第5話 命を耕そう
次の日の朝。
「……えっと、本当に……鍬を握るところからですか?」
ミナの声には、明らかに戸惑いがにじんでいた。
それもそのはずだ。
村の朝は早い。
いつもお世話になってるおばさんに事情を説明すると快くミナのことを泊めてくれた。
陽が昇る前に俺が彼女を呼びに行くと、ミナは眠そうな目をこすりながらも、文句ひとつ言わずについてきた。
そして今、手にしたのは――木製の鍬だった。
「治癒魔法を教えてもらえるって聞いたんですけど……」
「教えるよ。まずはこれを振るうところからだ」
「……ええと、魔法の準備運動……?」
「違う。立派な訓練だ」
ミナはしばらく唖然としていたが、諦めたように鍬を両手で持ち直した。
「……わかりました、お師匠様。やります」
それを聞いて、俺は小さく笑った。
「よし。じゃあ、こっちの畝から始めるぞ。まずは土を柔らかくする。雑草の根も一緒に掘り起こしていく」
「は、はいっ!」
ミナは慣れない手つきながらも、一心に鍬を振るいはじめた。
乾いた音が、朝の静寂に響く。
土が割れ、空気に触れ、日の光を受けてほんのりと湯気を立てる。
「なあ、ミナ」
「はい……はぁ、はぁ……な、なんですか……?」
すでに息が上がり始めているのが、なんとも初々しい。
「この土、最初は固くて重たいだろ?」
「は、はい……全然刃が通らないです」
「でも、根気よく掘って、空気と光を通せば、だんだんと柔らかくなる。そうなったとき、やっと“種”が入るんだ」
「……はい」
「これが、治癒の基本だ」
ミナの動きが止まる。
鍬を地に立て、汗を拭きながら俺を見た。
「えっと……畑を耕すことが、治癒魔法の勉強……なんですか?」
「そうだ。癒すってのは、土を耕すのと似てる。
固まった心や傷を、そのまま癒そうとしても弾かれる。まずは“受け入れられる状態”をつくってやる必要がある」
「……人の体や心を、耕す……」
「そういうことだ。だから、まずはお前の手で、命の土を知ってもらう」
俺の言葉に、ミナは少しだけ目を丸くした。
そして、こくんと小さくうなずいて、再び鍬を振るいはじめる。
土が跳ねる。汗がこぼれる。
だが、それでもミナは一言も文句を言わなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
陽がだいぶ昇って、額の汗が目にしみるころ、畝の一角がようやく耕し終わった。
「ふぅ……終わりました……!」
「よくやったな。悪くない」
「ほんとですか!?」
「ただ……これで終わりじゃないぞ。土を癒したなら、次は“命を与える”」
俺は小さな麻袋から、豆の種を取り出した。
赤茶色の、丸みを帯びた小さな命。
「一つずつ、優しく置いてやるんだ。乱暴に投げ入れたりしたら、傷ついて育たない」
「……はい」
ミナは両手を丁寧に使い、種を埋めていった。
「その一粒一粒が、やがて芽を出し、根を張り、実をつける。……治癒魔法ってのは、これと同じことだ」
「えっと……」
「体の傷に触れるとき、相手の痛みに種を撒くように触れる。
命がそこに戻ってくるように、そっと寄り添う。それが、癒しの本質だ」
ミナの手が止まった。
「……お師匠様」
「ん?」
「この土、本当にあたたかいですね。なんだか、鼓動があるみたい」
俺は目を細めた。
この子は、ちゃんと“感じ取れる”子だ。
「そうだな。土も、命を宿してる。お前が汗を流したから、そうなった」
「癒すって、すごいですね……体を治すだけじゃなくて、こんな風に……命と話すことなんですね」
「話すというより、耳を傾けるんだよ。命の声を、ちゃんと聞いてやる。それが癒しの第一歩だ」
ミナの頬に、風が吹きつけた。
その髪がふわりと揺れ、笑みがこぼれる。
「私、もっともっと知りたいです。お師匠様の癒しを」
「……そうか。じゃあ、次は……水やりだ」
「えっ、まだあるんですか!」
「癒しに終わりはないぞ?」
「……が、がんばります……!」
笑いながら、ミナが立ち上がる。
俺も、思わず小さく笑った。
こんな風に笑ったのは、いつぶりだろうか。
土に触れ、命に触れ、誰かに何かを伝える。
それだけのことが、こんなにも――嬉しいなんて。
ふと、ミナがぽつりと言った。
「ねぇ、お師匠様。今、すごくあったかいです。体も、心も」
「そりゃあ、癒されたからな」
「……えっ?」
「土と向き合って、命を見つけて、汗を流して。自分の中の“冷たい何か”が、少しずつ溶けていくだろ?」
「……はい。なんか、胸の奥がじんわりしてて……」
「それが“癒し”だ。魔法を使わなくても、人は癒されるんだよ」
ミナは静かにうなずいた。
「……ありがとう、お師匠様」
その言葉に、胸の奥がふわりと熱くなった。
かつて、仲間たちと笑い合っていた日々。
失ったはずのその温度が、今ここに確かにあった。
――癒すとは、命を耕すこと。
土と同じように、人の心にも、やさしく触れていくこと。