものの、やはり上位貴族に嫁ぐための教育を受けてからのほうがいいだろうとダニエラの教育期間を考慮した結果である。
婚約が結ばれてからというもの、ダニエラは仕事終わりには家庭教師から礼儀作法の指導を受け、休みの日には侯爵邸に通い、侯爵家特有の慣習や親族構成、派閥事情について学んでいた。さらに領地運営や家政管理の基礎については、家令から直接講義を受けている。
毎日が目まぐるしく過ぎていくが、それ以上に――オウネル侯爵という人物がいかに多忙か、彼女は次第に理解するようになった。
広大な領地を管理し、交易交渉もこなし、そして屋敷にやって来たダニエラの相手をする。
屋敷を不在にすることも多く、あまりの多忙さに「お身体は大丈夫ですか?」と心配したところ「合間合間に食べてるから、風邪も引いたことないよ。」と言われた。確かにどれだけ忙しかろうと職場の男性陣と違ってやつれることもなく、変わらずぷくぷくを維持していた。
そんな侯爵であるが、仕事のほんの少しの合間を縫ってでも、ダニエラとの時間を作ってくれた。
時にはお茶を用意してくれたのに、顔だけ出してすぐに出てしまうこともあった。ダニエラは一度、自分との時間を割くことで、彼の仕事の邪魔になっているのではないかと思い「お忙しいのに、申し訳ございません」と謝ったことがある。しかし、「私がダニエラの顔を見たいだけだよ。」と、彼がはにかんだ笑顔で言ってくるものだから、そのときダニエラはキュン死にしそうになった。
(侯爵様の照れた笑顔、可愛い過ぎる)
ダニエラは決してデブ専などではない。けれども、彼のまん丸な顔と大きな身体は誰よりも輝いて見えた。
彼と一緒に沢山の菓子とともにお茶を頂く――話す内容は他愛もないこと、というより食に関することが多いのだが、侯爵と過ごすひとときは、ダニエラにとってかけがいの無いものになっていた。
◇
領地管理は現在家令が主だって管理をしているが、月に一度は侯爵自らが領地内の視察を行っていた。
管理の一端をゆくゆくはダニエラが引き継ぐことになること、そして将来の領主夫人としてのお披露目ということで、侯爵はその月の視察にダニエラを伴って回った。
そこで、ダニエラはいかに侯爵が領民から信頼され愛されているかを知ることとなった。
穀倉地帯の農地では農民たちから自分たちの小麦を使ったパンを山程貢がれ、そして侯爵もその場でなんの躊躇もなく味見をして感想を述べる。それが彼らの定番のやりとりのようで、侯爵と領民のあまりの垣根の低さにダニエラは面食らった。
領内の町を見回った際も、侯爵はやたらに食料の貢ぎものを受け取っていた。
さらに領内で一番の繁華街に行った際は、うちの店に来て食べてってくれ、とあちこちから声をかけられる始末であった。
その日はダニエラのために今一番人気のお店を予約してくれており、そこで二人ほぼ全てのメニューを美味しく頂くこととなった。
その様子を見ていた給仕の者から、「なんか婚約者の人めっちゃ美人なのに侯爵と張るくらいの食いしん坊だ!」とざわつきがあったことをダニエラたちは知らない。
視察の終わりの際、「侯爵様は愛されていますね。」とダニエラが言うと、「そうだね、私の体形はみんなの愛の賜物なんだ。」といつものはにかんだ笑顔で笑った。
◇
婚約を結んで数カ月がたった頃、教育も進んできたからということで、侯爵はダニエラを婚約者として夜会に伴って参加した。
これまでも二人で出掛けたことはあったのだが、それらは全て領内の話であり、外で二人で出掛けたことはこれが初めてのこととなった。
ダニエラはキーレンに贈られた深い緑のドレスと装飾品を身にまとい、首にはキーレンの瞳の色である翠の宝石をあしらったネックレスを身に着けた。
侯爵もダニエラと同系色の装いで、互いが婚約者同士であることをアピールした。
(ああ、弾けそうなボタンも素敵)
侯爵の衣装はパンパンなのだが、ダニエラにとってはそれすらも愛しく映っていた。いわゆる、恋愛フィルターである。
ダニエラの見た目は手足が細く長く、女性にしては長身である。侯爵も横幅に気を取られがちだが、一般男性の平均よりも上背があるため、ヒールを履いたダニエラとちょうどいい身長差になっていた。
一見美女と野獣のような感じに見えなくもないが、侯爵の柔和な雰囲気と優雅な挙動で全くダニエラに引けを取ることはなかった。
今回二人が参加したのは、高位貴族が集う大規模な夜会であった。
侯爵の面目を潰さぬよう緊張していたダニエラだったが、彼は終始自然に彼女をエスコートし、会話で答えに詰まりそうになったときも、さりげなくフォローを入れてくれた。そのおかげでダニエラも滞りなく社交の場を楽しむことができた。
ただ、残念ながら、この夜会では思う存分料理を味わうことはできなかった。
婚約者として挨拶回りをしたという理由もあるが、それ以上に、侯爵がひっきりなしに人々に囲まれていたからだ。ひとつ会話が終わると、間髪入れずに次の相手がやって来る。
豊かな穀倉地帯と多くの交易路を押さえる侯爵は、経済面で欠かせない存在であるうえ、その穏やかな人柄ゆえに周囲から厚く慕われているのだとダニエラには思えた。
ダニエラは途中、化粧室へ向かうため、侯爵のもとを一時的に離れた。その帰り際、ひとりの女性に声をかけられた。
「まあ、あなたがキーレンの婚約者だという方かしら?」
立ち止まったダニエラを、女性は上から下までじっと眺め「ずいぶんとほっそりしていらっしゃるのね」と、感想めいた言葉を口にした。
ダニエラは突然声をかけられた上、自分の容姿について不躾なことを言われ眉をひそめた。
「はい。私がキーレン・オウネル侯爵の婚約者、ダニエラ・ローガン、ローガン子爵家の娘でございます。
恐れ入りますが、あなたのお名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「あら、失礼。わたくしはリアベル・ザッツバーグ、ザッツバーグ伯爵家の者よ。」
ダニエラは頭の中で、教育で習った貴族のリストからザッツバーグの家を思い出す。
確かザッツバーグ伯爵家は、前妻が再婚した相手の家だと記憶している。
「貴方が侯爵様の...」
前妻。
彼女の年の頃は侯爵と同じくらいの二十代後半であり、キツめの顔立ちに肉感的な身体つきをしていた。
「ええ、そうよ。キーレンの前妻よ。それにしても、下位貴族の貴方がよく彼の婚約者になんてなれたわね。やっぱり、若さと、見た目かしら?
⋯そうそう、前妻として、貴方に一つ忠告しといてあげるわ。彼、見た目以外は最高の人かもしれないけれど、結婚したらきっと苦労するわよ。ずっと忙しいから全然かまってもらえないし、それに何より、結婚して彼と食事を共にしてると、あっという間に貴方もおデブちゃんの仲間入りすることになると思うわ。せいぜい気を付けなさい。それじゃあ、ごめんあそばせ。」
「...」
一方的に侯爵への侮辱とも取れることを言われたダニエラだが、不思議と嫌悪感は無かった。
それどころか…
(見た目以外は最高の人ですって。やっぱり前妻のあの方から見ても、侯爵様は最高に素敵な方だったのね!でも、見た目も最高に可愛らしいのに、見る目のない方)
と、侯爵に対する評価をぶち上げていた。
◇
ダニエラは相変わらず侯爵への思いを募らせる日々であったが、彼がダニエラに甘い言葉を囁いても、手を繋ぐ以上のことをしてくることはなかった。
(なんて健全な婚約者同士なんでしょう)
たまに二人の距離が近くなることがあっても、侯爵は敢えて雰囲気を壊すかのようにさらりと交わしてしまう。
ダニエラのほうも意図的な彼の様子に、それ以上踏み込むことができないでいた。
しかし、ダニエラは諦めなかった。食以外で初めて興味が出たもの、それが侯爵だったから。
この日も、ダニエラは侯爵邸を訪れていた。
この頃には、もともと優秀で飲み込みの早い彼女は、ほとんどの教育課程を終えていた。秘書官の職を辞し、今では領地経営の多くを任され、さらに侯爵の仕事を一部を手伝うほどになっている。
そして今日は仕事のためではなく、珍しく時間が取れそうだという侯爵と、ただお茶を共にするために足を運んだのだった。
少し肌寒くなってきていたが、外のほうがいいというダニエラのリクエストで、二人ガゼボの下でお茶を楽しんでいた。しかし、意を決したように、ダニエラは侯爵の名前を呼んだ。
「侯爵様…。」
「なんだい?」
「あの、お願いがあるんです。」
茶器を置いて、改まって話を切り出したダニエラに対し、侯爵は少し不穏さを感じとる。
ダニエラはそれっきり、何かを言い出そうとしては止めを繰り返し、それきり黙り込んでしまった。
いつもとはどこか様子の違うダニエラを見て、侯爵は
(まさか……私との婚約が嫌になってしまったとでも言うんじゃ…それで婚約解消を切り出せずに困っているのでは…?)
と、完全に間違った方向へ考えを巡らせ、みるみる顔色を失っていった。
「待って、ダニエラ。」
思わずダニエラにストップをかけた侯爵だが、
「いえ…すいません、言わせて下さい。あの、」とダニエラの口を止めることができない。
「待てと言っている!」
いつになく強い口調で言った侯爵に、ダニエラは面食らった。そして、勢いのまま立ち上がった侯爵は、向かいに座るダニエラの元まで移動し、彼女を後ろからきつく抱き締めた。
「大きな声を出してごめん、ダニエラ…お願いだ、婚約を解消するなんて言わないでくれ。」
勘違いで見当違いのことを言っている侯爵だが、幸い、ダニエラはその言葉を全く聞いていなかった。
ダニエラは、まさか自分のお願い――抱き締めて欲しい、という願い事が、言う前に叶えられてしまったことに驚いており、同時に、嬉しさでいっぱいになっていた。
彼女は彼に抱き締められている手を一度振り解き、椅子から立ち上がって、正面から彼の大きな身体を負けじとぎゅっと抱き締め返した。
侯爵は自分が思っていたのと違うダニエラの反応に戸惑いを隠せず、ゆっくりと身体を離して彼女の意図を確認する。
「ダニエラ…その、お願いというのは、私と…別れたいということでは?」
「ええ!?なんでですか!私はこんなに侯爵様のことが好きなのに!?ぎゅっとしてくださいって言おうとしたんです。突然侯爵様のほうから抱き締められて、なんで私の言おうとしたことがわかってしまったの、ってびっくりしたんですが。」
顔をほんのり上気させて可愛いことを言うダニエラに、侯爵は身体の力が抜けた。彼女の肩に顔を埋め、小さく呟く。
「…本当、貴方はどこまで私を夢中にさせたら気が済むんだ。」
「あら、それは私のほうです。もう一度、抱き締めては貰えませんか?」
「…いいのかい?私は太っているから…触れられて、気持ち悪くはない?」
侯爵は過去に政略結婚した元妻から、太った人に触られるのは嫌悪感しかない、とエスコートなど必要最小限の触れ合いしかさせて貰えなかった。
その経験もあって、ダニエラへの接触は極力控えるようにしていたのだった。
「まさか!私は、侯爵様…キ、キーレン様に触れて欲しくて、ずっと我慢してました。寧ろ…私から貴方を抱き締めてしまってもいいでしょうか?」
自分の名前を呼び、そんな可愛いらしいことを言ってきた婚約者に、侯爵は堪らなくなり、強く…けれども彼女が壊れないよう優しく抱擁した。
今まで焦がれていた、触れ合いと、彼の弾力のあるモチッとした身体の感触に、ダニエラは蕩けるような心地になる。
暫くの間、二人は無言で抱き締め合い、身体が離れたあと、どちらともなく口付けをした。
◇
ダニエラとキーレンのスキンシップが解禁されてから数日後。
婚約から半年、結婚式まで半年に迫っていた日のことである。
二人の結婚式は侯爵が二回目ということもあり、互いの親族関係と領内の関係者のみを招待し、領内でこじんまりとした式を挙げる予定でいた。
式の準備が本格化し、いよいよ侯爵邸での新生活が始まろうとしていた――その矢先のことだった。
侯爵は、新規交易の交渉のため、新興国へ自ら赴くことになってしまったのだ。
西に位置するその国は、天候の不安定さから災害が多く、毎年のように農作物が甚大な被害を受けていた。必然的に国外からの輸入に頼らざるを得ず、そこで目をつけたのがダニエラたちの国であった。
自国の穀物や加工品を売り込み、販路を広げようと動き出したのである。
「これから式の準備で忙しくなるというのに、家を開けることになって、本当に申し訳ない。国からの要請で、断ることが出来なかったんだ。」
「いいえ、それだけキーレン様が交易交渉に欠かせない存在であることを、私は誇りに思っています。領内のことは、私と家令にすべてお任せください。それに、キーレン様が不在の間は、義父様や義母様も手を貸してくださるそうです。式の準備も滞りなく進めておきますので、どうか安心して行ってきてください。交渉が無事に終わり、キーレン様が戻られる日を、心待ちにしております。」
ダニエラのいう義父母、つまりキーレンの父と母は、彼が成人するやいなや早々に爵位を譲り、気ままな隠居生活を送っていた。息子同様、食べることが好きであり、旅先で出会った品を領内に広めたり、各国の食の紹介をする書籍を出版までしている一風変わった夫妻である。夫妻はつい先日まで国内の美食を巡る旅に出ていたのだが、キーレンが自身の不在でダニエラに苦労をかけることになるだろうと、領内に呼び戻したのだった。
「ありがとう。わからないことは、父や母、家令にすぐ相談して一人で溜め込まないようにね。どうしても判断に迷うことがあったら、手紙で知らせて。日数はかかると思うけど、やりとりは可能なはずだから。」
「承知しました。あの、どれくらいで戻られるか、目処はついているのでしょうか?」
「交渉次第だけど、早くて二カ月くらいで帰れるとは思ってる。如何せん、かの国は遠いからね。本当は君を連れて行きたいくらいなんだけど、治安もそれほど良くないから…」
「二カ月ですか…思ったよりも長いですね。やっぱり…寂しい、です…そばにいて欲しいです…」
「ダニエラ…」
ダニエラはまだ侯爵邸には移り住んでいないものの、最近はほぼ毎日キーレンに会っていた。それが二カ月もの間、会えなくなるなんて。想定していたより長い期間に、寂しさでダニエラの目に涙が滲んだ。
見かねたキーレンは、ダニエラをそっと自身の分厚い胸へと抱き寄せた。
「私の出発前に、お茶会をしようか。いつものように、ガゼボで、たくさんのお菓子を頂こう。きっと元気がでる。」
ダニエラはキーレンの優しい気遣いに、余計に涙がこぼれ落ちそうになったが、彼の大きな身体に顔を埋め、こくりと頷いた。
――そして、冒頭の甘ったるいお茶会へと繋がる。
食べさせ合いっこをして、その場にいた使用人たちを居た堪れない空気にしたダニエラとキーレンだったが、このお茶会のおかげで、ダニエラは涙ではなく、笑顔でキーレンを見送ることができたのだった。
◇
キーレンが新興国へ旅立ってからというもの、ダニエラは寂しさをごまかすように領内の仕事に没頭した。
元侯爵である義父や家令の支えもあり、与えられた業務をひとつひとつ淡々と、しかし着実にこなしていく。
同時に、式の準備も義母の助言を受けながら進めていった。
義父母はキーレンと同じく食べることが大好きで、体形もどこか彼を思い起こさせる丸みに溢れている。
ふたりと接していると、時折キーレンの面影がよぎり、会えない寂しさが少し和らぐのだった。
――そうして、いつの間にか、彼が戻ってくると言っていた、二カ月の期限が過ぎようとしていた。
「難航しているのですか?」
新興国からの使者に、キーレンたちの現在の状況を伝えられ、ダニエラの顔が強張った。
「はい。先方の要求と折り合いがつかず……交渉の場は常に緊張状態にあります。我が国はあまり歓迎されていないようで、外交団はかなり厳しい環境下に身を置いている、との報せも届いております」
「そんな…」
新興国の治安が良くないことは聞いていた。だが、まさか外交の最中に命の危険に晒されるほどとは思ってもみなかった。もしそのような事態に発展すれば、戦争も避けられないだろう。胸の奥底が冷たくなるのを、ダニエラは感じた。
「何か、私が、出来ることは…」
「どうか無事をお祈りください。侯爵からは、ダニエラ様宛ての手紙を預かっております。よろしければ、お返事を書かれてはいかがでしょうか。明日、受け取りにもう一度こちらへ参ります。」
ダニエラは伝令から受け取った手紙を部屋に持ち帰り、震える手で持ちながら中身に目を落とす。
そこには、彼の性格が現れたような丁寧な字でこう書かれていた。
『ダニエラ、元気かい?体調に代わりはないかい?こちらはなんとかやっているから、私のことは心配しなくていい。この国は主食がトウモロコシを蒸したものなんだ。自国の食文化と違う部分が多くて面白いよ。帰ったら、たくさん話をしよう、君と早くお茶会がしたい。仕事は無理をしないようにね。それでは身体に気を付けて。』
「私の心配ばかり…」
手紙でも、キーレンは優しく、ダニエラの心を温かくしてくれる。ダニエラはすぐさま机に向かい、手紙を書いた。余計な心配をかけないように、領内の出来事や義母、義父のこと、それから最近街で流行り始めた食べ物のことなど――
◇
結局、キーレンの帰国は出発からおよそ半年、結婚式の日程が差し迫った頃となった。
ダニエラが手紙の返事を送って間もなく、こちら側が価格の引き下げ等大きく譲歩する形ではあったが、なんとか輸出協定を締結できたらしい。
しかし、安堵も束の間、帰国の準備を整えた矢先に事態は急変した。連日の豪雨と台風が滞在地を直撃し、周辺一帯は水害に見舞われ、帰国の道が完全に断たれてしまったのだ。
道路の復旧には想像以上の時間を要したうえ、復興支援に駆り出された大使たちは滞在先での援助活動に追われることとなり、その結果として帰国は大幅に遅れることとなった。
「ただいま、ダニエラ!」
バンと開け放たれた扉から、ダニエラを呼ぶ声がした。
キーレンの帰宅はまだ数日先と聞かされていたので、出迎えの準備をしてなかったダニエラは、慌てて玄関へと駆けつけた。
そこには、ダニエラが待ち焦がれていた人の姿があったのだが――少し、様子がおかしい。ん?と思い、その場で立ち止まる。
声の主であるキーレンは、ダニエラを見つけた途端、ぱっと表情を明るくした。
そして迷いのない足取りで彼女へと駆け寄り、そのまま勢いよく腕を回して抱きしめた。
それは、不意を突かれたダニエラの身体が、きゅっと後ろへと押し返されるほどの、強い抱擁だった。
「遅くなってすまない。早くダニエラに会いたくて、途中から馬に乗り換えて来たんだ…おかげで予定より数日早く着いたよ。」
キーレンが声を掛けるも、久しぶりに会った婚約者からの返事がなく、少し身体を離して彼女の顔を覗きむ。
「ダニエラ?」
「え…あの、キーレン様?…であってます?」
ダニエラは目の前の人物が婚約者のキーレンであることが信じられず、失礼ながらも本人であるか確認をしてしまった。
「ひどいよダニエラ…たった半年で婚約者の顔を忘れてしまうなんて…私は君のことを一秒たりとも忘れたことはなかったというのに…」
「いえ、そういう意味ではなく…」
(なんだ、この薔薇を背負った見た目の美丈夫は)
自分を抱きしめている人物は、すらりとした長身で、その身体付きは程よく筋肉がついてるのが見てとれた。
大きさといえば、かつてのキーレンの半分ほど。身体は全くぷにぷにしておらず、むしろ全身がゴツゴツと角ばっていた。
さらにこちらを覗き込む顔には、見覚えのある翠の切れ長の瞳がついているものの、目の大きさは自分の知っているものよりずっと大きい。
その大きな瞳を含め、顔のパーツはすべて完璧な比率を保っており、十人見れば十人が整っていると言わんばかりの美しさを誇っていた。
そう、余計な肉が無くなった彼は、めちゃくちゃに顔が良かった。
「…とってもお痩せになりました?」
しかし、ダニエラは、それらを端的に「やせたよね?」の一言で強引にまとめた。非常に簡潔である。
「ほぼ絶食状態だったからね…復興支援で現地で肉体労働もしていたし…。」
げんなりした様子で多くを語らないキーレンの様子から、本当に大変だったことが伺えた。
「私も相当痩せてしまったけど、ダニエラも少し痩せてしまったんじゃない?」
彼の鋭い指摘に思わずドキリとする。
実はここ数か月、キーレン様のことを心配し過ぎて食事が喉を通らなかったのだ。
いや、嘘だ。しっかり食べてはいたのだが、いつもの自分の半分の量でお腹がいっぱいになってしまっていた。
ドレスが心なしか緩くなっている気はしていたが、指摘されるほどとは思っていなかった。
「キーレン様のことが心配で、食欲が無くて…」
「本当、心配かけてごめんね。」
「あの、お手紙をありがとうございました。私、キーレン様がいない間…何度も読み返してしまいました。早く会えますようにって、筆跡をなぞったりもして…」
「こちらこそありがとう。私もダニエラの手紙を何度も見返したよ。あの手紙が、向こうでの私の心の支えになっていた。本当にありがとう。」
お互いに送りあった手紙を心の支えにしていたらしい。そのことが嬉しかったのか、キーレンは顔を赤くして頬を掻く。その様子は、以前のキーレンとなんら変わらない。
ダニエラは、キーレンの見た目が変わってしまったことで、話していてもまるで別人と会話しているような気がして落ち着かなかったのだが、しかし、前と変わらず可愛らしい仕草を見せる彼の様子に、ようやく安堵した。
「あの…一度休まれたら、何かお召しがりになりますか?お腹が空いているんじゃありませんか?」
「ああ、お願いしたい。やっと君と一緒に食事が出来る。」
「はい、私も、貴方と食卓を囲めることをずっと心待ちにしておりました。おかえりなさい、キーレン様!」
その言葉に、二人はもう一度きつく抱擁し合った。
ダニエラは小休憩をし身支度を整えたキーレンと共に、久しぶりの食事を囲む。
ずっと食欲の無かったダニエラだったが、キーレンがいることで、いつもの調子を取り戻していた。侯爵邸の素晴らしい腕の料理に舌鼓を打ち、次々と目の前の食事を平らげていく。
ダニエラとキーレンは、半年分の積もる話をしながら食事を進めていた。ところが、ダニエラはふと気づいた。キーレンが普段の半分以下しか口にしておらず、食事の手を止めていることに。
「?どこか調子が悪いのですか?」
「いや、向こうにいる間、軽く飢餓状態になっていたせいか、胃が小さくなってしまったようなんだ。すまない、これ以上は食べれそうもない。」
「なんてこと…体調は大丈夫なんですか?」
「ああ、体調はなんともないよ。でも、随分前から、少しの量しか食べることが出来なくなってしまったんだ。食べることが私の楽しみだったのに…これっぽっちで満足してしまう身体になるなんて。それに、せっかくの食事を残してしまうなんて、作り手にも食材にも申し訳ない。」
キーレンが残してしまった皿を悲しげに見つめる。以前であればこの量などすぐに完食し、デザートまで付けていただろうに。
そんなキーレンの悲しそうな表情を見て、ダニエラは彼の手にそっと自分の手を添える。
「キーレン様、私が代わりにすべて食べて差し上げます!貴方が食べれない分、私が貴方の胃袋になりましょう。キーレン様はどうか無理することなく、少しずつ召し上がってください。そしたら私もキーレン様も、作り手も食材も、みんな幸せじゃないですか?」
「ダニエラ…」
なんだなんだ貴方の胃袋って。
使用人たちは半年前のデジャヴかのように、主人たちの醸し出す甘ったるい空気に、思わず胸焼けしそうになった。
◇
その後、急ピッチで整えられた結婚披露宴では、小規模ながらたくさんの人に祝福された…のだが、参列者は皆――親族関係者でさえ、キーレンのことが最初誰だかわからなかったらしい。キーレンとダニエラが会場に入場した際、場内が一気にざわついた。
新郎、一体誰、と。
それもそうだろう。彼の身体の面積は以前の半分以下になっており、しかも、これまでお肉に隠れてわからなかったが、痩せて肉が落ちた途端、あら不思議、とんでもなく整った顔をしていたのだから。
記憶の中のぽっちゃり侯爵と白金の髪と翠の目が一致することで、かろうじて本人とわかるかどうか、という変貌っぷりである。
しかし、一旦それがキーレンだとわかると、ざわつきはすべて祝福の言葉へと変わった。
披露宴のあとに領地を二人で巡ったのだが、領民たちも親族たちと同様の反応をした。
「侯爵様が半分になった!」とざわめきが起き、彼の病気を心配した領民が、食材の貢ぎ物を次々と渡していったのは良い思い出である。
ちなみに結婚後に参加した夜会でも同じ現象が起きた。新婚のはずのダニエラが、侯爵ではない誰かを連れている!?とざわめきが起き、それがオウネル侯爵本人だとわかると、さらなるざわめきが巻き起こった。
痩せて精悍さを増したキーレンと、もともと細身のダニエラは、誰が見ても目を引く美男美女の夫婦だった。
結婚祝いはもちろん、その劇的な外見の変化と、彼が成し遂げた交易交渉の成功も相まって、夜会ではひっきりなしに人々がキーレンに声をかけていた。
しかし、夜会も後半に差しかかる頃になると、二人はさりげなく人波から姿を消し、仲睦まじく食事を楽しむ姿がしばしば目撃された。
別の夜会でも同じで、料理を口に運ぶのは主に侯爵夫人、そしてその感想を聞くのは侯爵というのが、いつしか二人の夫婦のスタイルとして定着していた。
その微笑ましい甘さを目にした者たちは、
「見ている方が胸焼けしそうだ」と、
嬉しそうに、そして呆れたように囁き合ったという。
食事量が減った(というか平均レベルになった)キーレンだっだが、美味しいものへの追及は止むことはなかった。
そのうち穀倉地帯として有名だったオウネル領は、後に美食の街として栄え、国内有数の観光名所となっていた。ダニエラたちはそれで満足はせず、義父母たちと同様、家督を子供たちに譲ってからは各所へ赴き常に新しい美味しいものを取り入れることに注力した。
各地から仕入れたものをガゼボのテーブルに並べ、それをともに囲む。この二人だけのお茶会は、ダニエラたちの一番大切なひとときとなった。
量が食べられ無くなってしまったキーレンに代わり、ダニエラが残さず食べて、味について感想を述べる。
キーレンがダニエラを羨ましがったり、ダニエラがキーレンに対し、もっと食べて欲しいなんて要求することはない。
別に相手が同じ食事量で無くてもいいのだ。相手がそれで幸せなら。
――かつて"ぽっちゃり侯爵"と"大食い令嬢"と揶揄された二人であったが、やがて食の流行を牽引する仲睦まじい夫婦として名を馳せることとなったという。
(おわり)
最後までお読みいただきありがとうございました。ぽっちゃりシリーズに珍しい痩せて終わりエンドです。
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