第29話 揺らぐ心
斑のチュロシュはゆっくりと歩み寄ってきた。
赤い靴音が石畳に響くたび、空気が震える。右目から溢れる黒炎は形を変え、蛇のように揺らめいては僕らを囲もうとしていた。
「エイル……あなたは苦しいでしょう」
声は甘く、柔らかい。敵の言葉とは思えないほど、胸に染み入る温もりを含んでいた。
「戦わなくていいの。剣を置いて……ここに来なさい」
「黙れ!」
父ロドルフが短剣を振るい、黒炎を弾き飛ばした。
「こいつは敵だ、惑わされるな!」
「父さん……」
必死の声は届く。けれど僕の耳には、チュロシュの優しい響きが残っていた。
「あなたのお父さんも、友も、いつかはいなくなる。けれど私は違う」
チュロシュはまっすぐ僕を見つめ、唇を綻ばせた。
「私は永遠にあなたの傍にいる。だから安心していいのよ、エイル」
(僕の傍に……?)
胸の奥が熱く揺れた。
戦いで疲れ切った体と心に、その言葉は甘美すぎた。ほんの少しだけ――その手を取ってしまいそうになる。
だが、耳に鋭い声が飛んだ。
「エイル! お前は俺と戦うんだろ!」
ヴェルダンだった。血で口元を汚しながら、それでも立ち上がり、赤い瞳を燃やして僕を睨んでいた。
「約束しただろ……一緒に守るって!」
「……!」
僕の手が震えた。剣を落としかけた指に力を込め、白き炎を再び燃やす。
「そうだ……僕はヴェルダンと……父さんと、一緒に戦う!」
チュロシュの瞳が揺れた。母のような優しさが一瞬だけ翳り、再び幹部級の冷酷さが戻る。
「選んでしまうのね……残念だわ」
右目の黒炎が爆ぜ、巨大な腕の形を作り出す。闇の腕は大地を抉り、建物を粉砕しながら僕らへ迫ってきた。
「防げ!」
父の短剣が光を弾き、ヴェルダンが体を張って突き込む。僕も剣を振り抜き、白き炎で黒い腕を切り裂いた。
轟音と共に、闇の腕は砕け散る。
「……やるじゃない」
チュロシュは唇を舐め、声の調子を変えた。
「でも、その力……あなたの体を壊すわ。だから私が代わりに抱きしめてあげる」
「黙れぇっ!」
僕は叫び、剣を振り抜いた。白き炎が閃き、黒炎と激しくぶつかる。
だが次の瞬間、彼女はふっと僕の背後に回り込んでいた。
「……!」
冷たい指先が、そっと僕の頬に触れた。
「可愛い子……やっぱり守ってあげたい」
「やめろぉ!」
父が割って入り、短剣で斬りかかる。チュロシュは軽やかに後退し、再び距離を取った。
彼女は微笑んだまま、血の大樹を背にして立ち止まった。
「あなたたちをすぐに殺すつもりはない。もっと――私を楽しませて」
幹部級の冷酷さと、母性めいた眼差し。
その矛盾は僕の心を大きく揺さぶり続けていた。




