第43話 王都の門前
西へと延びる街道の果てに、青灰色の城壁がそびえていた。
王都。砦の隊長が「援軍が途絶えた」と口にした、その中心だ。
近づくほどに人の気配は濃くなるのに、ざわめきにほどよい活気はない。荷車は列を作り、旅人は互いに目を逸らし、子どもは泣き声を堪えている。空を見上げれば、塔の先に黒い布のようなものがひらめいていた。
「……旗じゃないな。煤だ」
ヴェルダンが赤い瞳を細める。
僕は無意識に剣の柄へ触れた。胸の奥で小さく白き炎が瞬き、同時に黒炎がざわつく。押さえ込むように深呼吸を一つ。
門前では検問が敷かれていた。近衛の紋章をつけた兵士が列を仕分け、祈祷師が旅人の額へ短い祈りを刻む。
「次!」
僕らの番が回ってきた。近衛の兵が、僕とヴェルダンの顔を順に見、腰の剣へ視線を落とす。
「目的は」
「王都の状況を確かめたい。各地で魔の者が……」
言いかけた僕の前に、祈祷師が白い縄を差し出した。
「触れて。穢れがあるなら反応するわ」
僕は縄に手を置く。冷たい。何も起きない。
ヴェルダンも同じく縄に触れ――縄が微かに鳴った。
兵が身構える。
「落ち着け。魔ではない」祈祷師が首を振る。「強い意志の火だ。……稀だが、いる」
兵の緊張がわずかに緩む。ヴェルダンは肩をすくめた。
「検査は通った。だが剣は鞘から抜くな。王都は戒厳下だ」
「戒厳……?」
兵は答えず、壁際の掲示板を顎で示した。
そこには粗い筆で短く告げられていた――『日没後外出禁止。鐘楼北区立入禁止。異形報告、禁光庁へ』。
門をくぐると、石畳は濡れたように冷たく、通りの影は昼なお濃い。花売りの籠は色を失い、露天商は口をつぐんでいる。
「活気がない……」
僕の呟きに、隣のヴェルダンが短く応じる。
「恐れているんだ。見えないものを」
城下の十字路で、青い外套の役人たちが黙々と黒い箱を運んでいた。棺のような細長い箱。周囲の人々は道を開け、誰も近づかない。
「何を運んでるの?」
近くのパン屋の少年に小声で尋ねると、彼は指だけで北を示した。
「鐘楼。あの上で、何かが羽化するんだって」
「羽化?」
少年は震え、店の奥へ消えた。
ほどなく、近衛に囲まれた一団が通りに現れた。中央に歩く痩せた男は灰色の衣をまとい、金糸の留め具が胸で冷たく光る。
「宰相代理、レフ殿だ」道端の老人が囁く。「王がご病気でな……今はあれが実権を握っている」
レフは人々に笑みを向け、掌を広げた。
「市民諸君、恐れることはない。我々は秩序を守る。禁光庁がすべてを調査する」
落ち着いた声と裏腹に、周囲の肩は強張ったままだ。耳をすませば、鎧のこすれる音の奥に、軽い足音が混じる。
――つけられている。
ヴェルダンと視線を交わし、歩調を変えた。角を二つ、三つ。石壁の陰に身を寄せる。
追ってきたのは、青い外套の二人組。片方は少年のように若く、もう片方は目の下に濃い隈を湛えている。
「用があるなら表で言って」ヴェルダンが一歩前へ。
若い方が肩をすくめた。
「用心深いね。俺たちは禁光庁の書記官だ。……敵じゃない。君らみたいな自由に動ける足が必要なんだ」
隈のある男が続ける。
「鐘楼北区で、黒い繭が育っている。近衛は通りを封鎖したが、上からは目が届かない。今夜、見てきてくれないか」
「近衛に頼めば――」
「頼んだ。結果、掲示板だ」隈の男は淡々と言う。「“禁光庁へ”。つまり、民が見たものは穴の底へ捨てられる」
言葉は乾いているのに、瞳の底に微かな怯えが揺れた。
僕は胸の奥のざわめきに手を当てた。
(黒い繭……砦の根の核に似ている。放っておけば、街ごと飲み込む)
「引き受ける」気づけば口が動いていた。
ヴェルダンが頷く。
「条件がある。人を避難させる口実を用意しろ。鐘楼の周りからだ」
若い書記官は目を丸くし、すぐに笑った。
「了解。……君ら、名前は?」
「僕はエイル。こっちはヴェルダン」
「俺はミル、こっちはゾルド」隈の男が軽く会釈をする。「日没後、鐘楼裏の古井戸で落ち合おう」
別れ際、ミルが小声で囁いた。
「宰相代理は優しい顔をしているが、質問の少ない答えを好む。君らの“火”は隠しておけ」
僕は無言で頷いた。白き炎が胸の底で静かに灯る。灯り過ぎれば、目を引く。足りなければ、届かない。針の穴を通す加減が要る。
夕刻、王都の空が鈍い赤に沈む。鐘楼の影は通りを縫い、北区一帯に伸びていた。
「エイル。息は浅く、足は静かに」
「分かってる」
禁光庁からの“避難命令”が流れ、家々の扉が閉じられていく。ざわめきは消え、油の匂いと石の冷たさだけが残った。
古井戸のほとりにミルとゾルドがいた。縄梯子の先、石の隙間から冷気が吹き上がってくる。
「鐘楼の地下へ通じる古い清掃路だ。今は使われていない」ゾルドが言う。「上は近衛が張り付いている。下から行く」
僕は梯子を掴んだ。冷たさが掌を刺す。
(王都は守られている――そう信じていた人たちの街だ)
闇の底へ足を下ろしながら、僕は胸中で白き炎をそっと強めた。
――見届ける。切り離す。守る。
梯子を降り切った先、狭い石の通路が続いていた。壁に黒い筋が走り、ぬめりのある音がどこかで響く。
やがて視界が開け、半球状の空間に出た。上方に格子があり、そこから鐘楼の内側が覗ける。
目に飛び込んできたのは、鐘の真下で脈打つ黒い塊――繭。
人の背丈の三倍はあるだろう。表面に赤黒い管が走り、鐘を絡め取っている。
「……間に合ってくれ」ヴェルダンが低く言った。
繭の表面がはぜ、内側で何かが呼吸する音がした。
僕は剣を握り、白き炎を刃へ宿す。
王都の闇は高い壁の外ではなく、この内側で育っている――それを、いまこの目で見ている。
「行くよ、ヴェルダン」
「ああ」
僕らは格子へ身を寄せ、音もなく影の中へ溶けた。
鐘が、低く一度だけ鳴った。夜の始まりを告げる合図のように。




