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防弾ガラスのシンデレラ  WBA世界フェザー級チャンピオン 西城正三

作者: 滝 城太郎

1960年代後半から1970年代前半のボクシング界で一世を風靡した若きスピードスターがいた。彼の名は西城正三、日本人として初めて敵地海外で世界タイトルを獲得し、歴史を作った男である。ボクサーでありながらアイドル級の人気を誇り、少年誌の表紙まで飾った西城の知名度は、現在の井上尚哉どころではなかった。

 ベネチアングラスのように美しく優雅だが、その繊細で気品に満ちた造形美に騙されてはいけない。

「取扱注意」の表記にしてもフラジール(fragile=壊れ物)ではなくデンジャラスグッズ(危険物)の方だ。

 力ずくで破壊しようとすれば、その切断面が研ぎ澄まされた凶器となって破壊者に襲いかかってゆく。衝撃から得たエネルギーに殺傷本能が加わった砕片は、きらきらと輝きながら一瞬の戦慄を巻き起こし、そこに傷だらけの骸を残すのだ。

 西城はクールでスタイリッシュなボクサーファイターだが、本当の輝きを見せるのは窮地に陥った時だ。青年貴族の仮面をかなぐり捨てた蛮族の王子は、無慈悲で獰猛な殺戮者と化し、絢爛なオペラ座は瞬時に血なまぐさいコロッセオへと装いを変える。


 世界チャンピオンとしての帰朝第一戦となったフラッシュ・ベサンテとのノンタイトルマッチ、西城は第一ラウンドにカウンター気味のアッパーでダウンを奪う上々の立ち上がりを見せるも、二ラウンド以降はべサンテの変則的な左フックを避けきれず、四度もマットに転がった。

 頭を左右に振りながらステップインしてくるべサンテの左は、左側頭部の死角からいきなり飛び出してくるためパンチの軌道が見えづらい。その左を意識しすぎるあまり右アッパーに対する反応が遅れるという負のスパイラルに落ち込んだ西城は、七ラウンドまでいいように打ち込まれ、KO負けは時間の問題に思われた。

 そもそもラッキーな王座奪取と見るファンも少なくなかっただけに、西城の無様なボクシングに呆れた観客席からはブーイングが飛ぶ有様で、メッキが剥がれた王者は突如アウェイの舞台に放り込まれたも同然だった。

 ところが、マスコミが作り上げた虚飾の仮面が砕け散った後、素顔に戻った西城が見せたのは先ほどまでの優等生的なファイトをしていた男とは似ても似つかぬ凶暴な戦士の姿だった。

 八ラウンド一分過ぎ、不用意に西城の右を浴びたベサンテがガクンと腰を落とすと、前のラウンドにもダウンを喫しストール寸前だった西城のチャージドエンジンがフルブーストの咆哮をあげた。

 ストレートのつるべ打ちでベサンテをロープに追い詰めて右フックでダウンを奪い返すと、一分四十五秒にはコーナーでスタンディングダウンを追加。二分八秒、ついにレフェリーストップが入りダウン応酬の肉弾戦は幕を下ろした。


 西城正三は「シンデレラボーイ」と呼ばれた。

 プロキャリアも浅く、日本国内でもメインエベントのリングに上がったことがないほとんど無名のボクサーが、本場アメリカで日本人初となる海外での世界タイトル奪取という歴史的偉業を成し遂げたことから、世紀の番狂わせで世界ヘビー級チャンピオンになり「シンデレラマン」と称えられたジム・ブラドックになぞらえてマスコミがこう命名したのだ。


 西城がボクシングを始めたのは中学時代にまでさかのぼる。

 昭和三十四年、野口ジムでは子供たちを対象とした「ベビーボクシング」なるボクシング教室を開設し、大きな話題となった。この練習生の中にいたのが、西城と後に日本ライト級チャンピオンになった高山将孝で、タフネス西城、ピューマ高山のリングネームまでつけて『プロレス&ボクシング』誌のグラビアで紹介されている(昭和三十四年九月号)。

 同期生の中でも高山のセンスはずば抜けており、十六歳で東京オリンピックの代表選手に選出された時にはメダル候補の一人だった。その後もトップアマとして鳴らした高山が早大から鳴り物入りでプロ入りした時、すでにプロの世界に飛び込んでいた西城は東日本新人王戦の決勝で敗れ、その翌年には試合で再起不能といわれるほどの大怪我を負うなど、完全に高山の影に隠れた存在だった。


 泣かず飛ばずの西城がトンネルを抜け出すきっかけとなったのは、高山がプロ入りした昭和四十三年の海外武者修行である。最初の遠征地はマサトランというメキシコの片田舎で、西城にとって人生初のメインエベント出場だった(一月九日)。

 このようなアウェイでの試合はKOしか勝ち目がないのは承知のうえだが、西城は優位に試合を進めながらもとどめを刺せずに判定負け。ところが明らかな地元判定だったことで、西城の勝利を支持する地元ファンが荒れ始め、挙句の果てに放火する騒ぎにまで発展してしまう。

 ローカルファイトであればこそ、本来ならファンのほとんどが地元ボクサー贔屓のはずである。そこに全く面識のない無名の日本人ボクサーが乗り込んできたのだから、西城が入場してきた時には大ブーイングが起こっても不思議ではない。ところが、彼のファイトは見ている者を虜にしてしまう不思議な魅力があった。

 スピーディーなフットワークが持ち味で一撃必殺のKOパンチを持たないことから、戦績だけ見ると、西城は安全運転型のアウトボクサーだと認識されていることも少なくないが、実際はここぞという時にたたみかける凄まじい連打といい、劣勢から試合を一気に引っくり返す鬼気迫る逆転劇といい、KOに至らないまでもスリリングな見せ場をつくるのが特徴で、エンターテインメント性は抜群だった。

 ショービジネスは“魅せる”ことが集客力と報酬に直結する世界である。メキシコ転戦は、勝敗は別にして、この世界で生きて行くうえでの大きな自信を得る機会となったはずだ。


 その後、ロサンジェルスのメインジムに練習拠点を置き、次々に試合をこなしてゆくが、初の世界ランカーとの対戦となったホセ・ルイス・ピメンテル戦でも地元判定に泣かされた。しかし、再戦で二度のダウンを奪う快勝で世界ランキングの末尾に名を連ねると、三月二十八日にはエンリケ・ヒギンスを破って空位のWBA世界フェザー級タイトルを手に入れたばかりのラウル・ロハスとのノンタイトル戦というビッグチャンスが転がり込んできた。


 世界チャンピオンのロハスは、「リトル・ロス」と呼ばれるロスアンジェルスのストリートギャングのボスから表の世界の頂点まで駆け上がってきた荒っぽいファイターで、地元西海岸では大変な人気があった。

 「ボクシングをやっていなければガス室送りだった」と自ら語るほど筋金入りのワルで、仲間を射殺された腹いせに敵対する一味を銃撃して少年院送りになるなど、裏社会で修羅場を潜り抜けてきただけあって二十六歳とは思えないほど老成した顔つきをしているロハスに対し、少年時代には新聞配達をしながら家計を支えていた西城の方はにこやかな好青年風で、まるでガキ大将と優等生のような組み合わせだった。

 三十四勝一敗(二十二KO)一引分の戦績を持つロハスの唯一の敗北は、ビセンテ・サルディバルとの世界戦だが、最終ラウンド残り十秒でのレフェリーストップ負けと善戦しているように、ボクシングは荒削りながらタフネスだけは折り紙つきで、無敵のサルディバルから「ロハスは強い」と賞賛されたほどだ。

 ところが、ロハスにとって調整試合に過ぎないと思われていた西城とのノンタイトル戦(六月六日)は、減量に失敗した王者が若きスピードスターを捉えきれず、僅差の判定負けという予想外の結果に終わった。

 ロスの裏社会ではいっぱしの顔だったプライド高きロハスは、殺意のごとき闘志をみなぎらせて西城との再戦を臨んだ。もちろん今度は世界タイトルを賭けてである。


 ロハスが危険な挑戦者である西城をあえて防衛戦の相手に選んだのは、復讐心もさることながら、興行的にも旨みがあったからだ。サルディバルの去ったフェザー級にはロハスの相手になりそうな世界ランカーが見当たらず、長期政権が予想されていただけに、ここで世界ランキング二位まで昇ってきた進境著しい西城を挑戦者に選べば、日系人が多いロスで大きな話題となることは間違いない。

 事実、西城はすでにロスではちょっとは知られた顔になっており、日系二世の若い女性たちからモテまくっていた。ハンサムでスタイリッシュでボクシングも強い西城は、メインジムでも練習生たちから羨望の眼差しで見られていたが、この時代の日本人アスリートでこれほど海外生活に溶け込み、地元住民からももてはやされた例はないのではないだろうか。

 ロハス側から挑戦者西城に提示されたファイトマネー一万五千ドル(当時のレートで五百四十万円)は世界挑戦者としては五十年後の軽量級の標準であり、当時としては破格である。これも西城人気の成せる業といえよう。

 西城自身、「やるなら日本よりロスの方がいい」と発言していることからも伺えるように、西城にとってロスでの世界戦はすでにアウェイでの戦いではなくなっていたのだ。


 昭和四十三年九月二十七日、ロサンジェルス・メモリアルコロシアムで行われたWBA世界フェザー級タイトルマッチは、序盤は右クロスに定評のあるロハスとのショートレンジの打ち合いは避け、右ストレート中心に足を使ってポイントを稼いでいた西城が、六ラウンドに左右フックの猛攻で王者からダウンを奪うと、会場のボルテージは一気に上がった。

 タフで鳴るロハスはここからギアを上げて、八、九ラウンドを取り、終盤は逆転勝利のムードさえ漂い始める。しかし追い込まれると倍返しのように連打の回転が上がる西城は、十一ラウンドにロハスをコーナーに詰めて主導権を取り返すと、最終ラウンドまで手を緩めず、力でタイトルをもぎ取った。

 この日はロバート・ケネディ上院議員暗殺が世界のトップニュースだったが、日本人ボクサーが初めて海外で世界タイトルを奪取するという歴史的偉業は、ロスの日系人社会でも大きな話題となり、外電のテレタイプで送られてきた西城の快挙を目の当たりにした日本の記者たちも大騒ぎだったという。


 この快挙により一躍時の人となった西城は、凱旋帰国と同時に連日のような取材攻勢に遭ったが、本人はいたってクールだった。

 西城の世界戦までの戦績は十六勝五敗(三KO)三引分。これでWBA世界フェザー級二位に名を連ねていること自体が信じられないほど寂しい数字である。これでは日本のテレビ局がわざわざ大枚をはたいてまで世界戦の衛生中継をやろうとは思わないだろう。もちろん、評論家の中にも西城の勝利を支持する者などいなかった。そのため、ボクシングの世界戦といえばオリンピックばりの注目度だった当時でさえ、テレビ中継は見送られていた。

 その腹いせか、帰国後の西城は世界王座を獲得するや掌を返したような報道ぶりに対して「ざまあみろと言ってやりたい」となどと辛辣なコメントを発している。

 プライベートな質問に対しても優等生を気取ることなく「女を知ったのは十五歳」「ガールフレンドは何人いるかわからない」などと、ストイックさが求められるボクサーらしからぬ発言が相次いだが、こういう現代ッ子らしさも西城の魅力の一つで、エリート街道を歩めず散々苦労した過去を持ちながら、全く暗さを感じさせず明るく前向きに生きる二十一歳の若者は、同世代の圧倒的な支持を得た。

 同年から表彰が始まった第一回日本スポーツ大賞にプロ野球のスーパースターであるON(王貞治と長嶋茂雄)を差し置いて西城が選出されたのも、彼が新しい時代のヒーロー像を作ったからであろう。


 ベサンテ戦で世界王者らしからぬ打たれ弱さを露呈した西城は、トップコンテンダーであるペドロ・ゴメス(コロンビア)との初防衛戦(四十四年二月九日)でも苦戦が予想されていた。

 ゴメスは、クロスカウンターの名手にして現役最高のテクニシャンといわれるWBA世界J・ライト級チャンピオン小林弘をKOしたことのある唯一のボクサーであり、顎が弱く、ディフェンスでも小林に劣る西城では荷が重いと見られていたからだ。

 ところが不用意な打ち合いに応じず、タイトル防衛を主眼に置いた安全運転に徹した西城は段違いのスピードで強打のゴメスを翻弄し、文句なしの判定勝ちで世界チャンピオンの貫禄を見せつけた。しかもボクシング人気が下降線をたどりつつあった時代としては驚異的ともいえる四〇・二パーセントもの視聴率を獲得したのだ。

 その後も西城の試合といえば、視聴率三〇~四〇パーセントは当たり前で、ファイトマネーも初防衛戦の千五百万円が、二度目の防衛戦では二千万円、三度目には三千万円とうなぎのぼりとなった。

 これはハンマーパンチでバタバタと相手をなぎ倒す藤猛の力強さとは対極の、優男の西城のある種のひ弱さに起因するハプニング性がファンの関心を煽った結果であろう。

 若年層の憧れの対象が、石原裕次郎や小林旭に代表されるタフなアクションスターから沢田研二や萩原健一といった甘いマスクのグループサウンズのアイドルへと移行していったのと時を同じくしているというのも興味深い。


 難敵を撃退したことで自信をつけたのか、四月十四日のノンタイトル戦はダウンを奪う完勝、続く六月十六日のノンタイトル戦は八ラウンドKO勝ち、九月七日の二度目の防衛戦では過去一勝一敗のホセ・ルイス・ピメンテルを二ラウンドで電光石火のKOに下すなど、相手を幻惑するスピードだけでなくチャンスには倒しにゆく好戦的なイメージもファンに印象付けた。

 同年十一月四日にはホノルルでのノンタイトル戦で、左目尻から出血しながらルイス・ベガからダウンを奪って圧勝しているように、内弁慶の日本人が苦手とする海外での試合に強いところも西城の魅力だった。


 日本ボクシング界きっての人気者になった西城のもとには対戦オファーが相次いだ。

 中でも三階級制覇を狙うファイティング原田との対戦は日本ボクシング史上最大の一戦として期待されたが、双方が専属契約を結ぶテレビ局が違うことなどがネックになり実現しなかったのは惜しまれる。

 同世代のライバル柴田国明も西城との対戦を望みながら果たせず、王座に返り咲いたサルディバルをKOしてWBC公認の世界チャンピオンになった(四十五年十二月十一日)。ここにおいて世界フェザー級タイトルは日本人が二分することとなり、両者のイニシャルを取ってSS時代と呼ばれたが、ファン待望の統一戦は幻に終わっている。

 その代わりに実現した夢のカードがWBA世界J・ライト級チャンピオン小林弘とのノンタイトル戦である。国内のノンタイトル戦としては最高額となる五百万円がファイトマネーとして西城に支払われたこの試合、失うもののない西城はいつもほどの闘志が感じられず、一階級上の先輩に勝ちを譲ったような形になったのは残念だが、ジャブもストレートも小林より速く、それなりに見所はあった。


 昭和四十六年九月二日、六度目の防衛戦でペドロ・ゴメスの弟アントニオに五ラウンドKO負けして王座を去った。最初のダウンから立ち上がるや、すぐさま反撃に転じてアントニオをロープに釘付けにしたところなど、ベサンテ戦、クロフォード戦(四度目の防衛戦)の再現かと思わせたが、減量苦に悩まされていた西城にはこれ以上攻め続けるだけの体力は残っていなかった。


 潔くリングを去った西城が再びその雄姿を見せたのは、約一年後の昭和四十七年七月十二日のことだった。国際式から足を洗った元チャンピオンは、今やボクシングを凌ぐ人気を誇るキックの世界で再デビューを果たしたのだった。

 キックへの転向を表明して四ヶ月、元タイ国ライト級チャンピオンの肩書きを持つブライランプンク・ボーコーソーと大阪府立体育館でキックの第一戦を行った西城が、二ラウンド左アッパーでKO勝ちすると、専門誌は待ってましたとばかり「新しき西城時代の幕開け」と大々的に書き立てた。それも世界フライ級タイトル防衛戦で劇的な逆転KO勝利を飾った大場政夫よりも紙面の扱いは上というのだから凄い。

 なにしろデビュー戦のファイトマネーが、キック界のスーパースターである沢村忠とほぼ同額の百五十万円である。新人とはいえ、リングサイド七千円の府立体育館を札止めにできる集客力があればこその待遇といえよう。人気選手なら月に二度はリングに上がるので、これだけでも年収は三千万円を超える。

 加えてルックスが良く、チャンピオン時代にも『コント55号とミーコの絶体絶命』(松竹映画)に出演するなどマスコミ関係への露出度も高いため、副収入もばかにならない。

 キックの世界でも十五勝〇敗(十三KO)一引分けと負け知らずの西城人気は天井知らずだったが、スター候補生らしく勝てる相手を選んでマッチメークされていることも事実であり、ファンは真の強豪選手との対戦を切望した。そこで選ばれたのが、かねてより人気先行型の西城のことを苦々しい思いで見ていた藤原敏男である。

 極真会系の黒崎道場所属の藤原は、沢村ほど派手ではないものの、甲乙付け難い実力者と目されていた。スター同士の潰し合いを避けるためか、沢村と藤原が雌雄を決する機会は訪れなかったが、藤原は後に日本人として初めて本場タイの王座を獲得したほどの男である。キックよりパンチ頼みの西城にとっては厳しい試合が予想された。そして案の定と言うべきか、パンチの射程に入る前に藤原の切れ味鋭いキックをしたたかに浴びた西城は、三ラウンドにセコンドからタオルが投入されTKO負けに退いた。

 テンカウントこそ聞かなかったものの、藤原は武士の情けで手加減していたようなところもあり、実力差を見せ付けられた観客の失望は大きかった。

 西城がキックの世界にいたのは八ヶ月に過ぎなかったが、引退直後には千葉真一とアクション映画『直撃、地獄拳』(四十九年八月封切)で大立ち回りを演じるなど、やはり絵になる男だった。


 日本のプロスポーツ史上、二十一歳で世界の頂点に上り、世間でいうところの大学生くらいの年齢で四千五百万円(当時としては高級住宅だった)の自宅を立てて、ガールフレンドをとっかえひっかえがながら派手な高級外車を乗り回しているような男がいただろうか。まだ一軒に一台の自家用車が当たり前ではない時代のことである。

 容姿端麗で腕っ節も強い金持ちの色男なんて、映画かTVドラマの主人公しかありえない。西城正三はまさにバーチャルリアリティを地で行く若者たちの憧れのヒーローだった。


キック界の帝王沢村は、「ボクシングで戦えば西城だが、キックなら西城ファンを泣かせることになりますよ」とインタビューに答えていた。この頃多くの元チャンピオンクラスのボクサーがキックに転向しては痛い目に遭っていたが、いずれも峠を過ぎた選手であり、これだけで優劣を決めることは出来ない。私見ではあるが、キックにはプロレスに通ずるキワモノっぽさを感じていたし、本当に自信があるなら、キックより試合報酬も格段に高いボクシングで頂点を極めればいいのに、とその当時も思っていた。

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