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第52話 儀式井戸への突入

 警鐘が三度鳴り終わるころ、僕らはすでに王城の内回廊を駆けていた。

 床石の継ぎ目に黒い筋が走り、壁掛けの影がわずかに脈打つ。導管が生きている――王都の心臓が、見えない手に握られている感覚が肌を刺した。


「内回廊南端から階下へ。儀式井戸はその下層よ」

 セリアが青い瞳で前を射抜き、薄い外套の裾を翻す。

「近衛は?」ヴェルダンが低く問う。

「正面はハルデンが抑える。こちらは禁光庁の独自権限で動く」レフが即答した。灰色の瞳は、焦りの色を一滴もこぼさない。


 階段を折れた瞬間、空気が変わった。ひやり、と湿った匂い。水の層が近い。

 同時に、闇の底から擦れる音が這い上がってくる。

 ――待ち伏せだ。


「止まれ」レフが手を挙げる。

 次の瞬間、階段の踊り場を包むタペストリーが内側から膨れ、裂けた。

 飛び出したのは細身の影。人の輪郭を持ちながら、関節の角度がどこかおかしい。肌の下を黒い蔦が這い、目は灯りのように赤い。


「器だ。繭の守護者」

 ヴェルダンの赤い瞳が燃え、影とぶつかる。金属の悲鳴のような音とともに、拳が黒い胸板をひしゃげさせた。

 僕は二体目の影が壁沿いに滑るのを見た。剣を抜き、白き炎を細く刃に纏わせる。

「どけ!」

 刃が弧を描き、影の腕を断つ。切り口から赤黒い繊維がほどけ、床に落ちるとミミズのように蠢いた。


「下へ急げ。ここは私が抑える」

 レフが袖口から銀の札を抜き、床へ滑らせる。札は光の輪を立て、押し寄せる影の足を縫い止めた。

「レフ!」

「大丈夫だ、行け!」

 短い言葉が背を押す。僕とヴェルダンはセリアとともに階段を滑り降りた。


 石造りの扉が現れる。鍵穴はない。代わりに、円周に刻まれた水紋と古い印章。

 セリアが掌を印章に重ねると、紋が水面のように揺れ、音もなく裂けた。

「これが儀式井戸の前室……」

 扉の向こうは薄暗い円形の広間だった。壁面に沿って細い導水路が走り、中央に円い穴――井戸の口。冷気が頬を撫でるたび、黒い湿り気が鼻を刺す。


「感じるか、エイル」

 ヴェルダンの声が低く響く。

「うん。鼓動してる。導管の“核”が近い」

 胸の奥で黒炎がざわめく。誘惑の囁き。僕は白き炎を静かに強め、囁きを薄く遠ざけた。


「先に警戒線を」

 セリアが腰の小箱を開き、青銀の粉を井戸の縁に撒いた。細かな粒が水脈の気配に反応し、淡い光の輪を描く。

「これで侵食の触手が出ても一拍は遅れる。――行って」


 僕は井戸の縁に身を乗り出し、白き炎で暗さを薄める。

 縦穴の壁は滑らかで、いくつもの溝が蛇のように絡み合い下へ伸びている。溝の中を赤黒い糸が走り、ばらばらの心音が一つに合わさろうと脈打っていた。

「降りる。ヴェルダン、後ろ頼む」

「任せろ」


 縄梯子を掴み、冷たい空気の柱の中へ身体を落とす。

 十、二十と段を数える間に、肌へ触れる空気が重く、湿り気が濃くなっていった。

 やがて踵が硬い感触に触れる。底――いや、合流部の踊り場だ。すぐ先には、丸く開いた横穴がいくつも口を開け、そこから水が細い滝となって落ちていた。水は黒ずみ、所々で泡立つ。

(導管、むき出しだ……!)


 ヴェルダンが続いて降り立つ。背後の井戸口側では、セリアが魔術の輪を保ちながら警戒に立っていた。

「核はどちらだ」

「流れが集まる方」

 耳を澄ます。ゴウ、と低い響き。複数の水音が重なり、やがて一つの深い拍動に変わる方向――


 そのとき。足元の水面が盛り上がった。

「来る!」

 黒い水塊が形を持ち、人の胴に似た厚みをつくって立ち上がる。顔はない。代わりに、無数の赤い点が水中に灯り、こちらを見た。

「守護者の第二形態か」ヴェルダンが拳を握る。

「燃える?」

「燃やす!」

 僕は白き炎を薄く広げ、床に線を引くように前へ押しやった。炎は水面を舐め、黒い膜をはぎ取る。だが、焦げた皮膜の下から新しい層がすぐに隆起した。

(表皮を落としても、芯が残る……!)


「ならば形を崩す!」

 ヴェルダンが水塊へ踏み込み、渦の中心に拳を叩き込む。衝撃が波紋となって迸り、赤い点が散る。

 僕はその瞬間に狙いを絞り、赤点が最も密な箇所へ白き炎を針のように収束させた。

 ズ、と鈍い手応え。水塊がのたうち、ばらばらに崩れ落ちる。

「通路、開いた!」

 前方の横穴への道が空いた。僕らはすぐに駆ける。


 合流路は背を屈めねば進めないほど狭い。壁に走る黒い糸が僕の気配に反応して伸び、頬を掠めた。

「寄るな!」

 刃で払い、白き炎で焼き切る。焼けた匂いが狭い空間にこもり、息が苦しい。

 曲がり角の先で、低い空洞が広がった。中央には石の祭壇めいた築造物があり、その上に――

 心臓に似た塊。赤黒い根が四方へ伸び、壁の導水溝と直結している。


「核だ」

 声に自分の鼓動が重なる。黒炎が胸で強く揺れた。

(斬りたい。焼き尽くしたい――)

 欲望めいた衝動を、僕は白き炎で包む。清らかな熱で上書きする。

「ヴェルダン、根を抑えて。僕が芯を断つ」

「任された!」


 ヴェルダンが祭壇の周囲に踏み込み、伸び来る根を拳と踵で叩き折る。赤い瞳が戦いの光で輝き、砕けた根が床に跳ねた。

 僕は一歩、祭壇へ。白き炎を刃に束ねる。

 その瞬間、核の表面に泡のような膨らみが走り、膨らみは人の顔の輪郭を形づくった。

 ――声がした。

(エイル)

 知らない声なのに、呼ばれた気がして血が冷える。

(お前は知っているはずだ。炎は二つで一つ。白は黒を抱き、黒は白の影となる)

「黙れ」

 僕は短く吐き捨て、刃を振り下ろす。

 白き炎が核を裂く――はずだった。だが切っ先が触れた瞬間、核の中心が沈み込み、刃は空を切った。

「すり抜けた!?」

「形を逃す核……!」ヴェルダンが歯噛みする。


 祭壇が低い鼓動を一つ、二つ。

 続く拍で、周囲の導水溝から一斉に根が噴き出した。

「まずい、退け!」

 セリアの声が狭い通路に響く。後方で、彼女の青銀の粉が一瞬だけ煌めき、押し寄せる根の先端が怯む。

 レフが合流路の入口に姿を現した。衣の袖が裂け、血が滲んでいる。

「後背、制圧。だが長くはもたない。決めろ、エイル!」


(動く標的を、どう断つ)

 核は刃を嫌って沈む。なら――沈める場所を無くせばいい。

 僕は吸い込んだ息を吐き、床の石目を見て、手の内を決めた。

「セリア、祭壇の周囲、三歩の円に封止粉を!」

「分かった!」

 青銀が舞い、地に細い輪が描かれる。魔法的な“面”が、一瞬だけ張られた。

「ヴェルダン、次の拍で根を四方へ散らす!」

「合図しろ!」


 鼓動が一つ。核が膨らむ。

 今だ。

「今!」

 ヴェルダンの拳と踵が連続して根を弾き、祭壇の上空が一拍だけ空白になる。

 僕は刃を逆手に取り、白き炎を針ほどに細めた。

 沈む先は、ない。封止の“面”と炎の針の間に、核は挟まれる。

「――断ッ!」

 白い線が走り、音のない破裂が空洞を満たした。


 視界が白に染み、すぐ黒に戻る。

 祭壇の上には、静けさだけが残った。

赤黒い根は砂のように崩れ、導水溝に溶けていく。

 僕は膝に手をつき、荒い息を吐いた。胸の奥で黒炎が、力なく一度だけ揺れる。白き炎がそれを包み、静かな温度に戻した。


「やったのか」

 ヴェルダンが肩で息をしながら笑う。赤い瞳の光は、今は穏やかだ。

 レフが周囲を見渡し、短く頷いた。

「導水の拍動が落ちている。王都への流れも軽い。……核は落ちた」

 セリアが安堵の息をつき、外套の裾を握る手を緩めた。

「これで朝議の場も持ち直すはず。王命で全系統の検査を――」


 言葉の途中、遠くの井戸口から低い唸りが届いた。

 水ではない。

 声だ。

 耳ではなく、骨の内側に触れる声。

(見ている)

(ようやく視たな)

 僕は奥歯を噛んだ。白き炎が本能的に身を守るように広がる。

「……今のは?」

 ヴェルダンが眉を寄せる。

 レフはわずかに目を細めた。

「“核”のさらに奥。導管の果てにいる何か――王都の外から、ここを覗く意識だ」


 セリアが静かに首を振る。

「でも、王都の水脈は今、君たちが守った。次に来ても、同じやり口は通用しない」

 僕は頷いた。

(見えない“誰か”がいる。血の大樹でも、雲でもない。意識そのものが世界へ触れてくる)

 胸の奥で、白き炎がはっきりと形を持つ。

 ――ここから先は、目に見えない戦いだ。けれど、僕は負けない。


「戻ろう。王へ報せを」

 レフの合図で、僕たちは来た道を引き返す。

 井戸の縦穴を見上げると、上空の輪郭に朝の光が射し始めていた。

 王都は、まだ生きている。


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