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ぽっちゃりシリーズ

ぽっちゃり侯爵と大食い令嬢の甘い婚約生活

作者: piyo
掲載日:2025/11/16

銀製で装飾もシンプルな三段のケーキスタンドには、見るからに上品な軽食や菓子が並んでいる。


その横に置かれた、同じく銀のトレーの上には、プディングやゼリー、カットされた果物が彩り豊かに盛られ、テーブルを華やかに彩っていた。

カップに注がれた紅茶も相まって、その光景は、かつて絵本で見た少女と動物たちのお茶会のようだ。

甘やかな香りが、侯爵邸のガゼボの周囲を包み込む。


その暖かな日差しが差し込む席に座っているのは、一組の男女だった。

ふくよかな頬の男性が、優しいまなざしで目の前の女性を見つめている。

対する女性は、テーブル上の菓子たちにすっかり心を奪われ、そんな視線にはまるで気づいていない。


男性の名は、キーレン・オウネル。

白金の髪を持つ彼は、同年代の平均的な男性よりも、かなり恰幅がよく見える。

一方、アッシュブロンドの長い髪をした、細身でしなやかな体つきの女性は、ダニエラ・ローガンである。


「見て、ダニエラ。こっちは西のサイ国から取り寄せたカカオを使った焼き菓子で、これは今、城下で流行っているパイだよ。

いつものように、全部味見していっていいからね」


「美味しそうですが……今日はなんだか、胸がいっぱいで。

……全部は無理かもしれません……」


ダニエラは表情に影を落とし、力なく答えた。


「そう言わずに。しばらく会えなくなるんだから……ほら、これは私のおすすめだ。

はい、あーん」


ふくふくした指で持ち上げられたフィナンシェを、ダニエラは無表情に見つめ――

パクリと、一口齧った。


「……甘い、です」


「ふふ、シンプルな感想だね。私はこっちが食べたいな?」


マカロンを指差し、キーレンはダニエラに食べさせて欲しいとアピールする。

やれやれ、と指差されたマカロンを摘み、彼の口元へ運んでやった。


すると、「!」パクリと指先まで食べられてしまい、咄嗟に手を引っ込める。


「おふざけは辞めてください。」


ダニエラは頬を赤くし、キーレンを睨みつける。


「はは、余りに美味しそうだったから、つい」


キーレンはというと、悪びれもなく楽しげに微笑みを返す。


後ろに控えてる侍女たちは思う。


なんだよ、この甘ったるい空間は、と。





「キーレン・オウネル様ですか?

あのオウネル家のご子息? なんでまたそんな大物が、うちなんかに」


これまで仕事一筋だったダニエラ・ローガンに、突如として結婚話が舞い込んできた。


子爵令嬢である彼女は、十八歳の頃から宮廷で女性秘書官として今の年になるまで、あくせくと働き続けてきた。

実家の子爵家は政略結婚をするほどの家柄でもなく、後継として兄夫婦が既に実家を継いでいる。

そのため、親からは恋愛や結婚の類は本人の自由にしてよいと言われており、これまで婚約者の類もいたことはなかった。


気が付けばもう二十三歳――未だ未婚のダニエラを心配した上司であるガリウスが、親よりも先に今回の縁談を取り付けてきたのだ。


しかも、そのお相手というのがキーレン・オウネル侯爵、二十八歳。


肥沃な穀倉地帯を治める名門の当主であり、国外との交易で莫大な利を生む切れ者だ。

社交界の事情にうといダニエラでさえ、その名前だけは聞き及んでいた。


「というより、侯爵様はまだ未婚でらっしゃったんですね。」


「ああ、実は数年前に一度ご結婚されているんだが……。

お子ができる前に、すぐ離縁になってしまったそうだ。それで、そろそろ後継も必要だと次のパートナーを探していたところに、ローガン君の噂を聞きつけて、向こうから打診があったんだよ。」


「噂、とは?」


「痩せの大食い令嬢、と」


「失敬な」


間髪入れずに、上司に対して苦言を返す。


だが、ガリウスの言葉は嘘ではない。

ダニエラは長身で細身のすらりとした体形だが、少しばかり――いや、かなりの大食漢で、底なしの胃袋を持っていた。


どれだけ食べても太らないという羨ましい体質の持ち主で、職場の同僚たちからは冗談めかして「ダニエラが食べたものは胃袋を通って宇宙の彼方に消えているんだ」とまで言われているほどだ。


たまに社交の場に顔を出すことがあっても、料理を片手に談笑しているのがいつもの姿で、そのせいか、いつしか“大食い令嬢”という少し不名誉なあだ名まで付いてしまった。


「でも、なぜ格下の子爵家の大食い娘なんかに、侯爵様が婚約を申し込んで来たんでしょうか?」


ダニエラは全く持って解せなかった。

今、経営面ではノリに乗ってる侯爵である。

後妻を娶るとしても、引く手数多であるはずだ。

なぜ下級貴族で、しかも政治的にも何の旨味もない自分に声がかかったのだろうか。


「あー、えと、ダニエラ君は男性の外見にこだわる方かな?」


突然、ガリウスはダニエラの尋ねた答えとは関係のないことを確認してきた。

その質問に、ダニエラは何のためらいも無く、はっきりした口調で答えを返す。


「いえ、外見よりも私と同じくらい強靭な胃袋を持っているかどうかにこだわります」

「君はほんとにブレないね! でも、それなら良かったよ」


先程の歯切れが悪い聞き方から一転して、ガリウスは安心した様子で、ダニエラに婚約の話が降って湧いた理由を語り出した。


「侯爵は君と同じようにかなり食べる方でね。

でも、痩せの大食いの君とは違って、外見にもその貫禄が出ているお方なんだ。――そのせいか、どうも見た目で敬遠してしまうご令嬢が多いらしくてね……」

「あら……」


ダニエラはオウネル侯爵に今まで会ったことはないが、ガリウスの言い方からしてさぞかしふくよかな方なんだろうと予想する。

彼女としては、健康であれば太ってようが痩せてようがどっちでもよかった。


それよりも――自分と同じくらい食べることが出来るほうが、外見なんかよりも、何よりも魅力的に思えたから。


「それに、前の結婚は政略結婚だったそうなんだけれど、

奥方が侯爵の見た目を受け付けられなかったことが主な理由で、結局は離縁されてしまったらしいんだ。

それどころか、一緒に暮らしているうちに自分まで太ってしまったとかで、慰謝料まで請求されたんだって。

その反省から、今度こそ“食の相性”が合う相手を探していたらしいよ」


「酷い目に遭われたんですね……」


(慰謝料って……元奥方様も、食欲を自制すればいいだけなのに……。自分が体形を維持出来なかったのを、相手のせいにするなんて)


そんな理由で離縁されたなら、次の相手に食生活が合う者を探すのも納得がいく。

ダニエラは侯爵に対し同情を寄せつつ、ガリウスに侯爵の求めている人物像を確認する。


「それで、侯爵様にとっては、食の相性というか、要は結婚相手となる人が、よく食べる人かどうかを気にされているということですよね。あと、見た目を気にする人なのかどうか」


「まあそのとおりだな。とにかく、君は彼のお眼鏡にかなったらしい。

後妻といえど、君の実家としても、侯爵家と縁続きになれるのは良いことなんじゃないだろうか」


「まあ実家のことは置いといて……私もそろそろ結婚したいとは思っていましたので、願ってもないことです。

お話を聞いている限り、食欲に関しては気が合いそうな感じがしますし……」


ダニエラの前向きな言葉に、ガリウスがぎょっとした顔をした。


「え、ローガン君って結婚に興味あったの!?

こういってしまうのもなんだが、君は仕事一筋だから、お断りされるかと思っていたよ」


なぜかガリウスは、ダニエラが断ってくるのを前提で話を持ってきたらしい。

その反応に、ダニエラは眉根を寄せる。


「失礼な。私だって人並みに結婚願望はありますよ。でも、そういったお相手がいなかったから仕事に打ち込むしかなかったというか……」


彼女の学生時代の友人たちは皆、結婚して子供までいる。

職場の同期も、数年前にみんな結婚と同時に退職してしまっていた。

気付けばダニエラはこの職場で古参の人間になっており、ちょうど少しばかり将来に不安を抱えていたところであった。


ちなみに、これまで男性経験がなかったわけではない。

ダニエラはすらりとした美貌の持ち主で、容姿だけなら誰もが認めるほどだった。そのため、彼女に近づく男性は決して少なくなかった。


だが――デートで食事を共にした瞬間、皆そろって彼女の元を去っていった。

一番強烈な別れ言葉は、「君といると、食費がかかって仕方ない」だ。

前菜に二品、メイン三品、デザート二品とダニエラにしては控え目にしたにも関わらず、である。(ちなみにこの男性はダニエラの三分の一しか食べない少食っぷりだった。)


そんな経験もあって、ダニエラはパートナーには自分と同じ食事量を食べる人を求めていた。

そのほうが相手に遠慮せず食事を楽しめるし、気を遣わなくて済むからだ。

今回の"よく食べる人"だという侯爵からの打診は、ダニエラとしては願ったり叶ったりな話だった。


「実は、君の優秀な仕事ぶりも評価されてるんだよ。侯爵家に嫁ぐからには、オウネル侯爵夫人として彼の仕事の一端を任されることになるだろうからね。

うちとしては優秀な部下が減ってしまうのは非常に惜しいんだけど……でも、ダニエラ君が思いのほか好意的で良かったよ」


「寧ろ――自分でも少し驚いています。こちらの一件、一度両親にも確認し、前向きに検討させて頂きます」


ダニエラは縁談を仲介してくれたガリウスに対し、口に弧を描きながら頭を下げた。





「はじめまして、ローガン子爵令嬢。私はキーレン・オウネルです。突然の誘いに応じてくれて、嬉しく思います」


「はじめましてオウネル侯爵様。こちらこそ、お招き頂きありがとうございます」


今、ダニエラはたった一人でオウネル侯爵邸の応接間にて、オウネル侯爵本人と対面していた。


なぜこんな状況になっているのかというと、「正式な返事をする前に、よかったら一度うちでお茶でもしないか」と、仲人のガリウスを通じて侯爵から誘いを受けたためである。


オウネル侯爵としては、自身の体形が女性受けしないことを承知しており、ダニエラにも一度、自分の人となりを直接見てもらったうえで、縁談を進めるかどうか判断してほしい――そう考え、彼女への配慮としてこの場を設けたのだった。


しかしダニエラは、侯爵邸でのお茶会といえば、きっと見事な茶菓子が並ぶに違いない――そう思い込むあまり、深く考えもせず、二つ返事で承諾してしまった。


しかも当日になって、肝心の仲人であるガリウスが「用事がある」などと言い出し、急遽欠席となった。(ダニエラは、絶対に用事などないと思っている)


ガリウス抜きで、初対面の高位貴族の屋敷をダニエラ一人で訪ねるなど、日程を変更したほうがいいのでは――とも思ったのだが、向こうもすでに準備を終えているだろうし、何より彼女の頭の中はスイーツでいっぱいだった。


結局、「日程を再調整するほうがかえって大変だろう」という相手への配慮を言い訳に――今に至る。


「ガリウス殿は今日来れなくなってしまって残念でしたね」

「ええ、急な用事が入ったみたいで……私一人で上がり込んでしまって申し訳ないです」

「いえいえ、ローガン子爵令嬢に来ていただけて、こちらとしてはとても喜ばしいですよ」


そう言って優しく微笑むオウネル侯爵は、噂に違わず大きな人だった。


長身であるダニエラよりも頭一つ大きく、横幅に関しては彼女がすっぽりと隠れてしまうくらいに大きい。

お腹の大きさなんて、ダニエラの父や兄の三倍はあるように思えた。

しかしながら、その姿が不快に映るかと言われたらそういう訳では無い。寧ろ、侯爵の格好は全てが洗練されていた。


白金の長い髪を一つに結び、服装はというと、少し窮屈そうではあるが、落ち着いた色味で纏め、清潔感と品が漂っていた。顔立ちはというと、盛り上がった頬肉に隠れて分かりづらいのだが、よく見るとその瞳は翠色をしており、とても優しげな印象を与える。


昨今この国では痩身の男性ブームが来ているのだが、ダニエラとしてはこれくらいでっぷりとしてても全然許容範囲である。

職場の同僚男性なんて、みんな繁忙期になるとゲッソリとやつれ、「今日の昼、草だけでいいわ」なんていうしなびた体格の者ばかりである。なんなら自分より体重が軽い者もいるのではないだろうか。

ダニエラはそんな人たちに長年囲まれて来たので、栄養満点のどっしりした体格の侯爵が物珍しかったりする。


「来て早々ですが、庭を案内しましょう。今日は天気が良かったので、外にお茶を用意させています」


自然な動きで差し出された、彼のふくふくとした手を取って外へと向かう。


――さすがは高位貴族である。身体が大き過ぎることに目を瞑れば、一つ一つの所作は、全てが上品で優雅だった。


侯爵の案内で、見事な花々が咲き乱れる庭園を、二人はゆっくりと並んで歩いていく。

実家の二倍どころか、三倍はありそうな広大な侯爵邸は、門から屋敷までの道のりも相当に長い。そして庭園の中もまた、思わずため息が出るほどの広さだった。


とくに言葉を交わすでもない。けれど、その沈黙はダニエラにとって、何一つ気になるものではなかった。

ダニエラが花に気を取られると、侯爵も歩調を合わせるように歩幅を緩める。

彼女を気遣ってくれる、その一つ一つの動作が、なんだかくすぐったく感じられた。


しばらく進むと、丸い白い屋根をもつガゼボが見えてきた。

その下には、すでに使用人たちが控えているのが見える。


「あちらです」


オウネル侯爵に先導されるまま近づいていくと、甘い香りとともに、テーブルの上に所狭しと並べられた甘味の数々が視界に飛び込んできた。

ダニエラがこれまで見たこともない形のスイーツたちは、空腹の胃袋を、視覚だけで暴力的なまでに刺激してくる。


「さあ、どうぞ」


オウネル侯爵が軽やかな動作で椅子を引く。

促されるままに「ありがとうございます」と一言告げてから、ダニエラは腰を下ろした。


「……綺麗。

どれも美味しそうです」


菓子はもちろん、器やカトラリー、飾られた花に至るまで――すべてが一体となり、美味を引き立てるための演出となっていた。


「見た目だけでなく、味も抜群ですよ。これらは主に、うちの領地で取れた小麦を使った焼き菓子や、交易で仕入れた外国の菓子たちです。

お好きなだけ召し上がってください。こちらを摘まみながら、お茶をしましょう」


「ありがとうございます。――遠慮なく頂かせてもらいます」


こういうとき、ダニエラは本当に遠慮を知らない。

食を前にした途端、それまで僅かばかりあった緊張は、すべて吹き飛んでしまうのだ。

今回も例に漏れず、彼女の緊張ははるか彼方へと姿を消してしまった。


ダニエラの横から、使用人が香りのいい紅茶を丁寧に注いでいく。

この上品な香りも、彼女にとっては初めて嗅ぐものだ。

彼女は注がれたばかりの紅茶を一口含み、改めて目の前のスイーツたちを見据えた。


――侯爵がいることをすっかり忘れ、話そっちのけで、どれから頂こうかと品定めをする。


(……シブーストも美味しそうだけど、形が可愛いこのクッキーたちも気になるわ)


むむむ、と難しい顔で悩んでいる彼女を見かねたのか、オウネル侯爵が自分のおすすめを口にした。


「最初に、このオランジェットはいかがでしょう。こちらの紅茶によく合いますよ」

「まあ……では、そちらを頂きます」


(いけない、侯爵様のことをすっかり忘れていたわ)


わりと致命的なうっかりを反省しつつトングに手を伸ばすと、つかさず側に控えていた使用人が取り分けてくれた。

さすが侯爵邸だ。自分のことは自分でやる方針の子爵邸うちとは、まるで違う。


取り分けてくれた皿の上には、丸く薄くスライスされたオレンジピールの砂糖漬けに、チョコレートが上品に半分だけコーティングされたオランジェットが三枚並んでいた。

ダニエラはその見た目を存分に味わったあと、粗相のないよう丁寧な動作で一枚を摘まみ、一口ぱくりと口に含む。


(め、めちゃくちゃ美味しい――!)


ほろ苦さのあるオレンジピールを、周りの砂糖がやさしく包み込み、さらにカリッとしたチョコレートのコーティングが、心地よい食感とほどよい甘味を添えている。


「……とんでもなく、美味しいです」


「それは良かった」


ダニエラの言葉に、侯爵はほっとしたように顔を綻ばせた。


「こちらは南のターザム領から取り寄せたオレンジで作られたものです。うちのオウネル領の焼き菓子店でも、一番人気の品なんですよ」


「そうなんですね! 一番人気なのも納得です。これなら、いくらでも食べられちゃいます」


(本当に、百枚くらい食べたいくらい美味しいわ。街で売られているなら、帰りに箱買いして帰りたい……もちろん、お土産ではなく自分用に)


ダニエラはおかわりを頼もうかと一瞬迷ったが、ほかの品もあまりに魅力的で、どうにか自制することにした。


「別のものも、頂いてよろしいでしょうか?」

「もちろんです。次は、これなどいかがでしょう」


ダニエラの反応がよほど良かったのか、オウネル侯爵は次々と新しいおすすめを紹介してくれた。

いずれも彼が交易で扱っている品か、オウネル領で作られているもので、ダニエラにとっては初めて口にするものばかりだった。


当然、ダニエラは遠慮することなく、それらを次々とお腹へと収めていく。

オウネル侯爵もまた、勧めるだけでなく、彼女と同じようなペースで一緒に口にしていた。


同じような量を、同じような速さで食べる。

普通の人にとっては、日常の中にありふれた光景で、気に留めることすらないだろう。


しかし――

ダニエラにとって、この状況は決してありふれたものではなかった。


同性では、まずこの状況はありえない。


お茶をしても、たいていはすぐに「もうお腹がいっぱい」だとか、「太ってしまうのは嫌だから」と言われ、小さな茶菓子を一つつまんだだけで終わってしまうのだ。

だからといって異性でも同様で、最初は同じペースでも、途中から「よくそんなに食べられるな」と呆れられてしまう。


そのため率直に言って、ダニエラにとって、侯爵が同じペースで次々とお菓子を食べていくこの状況は、控えめに言っても最大級に嬉しいものだった。

無理やり言葉に当てはめるなら、同志を見つけたような気分である。


そうして勧められるまま一通りの種類を食べ終えたあと、彼女はふと我に返った。


(あれ、私……味の感想しか話してなくない?)


「あの……侯爵様、すみません。

私、お菓子に夢中になり過ぎて、侯爵様ご自身のことを、まったくお伺いしていませんでした……」


(恥ずかしい。これだから下位貴族は、なんて内心呆れられていないかしら……)


ダニエラがおずおずと顔を上げて前を見ると、侯爵は丸い顔をきょとんとさせていた。


「私のこと、ですか?」


「はい、侯爵様のことです。だって、私との縁談を進めるために呼んでいただいたんですよね?

でしたら、もっとお互いのことを知らないと」

「……」


ダニエラの言葉に、侯爵様は黙り込んでしまった。


(あれ、元々そういう話だったんじゃなかったっけ。私、早とちりした?

そもそも今日って、どんな目的で呼ばれたのだったんだっけ?)


少しの沈黙のあと、侯爵は顔をわずかに俯かせ、

「はい、そうですね……すみません。そんなふうに前向きなお言葉をいただけるとは思っていなくて……」

と小さく呟いた。


少し気恥ずかしそうにしながら、ふくふくした指で頬をかく。

その仕草は、まるで照れている少年のようで、予想外で調子が狂う。


(可愛い……)


……年上で、しかも格上の方に対して、「可愛い」などと思うのは失礼かもしれないが、率直にそう思ってしまったのだから、仕方がない。


「――実は以前、ザック伯爵邸のパーティーで、出された料理をとても美味しそうに召し上がっている貴方を、お見かけしたことがあるんです」


「え!?」


唐突に、侯爵の口からダニエラのことが語られた。


(ザック伯爵邸のパーティー? どれだったかしら……)


そもそも、社交の場に顔を出すこと自体が少ないダニエラだが、

たとえ参加する場合でも、相手探しやダンスのためではなく、もっぱら料理目当てで出席していた。


そんな彼女が記憶を掘り起こして思い出したのは――


「あ! 魚介料理が絶品だった、あれですか!」


やはり、そのときのパーティーで出された料理のことだった。


「はい。私も、あのとき出された魚介料理は、持って帰りたいくらい素晴らしかったと記憶しています。

ザック伯爵領は海に面していますから、どの食材も新鮮で……」


「ふふ、侯爵様もそう思っていらしたんですね。実は私、あのあとこっそり残り物を包んでもらったんですよ」


「……なんと」


(ザック伯爵邸のパーティーは――というか、あそこの料理は本当に素晴らしかったわ)


フィッシュ・アンド・チップスにロブスター、ブイヤベース、白身魚のソテー……。

ダニエラは父親に咎められながらも、社交そっちのけで数々の魚介料理に舌鼓を打った。

そのあまりの食べっぷりに、主催の伯爵が気を利かせ、パーティーの終わりに「よろしければ」と、日持ちするものを選んで持ち帰らせてくれたほどである。


「私は、あのパーティーでローガン嬢のことを見初めました。

なんて気持ちのいい食べっぷりなんだろう、と。

人生を共にするなら、食事を心から楽しめる方がいい――そう思ったのです。

……残念ながら、そのときは声をかける勇気が出ず、遠くから眺めることしかできませんでしたが」


侯爵は少し俯いたあと、すぐに前を向き、意を決したように言葉を告げた。


「――私は以前、相手の方から離縁され、外見もこの通りです。

それでも、あなたとなら幸せな結婚生活を送れるのではないかと思い、ガリウス殿に頼んで縁談を持ち込んでもらいました」


勢いのままに食べていた姿を見られていたこと。

そして、まるでプロポーズのような言葉を向けられたこと。

その両方に、ダニエラの頬はみるみる熱を帯びていく。


「そ、そうだったんですね……」


ダニエラの胸は、ほんのりと温かくなっていた。

「気持ちよく食べる」と言われたのは、これが初めてだったからだ。


『はしたない』

『仮にも貴族令嬢なのだから』

『慎みを持つのが淑女でしょう』


向けられる言葉は、いつも決まっている。

それらはすべて、ダニエラの行為を嗜めるものだった。


だからこそ――

侯爵の言葉は、まっすぐにダニエラの胸へと刺さった。


「……はしたない、と思いませんか?」


「なぜです? あなたの所作はとても綺麗だ。

はしたないと感じるところなど、どこにもありませんよ」


「私……普通の女性より、たくさん食べます。

その分、食費もかかってしまいますが……」


「ローガン嬢お一人を養う程度で、我が家の財が揺らぐことはありません。

それよりも、私と共に視察に出れば、試食をする機会も多くなるでしょう。

たくさん食べてくれる方が、私は嬉しい」


穏やかに微笑む侯爵に、ダニエラはなおも食い下がる。


「あの……我が家は子爵位ですし、一般教養は身についているとは思いますが、

高位貴族のような教育は受けていません……」


侯爵は、ダニエラの言葉にゆっくり首を振った。


「それについても、まったく問題ありません。

今こうしてご一緒していても、教育が足りないと感じるところは、どこにもありませんでした」


そのまま、優しく話を続ける。


「それに――ガリウス殿から、あなたが職場でとても優秀だと伺っています。

もし仮に、気になることがあるのなら、必要な教育を手配することも可能です」


まん丸な顔を少し傾け、柔らかな笑みを浮かべる侯爵。

その姿に、ダニエラの心は、見事に射抜かれた。


顔に、じわじわと熱が集まっていく。


「……私、これまで誰かと一緒にお茶や食事をする場面で、

こんなに心穏やかだったことはありません。

――いつも、人よりたくさん食べると、驚かれたり、揶揄われたり、たしなめられたりして……」


ダニエラは伏せていた視線を上げ、侯爵を真っ直ぐ見据えた。


「なので、今日このお茶会に誘っていただき、楽しい時間を過ごせて本当に感謝しています」


侯爵は、彼女の言葉にイエスかノーか、どちらの返事が来るか測りかねている様子だった。

ダニエラを見つめ、唾をごくりと飲み込む。


「――実は、親からはすでに了承をいただいております。

この度のご縁談、謹んでお受けいたします」


「!」


その言葉に、侯爵は細い目を見開いた。


――そう、ダニエラは既に両親に自分の意志を伝え、了承を得ていたのだ。


侯爵家と聞いて卒倒しかけた両親や兄夫婦も、ダニエラが望むなら、と返事をしてくれた。

もちろん、格下のローガン家から縁談を断ることなど簡単ではないのだが。


「……あ、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」

「はい、――こちらこそ」


二人は顔を赤くして微笑み合った。

お互い、恋愛に不慣れなわけではないのに、その初々しさが辺りを優しく包み込む。


――こうして、ダニエラとオウネル侯爵は、結婚を約束した婚約者となった。



あの日のあと、侯爵の動きは早かった。


文書の手続きなど諸々の処理を終え、二人は一年の婚約期間を経て結婚することになった。

オウネル侯爵は「大丈夫」と言ったものの、上位貴族に嫁ぐには教育を受けてからのほうが良いだろうと考え、ダニエラの教育期間も含めて決定されたのだ。


婚約が結ばれてからというもの、ダニエラは仕事終わりには家庭教師から礼儀作法の指導を受け、休日には侯爵邸に通い、侯爵家特有の慣習や親族構成、派閥事情について学んだ。

さらに領地運営や家政管理の基礎については、家令から直接講義を受けている。


毎日が目まぐるしく過ぎていくが、それ以上に――オウネル侯爵という人物がいかに多忙か、ダニエラは次第に理解するようになった。


広大な領地を管理し、交易交渉もこなし、そして屋敷にやって来たダニエラの相手をする。

屋敷を不在にすることも多く、あまりの多忙さに「お身体は大丈夫ですか?」と心配したところ、侯爵は「合間合間に食べてるから、風邪も引いたことないよ」と軽やかに笑った。

確かに、どれだけ忙しかろうと、職場の男性陣のようにやつれることもなく、彼は変わらずぷくぷくを維持していた。

そんな侯爵であるが、仕事のほんの少しの合間を縫ってでも、ダニエラとの時間を作ってくれた。


時にはお茶を用意してくれたものの、顔だけ出してすぐに出て行ってしまうこともあった。

ダニエラは一度、自分との時間を割くことで彼の仕事の邪魔になっているのではないかと不安になり、思わず「お忙しいのに、申し訳ございません」と謝ったことがある。


しかし、侯爵ははにかんだ笑顔で「私がダニエラの顔を見たいだけだよ」と言った。

その瞬間、ダニエラは胸がいっぱいになり、呼吸さえままならなくなった。


(侯爵様の照れた笑顔、可愛い過ぎる)


ダニエラは決して特別太った人が好きなわけではない。

けれど、彼のまん丸な顔と大きな身体は、誰よりも輝いて見えた。


彼と一緒に、たくさんの菓子とともにお茶を楽しむ――話題は他愛もないこと、というより食べ物に関することが多いのだが、侯爵と過ごすひとときは、いつしか彼女にとってかけがえのない時間になっていた。



領地管理は現在、家令が主となって行っていたが、月に一度は侯爵自らが領地内の視察を行っていた。


管理の一端をゆくゆくはダニエラが引き継ぐことになること、そして将来の領主夫人としてのお披露目ということで、侯爵はその月の視察にダニエラを伴った。


そこで、ダニエラは侯爵がいかに領民から信頼され、愛されているかを知ることとなった。


穀倉地帯の農地では、農民たちから自分たちの小麦を使ったパンを山ほど手渡され、侯爵はその場で躊躇なく味見をして感想を述べる。それが彼らの定番のやり取りのようで、侯爵と領民のあまりの垣根の低さに、ダニエラは面食らった。


領内の町を見回った際も、侯爵は次々と食料の贈り物を受け取っていた。

さらに領内で一番の繁華街に行った際には、「うちの店に来て食べていってくれ」とあちこちから声をかけられる始末であった。

その日はダニエラのために、今一番人気のお店を予約してくれており、二人はほぼすべてのメニューを美味しくいただいた。

その様子を見ていた給仕の者たちは、「婚約者の方、めっちゃ美人なのに侯爵と張るくらいの食いしん坊だ!」とざわついていたが、ダニエラたちはそのことを知らなかった。


視察の終わりに、ダニエラが「侯爵様は本当に愛されていますね」と言うと、侯爵はいつものはにかんだ笑顔で、「そうだね、私の体形はみんなの愛の賜物なんだ」と笑った。



婚約を結んで数カ月がたった頃。


ダニエラの教育も大分進んできたことから、侯爵は彼女を婚約者として夜会に伴った。

これまでも二人で出掛けたことはあったが、全て領内の話であり、外で二人きりで出掛けるのはこれが初めてであった。


その日、ダニエラはキーレンに贈られた深い緑のドレスと装飾品を身にまとい、首にはキーレンの瞳の色である翠の宝石をあしらったネックレスを着けていた。

侯爵もダニエラと同系色の装いで、二人が婚約者同士であることをさりげなく示していた。


(ああ、弾けそうなボタンも可愛い……)


侯爵の衣装は少しパンパンではあったが、ダニエラにとってはそれすらも愛らしく映った。

いわゆる、恋愛フィルターの効果である。


侯爵の方も、ダニエラを見てそのふっくらとした頬を染め、「……とても、美しいです」と、言葉少なに褒めてくれた。

ダニエラはそのシンプルな一言が何よりも嬉しく、はにかんだ特大の微笑みを返した。


彼女の見た目は手足が細く長く、女性にしては背も高い。

侯爵は横幅に目を取られがちだが、一般男性の平均よりも上背があるため、ヒールを履いたダニエラとちょうど良い身長差になっていた。

一見すると美女と野獣のようにも見えなくもないが、侯爵の柔和な雰囲気と優雅な所作により、ダニエラは全く引けを取らなかった。


今回二人が参加したのは、高位貴族が集う大規模な夜会である。

いつもダニエラが参加しているような夜会とは、集まる人も雰囲気もまるで異なっていた。


(これが、侯爵家が参加する夜会――

婚約者として、侯爵様に恥をかかせないようにしなきゃ)


最初は侯爵の面目を潰さぬよう緊張していたダニエラだったが、彼は終始自然に彼女をエスコートし、会話で答えに詰まりそうになると、さりげなくフォローを入れてくれた。

侯爵のそんな気の利いた助けのおかげで、ダニエラも滞りなく社交の場を楽しむことができた。


ただ――残念ながら、この夜会では思う存分料理を味わうことはできなかった。


婚約者としての挨拶回りも理由の一つだが、それ以上に、侯爵はひっきりなしに人々に囲まれていた。ひとつの会話が終わると、間髪入れずに次の相手がやって来る。

豊かな穀倉地帯と多くの交易路を押さえる侯爵は、経済面で欠かせない存在であるうえ、その穏やかな人柄ゆえに周囲から厚く慕われているのだと、ダニエラには思えた。


途中、ダニエラは化粧室へ向かうため、侯爵のもとを一時的に離れることになった。

その帰り際、ひとりの見知らぬ女性が、突然声をかけてきた。


「まあ、あなたがキーレンの婚約者だという方かしら?」


立ち止まったダニエラを、女性は上から下までじっと眺め、感想めいた言葉を口にした。

「ずいぶんとほっそりしていらっしゃるのね」


(なんて、失礼な人……)


初対面の相手に、いきなり容姿について不躾なことを言われ、ダニエラは眉をひそめた。


「はい。私がキーレン・オウネル侯爵の婚約者、ダニエラ・ローガン、ローガン子爵家の娘でございます。

恐れ入りますが、あなたのお名前をうかがってもよろしいでしょうか?」


ダニエラは女性に対する嫌悪を隠し、毅然とした態度で告げた。

そんな彼女の言葉に、女性は「あら、失礼」と素直に自身の名前を名乗ってきた。


「わたくしはリアベル・ザッツバーグ、ザッツバーグ伯爵家の者よ」


ダニエラは頭の中で、侯爵邸での教育で習った貴族のリストからザッツバーグ家を思い出す。

確か、ザッツバーグ伯爵家は侯爵の元奥方が再婚した相手の家だ。


「貴方が侯爵様の……」


――前妻。


口に出すことはできなかった。

リアベルはダニエラと同じく二十代後半で、キツめの顔立ちに、女性らしい肉感的な身体つきをしていた。


「ええ、そうよ。キーレンの前妻よ。それにしても、下位貴族の貴方がよく彼の婚約者になんてなれたわね。やっぱり、若さと、見た目かしら?」


(また……! この方、心の中の声を全部しゃべってるかのようだわ)


あまりの言いように、ダニエラは心の中で悪態をついた。

さすがに不快感を表情に出すダニエラに、リアベルは全く気付くはずもなく、言葉を続けた。


「……そうそう、前妻として、貴方に一つ忠告しといてあげるわ。

彼、見た目以外は最高の人かもしれないけれど、結婚したらきっと苦労するわよ。

ずっと忙しいから全然かまってもらえないし、それに何より、結婚して彼と食事を共にしてると、あっという間に貴方もおデブちゃんの仲間入りすることになるわよ?

せいぜい気を付けなさいな……それじゃ、ごめんあそばせ」


「……」


一方的に侯爵への侮辱とも取れる言葉を浴びせられたダニエラだが、不思議と嫌悪感は湧いてこなかった。


それどころか――


(見た目以外は最高の人ですって――

やっぱり前妻のあの方から見ても、侯爵様は最高に素敵な方だったのね……!

でも、見た目も最高に可愛らしいのに、見る目のない方)


と、侯爵に対する評価はさらに高まり、ダニエラの胸の中で輝きを増していた。



その後も、ダニエラは相変わらず侯爵への思いを募らせる日々を送っていた。

ただ、少々不満も溜まっていた。というのも、彼が甘い言葉を囁いてはくれるものの、手を繋ぐ以上のことは何もしてこなかったからだ。


(なんて健全な婚約者同士なんでしょう……)


たまに二人の距離が近くなることがあっても、侯爵は敢えてその雰囲気を壊すかのように、さらりと交わしてしまう。

ダニエラもまた、彼の意図的な様子にモヤモヤしつつ、それ以上踏み込むことはできなかった。


しかし――ダニエラは諦めなかった。

食以外で初めて強く興味を抱いたもの、それが侯爵だったからだ。


この日も、ダニエラは侯爵邸を訪れていた。


この頃には、もともと優秀で飲み込みの早い彼女は、ほとんどの教育課程を終えていた。

長く務めた秘書官の職も辞し、今では領地経営の多くを任され、侯爵の仕事の一部も手伝うほどになっていた。


そして今日は、仕事のためではなく――珍しく時間が取れそうだという侯爵と、ただお茶を共にするために訪れたのだった。


少し肌寒くなってきていたが、外のほうがいいというダニエラのリクエストで、二人はガゼボの下でお茶を楽しんでいた。


しかし――会話に少し間が空いたとき、ダニエラは意を決したように侯爵の名前を呼んだ。


「侯爵様……」


改まった表情をしたダニエラに、侯爵は首を傾げる。


「なんだい、突然改まって?」


「あの、お願いがあるんです」


茶器を置き、真剣な表情で話を切り出そうとするダニエラを見て、侯爵は少し不穏さを感じ取った。

しかし、ダニエラは言いかけては言葉を止めることを繰り返し――結局、黙り込んでしまった。


いつもと様子の違うダニエラに、侯爵の心は悪い方向へ向かい、みるみる顔色を失っていく。


(まさか……私との婚約が嫌になってしまったのか?

それで婚約解消を切り出せずに、困っているのでは……)


「待って、ダニエラ」


思わず声をかける侯爵だが、ダニエラは「いえ…すいません、言わせてください」と、言葉を止めることができない。


「待てと言っている!」


いつになく強い口調に、ダニエラは面食らった。

侯爵の態度には、これまでに見たことがないほどの焦燥が滲んでいた。


勢いのまま立ち上がった侯爵は、向かいに座るダニエラのもとまで歩み寄り、後ろからぎゅっと彼女を抱き締めた。


「大きな声を出してごめん、ダニエラ……お願いだ、婚約を解消するなんて言わないでくれ――」


勘違いで見当違いのことを言っている侯爵だが、幸い、ダニエラはその言葉をまったく聞いていなかった。


ダニエラは、自分のお願い――抱き締めて欲しいという願いが、言う前に叶えられてしまったことに驚き、同時に嬉しさで胸がいっぱいになった。

侯爵に抱き締められた場所から、彼の体温が徐々に身体に伝わっていく。


彼女は一度侯爵に抱き締められている手を振り解き、椅子から立ち上がると、正面から彼の大きな身体を負けじと力いっぱい抱き返した。

侯爵は自分が想像していた反応と違うダニエラの様子に戸惑いを隠せず、ゆっくりと身体を離して彼女の意図を確認した。


「ダニエラ……その、お願いというのは、私と……別れたいということなのか?」


不安げに瞳を揺らす侯爵に、ダニエラは心底驚いた表情を見せた。


「ええ!? なんでですか! 私はこんなに侯爵様のことが好きなのに!

ぎゅっとしてくださいって言おうとしたんです。突然侯爵様のほうから抱き締められて、なんで私の言おうとしたことがわかってしまったの、ってびっくりしたんですが……」


顔をほんのり上気させて可愛らしく言うダニエラに、侯爵は身体の力が抜けた。

そして、彼女の肩に顔を埋め、小さく呟く。

「……本当、貴方はどこまで私を夢中にさせたら気が済むんだ」

「あら、それは私のほうです。もう一度、抱き締めていただけませんか?」

「……いいのかい? 私は太っているから……触れられて、気持ち悪くはない?」


侯爵は、かつて政略結婚した元妻から、「太った人に触れられるのは嫌悪感しかない」と言われ、人目に触れる際のエスコートも必要最小限の触れ合いに限られていた。

その経験から、これまでダニエラへの接触も極力控えていたのだった。


そんな侯爵の発言に、ダニエラは首をぶんぶんと横に振った。


「まさか!」


少し恥ずかしそうに、おずおずと言葉を紡ぐ。


「私は、侯爵様……キ、キーレン様に触れてほしくて、ずっと我慢していました。

むしろ……私から貴方を抱き締めても、よろしいでしょうか?」


自分の名前を呼び、そんな可愛らしいことを言ってくる婚約者に、侯爵は堪らなくなる。

そしてそのまま――強く……けれども、彼女が壊れないよう優しく抱き締めた。


今まで焦がれていた触れ合いと、彼の弾力のある、もっちりとした身体の感触に、ダニエラは蕩けるような心地になる。彼女の胸はどきどきしっぱなしで、どこかむず痒い。それでも、ずっと抱き合っていたい衝動に駆られていた。


しばらくの間、二人は無言で抱き締め合った。

身体が離れたあと、二人の顔は自然と重なり――どちらともなく口付けを交わした。



それはダニエラとキーレンのスキンシップが解禁されてから数日後。

婚約から半年、結婚式まであと半年に迫っていた日のことである。


二人の結婚式は、キーレンが二回目ということもあり、互いの親族関係と領内の関係者のみを招待し、領内でこじんまりとした式を挙げる予定でいた。


式の準備が本格化し、いよいよ侯爵邸での新生活が始まろうとしていた――その矢先のことだった。

侯爵は、新規交易の交渉のため、新興国へ自ら赴くことになってしまったのだ。


西に位置するその国は、天候が不安定で災害が多く、毎年のように農作物が甚大な被害を受けていた。

必然的に国外からの輸入に頼らざるを得ず、そこで目をつけたのがダニエラたちの国であった。

侯爵は自国の穀物や加工品を売り込み、販路を広げようと動き出したのである。


「これから式の準備で忙しくなるというのに、家を空けることになって、本当に申し訳ない。

国からの要請で、断ることはできなかったんだ」


申し訳なさそうなキーレンに、ダニエラは首を振って「いいえ」と答えた。


「キーレン様が交易交渉に欠かせない存在であることを、私は誇りに思っています。

領内のことは、私と家令にすべてお任せください。

キーレン様が不在の間は、義父様や義母様も手を貸してくださるそうです。

式の準備も滞りなく進めておきますので、安心して行ってきてください。

交渉が無事に終わり、キーレン様が戻られる日を、心待ちにしております」


ダニエラのいう義父母――つまりキーレンの父と母は、彼が成人するやいなや爵位を譲り、気ままな隠居生活を送っていた。

息子同様、食べることが好きで、旅先で出会った品を領内に広めたり、各国の食の紹介をする書籍を出版する、一風変わった夫妻である。


夫妻はつい先日まで国内の美食を巡る旅に出ていたが、キーレンが自身の不在でダニエラに苦労をかけることになるだろうと、領内に呼び戻したのだった。


「ありがとう。わからないことは、父や母、家令にすぐ相談して、一人で溜め込まないようにね。

どうしても判断に迷うことがあったら、手紙で知らせて。日数はかかると思うけど、やりとりは可能なはずだから」


「承知しました。あの……どれくらいで戻られるか、目処はついているのでしょうか?」


ダニエラは少し不安げに問いかける。

キーレンはそんな彼女を安心させるよう、優しい声音で答えた。


「交渉次第だけど、早くて二カ月くらいで帰れると思っているよ。

如何せん、かの国は遠いからね。本当は君を連れて行きたいくらいなんだけど、治安もそれほど良くないから……」


「二カ月ですか……思ったよりも長く感じますね」


ダニエラは顔を俯かせ、小さな声で本音を漏らした。


「やっぱり……寂しいです。そばにいてほしいです……」


「ダニエラ……」


まだ侯爵邸に移り住んでいないものの、最近はほぼ毎日キーレンに会えていた。

それが二カ月もの間、会えなくなってしまうと考えたら、寂しさに胸が押し潰されそうになる。

目に、自然と涙が滲んできた。


こんなに涙が出るなんて、自分でも驚いてしまう――

そう思いながら、ダニエラは目元を手でそっと押さえた。


目の前で涙をこぼすダニエラを見かねたキーレンは、堪らず彼女をそっと自身の分厚い胸へと抱き寄せた。


「――私の出発前に、お茶会をしようか。

いつものように、ガゼボで、たくさんのお菓子を頂こう。きっと元気がでる。」


ダニエラはキーレンの優しい気遣いに、余計に涙がこぼれ落ちそうになったが、彼の大きな身体に顔を埋め、大きく、こくりと一回頷いた。



――そして、冒頭の甘ったるいお茶会へと繋がる。



二人で食べさせ合いっこをし、その場にいた使用人たちを居た堪れない空気にしたダニエラとキーレン。

しかし、このお茶会のおかげで、ダニエラは涙ではなく、笑顔でキーレンを見送ることができたのだった。



キーレンが新興国へ旅立ってからというもの、ダニエラは寂しさをごまかすように、領内の仕事に没頭した。

元侯爵である義父や家令の支えもあり、与えられた業務をひとつひとつ淡々と、しかし着実にこなしていく。


同時に、式の準備も義母の助言を受けながら進めていった。

義父母はキーレンと同じく食べることが大好きで、体形もどこか彼を思い起こさせる丸みに溢れている。

ふたりと接していると、ふとした瞬間にキーレンの面影がよぎり、会えない寂しさが、ほんの少し和らぐのだった。


――そうして、いつの間にか。

彼が戻ってくると言っていた、二カ月の期限が過ぎようとしていた。



「……難航しているのですか?」


新興国からの使者の言葉に、キーレンたちの現在の状況を察し、ダニエラの顔が強張った。


「はい。先方の要求と折り合いがつかず……交渉の場は、常に緊張状態にあります。

また、我が国に対する感情も決して友好的とは言えず、外交団はかなり厳しい環境下に身を置いているとのことです」

「そんな……」


新興国の治安が良くないことは聞いていた。

だが、まさか外交の最中に、命の危険に晒されかねない状況だとは思ってもみなかった。


――もしそのような事態に発展すれば、最悪、戦争も避けられないだろう。

胸の奥底が冷たくなるのを、ダニエラは感じた。


「何か、私が、出来ることは……」

「どうか無事をお祈りください。侯爵からは、ダニエラ様宛ての手紙を預かっております。

よろしければ、お返事を書かれてはいかがでしょうか。明日、受け取りにもう一度こちらへ参ります」


ダニエラは伝令から手紙を受け取り、部屋へと戻った。

封を切り、指先に力を込めたまま、そっと中身に目を落とす。


そこには、彼の性格がそのまま表れたような、丁寧な筆跡で、こう記されていた。


『ダニエラ、元気にしているかい。体調に変わりはないだろうか。

こちらは何とかやっているから、私のことは心配しなくていい。

この国では、主食が蒸したトウモロコシでね。自国とは随分と違っていて、なかなか興味深いよ。

帰ったら、君にたくさん話をしたい。……早く、また一緒にお茶会がしたい。

仕事は、決して無理をしないように。

それでは、どうか身体に気を付けて――』


手紙を最後まで読み終え、ダニエラの口から、自然と声が零れた。


「……私の心配ばかり」


手紙の中でも、キーレンは変わらず優しく、ダニエラの心を温めてくれる。

決して、自身が置かれている厳しい状況には触れず、ただひたすらにダニエラを気遣うその文面に、視界がじわりと滲んだ。


(返事を、書かないと――)


ダニエラは一度、深く息を吸い込み、それから机に向かった。

余計な心配をかけないよう、領内の出来事や義父母の様子、最近街で流行り始めた食べ物の話などを、ひとつひとつ丁寧に綴っていく。


そして筆を置いたあと、ほんの一瞬迷ってから――

最後に、小さな祈りを込めて付け足した。


『あなたに、早く会いたい』、と。



結局、キーレンの帰国は出発からおよそ半年、結婚式の日程が差し迫った頃となった。


ダニエラが返事の手紙を送って間もなく、こちら側が価格の引き下げなど大きく譲歩する形ではあったが、輸出協定はなんとか締結に至った、との連絡が入った。


だが、安堵する間もなく、帰国の準備を整えた矢先に事態は急変する。

連日の豪雨と台風が滞在地を直撃し、周辺一帯は水害に見舞われ、帰国の道が完全に断たれてしまったのだ。


道路の復旧には想像以上の時間を要し、さらに復興支援に駆り出された大使たちは、滞在先での援助活動に追われることとなった。

そのため、キーレンたちの帰国は、大幅に遅れることとなった。


そして復興支援が粗方片付いた頃、一行は晴れて帰国の途につくことができたのだった。



「――ただいま、ダニエラ!」


バンと開け放たれた扉の向こうから、ダニエラの聞き覚えのある声が響いた。

このとき、ダニエラはたまたま部屋から出てきたところであり、侍女とともに思わず顔を見合わせる。


(まさか――キーレン様が!?)


彼の帰宅は、まだ数日先と聞かされていた。

そのため、出迎えの準備も整っていない。


半信半疑のまま、ダニエラは慌てて玄関へと駆けつけた。


そして――扉の前にいた、その人は。


ダニエラが待ち焦がれていた、人物。

⋯⋯のように見えたのだが。


――少し、様子がおかしい。


そう思った瞬間、彼女はその場で立ち止まった。


声の主であるその人物は、ダニエラを見つけるなり、ぱっと表情を明るくする。

そして迷いのない足取りで彼女の元へと駆け寄り、そのまま腕を回して抱きしめた。


不意を突かれたダニエラの身体が、きゅっと後ろへ押し返されるほどの、力強い抱擁だった。


「遅くなってすまない。早くダニエラに会いたくて、途中から馬に乗り換えて来たんだ……

おかげで予定より数日早く着いたよ――」


そう声を掛けたものの、久しぶりに会った婚約者から返事は返ってこない。

彼は不思議に思い、少しだけ身体を離して、ダニエラの顔を覗き込んだ。


「ダニエラ?」


「え……あの、キーレン様?

……で、あってます?」


ダニエラは、目の前の人物が本当に婚約者のキーレンであるのか信じられず、失礼とは思いつつも確認してしまった。


「ひどいよ、ダニエラ……

たった半年で婚約者の顔を忘れてしまうなんて……。

私は君のことを一秒たりとも忘れたことはなかったというのに……」


彼はひどくショックを受けた様子で、そう告げる。


「いえ、そういう意味ではなく……」


忘れてしまったわけではない。

――ただ、元の面影が分からないほど、彼の容姿が変わってしまっていたのだ。


(なんだ、この薔薇を背負った見た目の美丈夫は)


自分の目の前にいる、彼の身体は――端的に言うと、薄い。


すらりとした長身で、その身体つきは程よく筋肉がついているのが、先ほど抱き締められたときの感触からわかった。

大きさは、例えるなら、出立前のキーレンの半分ほど。


全身に纏っていたぷにぷにはどこへやら、むしろゴツゴツと角ばった印象で、それが服越しにもはっきりと見て取れた。


さらに、自分を覗き込む顔には、見覚えのある翠の切れ長の瞳があるものの、その目は、記憶しているものよりもずっと大きい。

その大きな瞳を含め、顔のパーツはすべて完璧な比率を保っており、十人が十人とも整っていると認めるであろう、美しさを誇っていた。


そう――余計な肉が無くなった彼は、めちゃくちゃに顔が良かった。


「……とっても、お痩せになりました?」


しかしダニエラは、それらすべてを「やせましたよね?」の一言で強引にまとめた。

非常に簡潔である。


「ほぼ絶食状態だったからね……。

復興支援で、現地で肉体労働もしていたし……」


げんなりした様子で多くを語らないキーレンの態度から、本当に大変だったことがうかがえた。


「私も相当痩せてしまったけど……ダニエラも、少し痩せたんじゃない?」


思いがけない指摘に、ダニエラは思わずドキリとする。


実はここ数か月、キーレンのことを心配し過ぎて、食事が喉を通らなかったのだ。


――いや、嘘だ。


食べてはいた。

ただ、いつもの半分の量で、すぐにお腹がいっぱいになってしまっていただけだ。


ドレスが心なしか緩くなった気はしていたが、まさか指摘されるほどとは思っていなかった。


「キーレン様のことが心配で……あまり、食欲がなくて」

「心配をかけてしまって、本当にごめんね」

「いえ……あの、お手紙、ありがとうございました。

キーレン様がいない間……何度も読み返してしまって。

早く会えますようにって、筆跡をなぞったりもして……」


ダニエラの言葉に、キーレンは柔らかな微笑みを返した。


「――私もダニエラの手紙を何度も見返したよ。

あの手紙が、向こうでの私の心の支えになっていた。本当に、ありがとう」


お互い、送りあった手紙を、心の支えにしていたらしい。

キーレンは、ダニエラが自分と同じ気持ちでいたことが嬉しかったのか、顔を赤くして頬を掻いた。


その様子は、以前のキーレンと何ら変わらない。


正直に言うと、再会してからダニエラは、彼の見た目があまりにも変わってしまったことで、どこか心が落ち着かなかった。


話していても、声は同じであるはずなのに、まるで別人と会話しているような気がして――

けれど、前と変わらず可愛らしい仕草を見せる彼の姿に、ようやく心から安堵する。


「あの……一度お休みになってから、何かお召し上がりになりますか?

お腹が空いているのではありませんか?」


ダニエラは、早速食事を提案した。

ちょうど彼女自身も、昼食を取りに廊下へ出てきたところだったのだ。


できることなら――せっかくの再会なのだから、キーレンと席を共にしたかった。

疲れているはずの彼には休んで欲しい気持ちもあった。

それでも、それ以上に何よりも、彼の側にいたいという自分の気持ちを優先した。


その願いが通じたのか、キーレンは快く応じてくれた。


「ああ、お願いしたい。やっと君と一緒に食事ができる」

「はい、私も、貴方と食卓を囲めることをずっと心待ちにしておりました」


ダニエラはぱっと顔を綻ばせ、キーレンへと告げる。

「おかえりなさい、キーレン様!」


ダニエラの言葉を合図に、二人はもう一度、きつく抱き締め合った。



小休憩を取り、身支度を整えたキーレンと共に、久しぶりの食事を二人で囲む。

ずっと食欲のなかったダニエラだったが、キーレンがいることで、いつもの調子を取り戻していた。


侯爵邸の腕利きの料理に舌鼓を打ち、次々と目の前の食事を平らげていく。

二人は、半年分の積もる話を交わしながら、食事を進めていた。


――ところが、ダニエラはふと気づいた。

キーレンが普段の半分以下しか口にしておらず、食事の手を止めていることに。


「キーレン様。もしかして――どこか調子が悪いのですか?」

ダニエラは、もしかして具合が悪いのでは、と心配そうに尋ねた。


しかし、キーレンは少し申し訳なさそうに顔を曇らせ、「いや、そうではないんだ」と答える。

そしてそのまま、話を続けた。


「――向こうにいる間、軽く飢餓状態だったせいか、胃が小さくなってしまったようだ。

……すまない、これ以上は食べられそうもない」


ひどく悲しそうな表情で謝るキーレンに、ダニエラはショックを受ける。


「なんてこと……体調は大丈夫なのですか?」


「ああ、体調はまったく問題ない。ただ、少しの量しか食べられなくなってしまったんだ。

食べることが楽しみだったのに、これっぽっちで満足してしまう身体になってしまった。

せっかくの食事を残してしまうのは、作り手にも食材にも申し訳ない――」


キーレンは、残してしまった皿を悲しそうに見つめる。

以前であれば、この量などすぐに平らげ、食後にはデザートまで楽しんでいたことだろうに。


そんなキーレンの様子を見て、ダニエラは立ち上がり、そっと彼の手に自分の手を重ねた。

そして、その勢いのまま、自分の思いをキーレンにぶつけた。


「キーレン様、私が代わりにすべて食べて差し上げます!」


ダニエラの言葉に、キーレンは目を丸くした。


「貴方が食べられない分、私が貴方の胃袋になります。キーレン様はどうか無理せず、少しずつ召し上がってください。

そうすれば、私もキーレン様も、作り手も食材も、みんな幸せでしょう?」


「ダニエラ……君って人は……!」


キーレンは感極まり、食事の途中にもかかわらず、彼女を強く抱きしめた。


その様子を後ろで見ていた使用人たちは、全員揃って白目を剥いていた。


――なんだなんだ、『貴方の胃袋になる』って。


しかし、二人は完全に二人だけの世界に入り込んでしまっていた。

半年前の、あの胸焼けのするお茶会を再現しているかのように、主人たちが醸し出す甘ったるい空気に、使用人たちはまたしても胸焼けしそうになるのだった。



キーレンの帰国後、結婚披露宴の準備は急ピッチで進められた。

主な作業は衣装合わせである。当初発注していたキーレンの衣装はどれもサイズが合わず、すべて作り直すことになったためだ。


ようやく準備が整い、式は小規模ながらも、たくさんの人々に祝福されながら執り行われた。


……のだが。


参列者たちは皆――親族でさえも――最初、キーレンが誰だか判らなかったらしい。

二人が会場に入場した瞬間、場内は一気にざわめいた。


「新郎、一体誰……?」と。


それも無理はない。

彼の身体の面積は以前の半分以下になっており、しかも、これまでお肉に隠れていた顔立ちが露わになったことで――あら不思議、途方もなく整った顔立ちをしていたのだ。


記憶の中のぽっちゃり侯爵と、白金の髪と翠の瞳だけでかろうじて本人だとわかる、そんな変貌ぶりである。


しかし、一度「これがキーレンだ」とわかると、場内のざわめきはすべて祝福の言葉へと変わった。


披露宴の後、二人で領地を巡った際も、領民たちの反応は親族たちと同じだった。


「侯爵様が半分になった!」とざわめき、病気を心配した領民たちが、次々と食材のご祝儀を差し出す――そんな微笑ましい光景も、今となっては良い思い出である。


ちなみに結婚後に参加した夜会でも、同様の現象が起きた。

新婚のはずのダニエラが、侯爵ではない誰かを連れている!?とざわめきが起き、それがオウネル侯爵本人だとわかると、さらなるざわめきが巻き起こった。


痩せて精悍さを増したキーレンと、もともと細身のダニエラ――その目を引く容姿の夫婦ぶりは、誰の目にも留まるほどだった。


結婚祝いはもちろん、劇的な外見の変化や、キーレンが成し遂げた交易交渉の成功も手伝って、夜会ではさまざまな人々がひっきりなしにキーレンに声をかけていた。


しかし、夜会も後半に差し掛かる頃になると、二人はさりげなく人波の中から姿を消し、仲睦まじく食事を楽しむ姿がしばしば目撃された。


別の夜会でも同じ光景が見られ、料理を口に運ぶのは主に侯爵夫人、そしてその感想を聞くのは侯爵――いつしかこれが二人の夫婦のスタイルとして定着していた。


その微笑ましい甘さを目にした者たちは、

「見ている方が胸焼けしそうだ」と、嬉しそうに、しかし呆れたように囁き合ったという。



食事量が減った(というか平均的になった)キーレンだったが、美味しいものへの探究心は衰えることがなかった。

やがて穀倉地帯として有名だったオウネル領は、美食の街としても名を馳せ、国内有数の観光名所となった。


ダニエラたちはそれで満足することなく、義父母と同じく、家督を子供たちに譲った後も各地を訪れ、常に新しい美味しいものを取り入れることに注力した。


各地から仕入れた品々をガゼボのテーブルに並べ、ともに囲む――この二人だけのお茶会は、ダニエラたちにとって何より大切なひとときとなった。


量が食べられなくなったキーレンに代わり、ダニエラが残さず味わい、その感想を述べる。

キーレンがダニエラを羨ましがったり、ダニエラがキーレンにもっと食べてほしいと要求することはない。

相手が同じ量を食べられなくても、相手がそれで幸せなら、それでいいのだ。



――かつて"ぽっちゃり侯爵"と"大食い令嬢"と揶揄された二人であったが、やがて食の流行を牽引する仲睦まじい夫婦として名を馳せることとなったという。



(おわり)


最後までお読みいただきありがとうございました。ぽっちゃりシリーズに珍しい痩せて終わりエンドです。

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