第4話 癒すとは
その日、空は朝からずっと灰色だった。
ここに来てから何度か雨は降ったが、今日は少し様子が違う。
空の奥から響いてくるような雷鳴。重く沈んだ雲。
嫌な雨になるかもしれない。そう思いながら、俺は井戸のそばで水瓶を運んでいた。
「……っくしゅ!」
くしゃみの音が背後から聞こえた。
振り返ると、村の道の外れ――山沿いの坂の下に、誰かが立っていた。
「おい、大丈夫か?」
駆け寄っていくと、そこには少女がいた。
年の頃は十一、二といったところだろうか。肩までの栗色の髪は雨でぺったりと濡れ、マントの端には泥がついている。
「あ、えっと……あの……っ」
大きな目が俺を見上げる。その瞳が揺れていた。
不安と決意が入り混じったような、そんな色だった。
「お前……見ない顔だな。村の子じゃないよな」
「はい……隣村の者です。あの……すみません、急に押しかけてしまって」
「隣村?……ここから五時間くらいかからないか?まさか一人で?」
小さな手が、ぎゅっとマントの裾を握っていた。
震えていたのは、寒さだけじゃない。それでも少女は、口を開いた。
「はい。私……治癒魔法を学びたいんです。あなたが使えるって、噂を聞いて……」
少し、驚いた。
この村では、簡単な回復や応急処置の魔法を時折使っていたが、目立つほどのことはしていないつもりだった。
それでも、人づてに話は伝わるものらしい。
「どうして治癒魔法を?」
聞くと、彼女は迷わず答えた。
「昔、家族が病気で倒れて……そのとき、助けてくれた人が治癒士だったんです。
その人の魔法は、ただ体を治すだけじゃなくて……なんだか、心まであったかくなるような……。それで、私も……あんな風になりたくて」
まっすぐだった。
どこまでも、まっすぐな瞳だった。
その姿が、一瞬――フィーネに重なって見えた。
かつての仲間で、回復魔法を極めようとしていた少女。
「癒すって、痛みを和らげることだけじゃないよね」
そう言って笑ったあいつと、同じ色の光を、この子の中に見た気がした。
「……ここに来るまで、大変だったろう。濡れた体じゃ風邪ひく。とりあえず、うちに来い」
「えっ、いいんですか……?」
「ああ。魔法の話は、それからだ」
案内した家は、村人に借りている小さな小屋。
ストーブに火を入れて、温かいハーブティーを淹れると、彼女はほっと息をついた。
「ありがとう、ございます……」
「名前は?」
「ミナっていいます。ミナ・ルミエール」
「俺はレオン。村では“ちょっと魔法が使える変人”って呼ばれてる」
「ふふっ、変人さん……」
笑った。
その笑顔が、まっすぐで、柔らかくて――
胸の奥に置き忘れていた何かが、じんわりと溶けていくのを感じた。
「で、ミナ。お前は弟子入りを希望したんだったな?」
「はい!」
背筋を正して、彼女は言った。
「私、才能があるとかそういうわけじゃないと思います。でも、努力はできます。あの人みたいに、誰かを救える魔法を使えるようになりたい……!」
語る言葉に、嘘はなかった。
治癒魔法を“力”としてではなく、“温もり”として見ているその姿勢。
それはきっと――世界が忘れかけていた、癒しの本質だ。
だが、俺は口を噤んだ。
弟子。
この言葉が、どれほど重いか、俺は痛いほど知っている。
信頼し合った仲間が全員、俺の腕の中で散っていった。
癒しの手は、届かなかった。あのとき、どれほどの力があっても、助けられなかった。
そんな俺が、誰かを導いていいのか?
「……考えさせてくれ」
そう言って、俺は目を伏せた。
ミナは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりとつぶやいた。
「……やっぱり、私じゃだめですよね。すみません、押しかけて……」
「違う。お前がダメなんじゃない。俺のほうだ。……人に教えるような立場じゃない」
「あの……一つ、聞いてもいいですか?」
「……何だ?」
「“癒し”って、どういうことだと思いますか?」
唐突な問いに、一瞬、返事ができなかった。
それでも、口をついて出たのは、昔誰かに言ったのと同じ言葉だった。
「……ただ痛みを消すだけじゃない。“生きたい”って思えるようにすること、だと……俺は思ってる」
ミナの目が、少し潤んだ。
「やっぱり、すごい人だ……私、あなたの弟子になりたいって気持ち、間違ってなかった」
そんなことを、真顔で言う少女が――たまらなく、眩しくて。
「……しばらく村にいるのか?」
「はい!」
「じゃあ、まずは……一緒に畑を耕すところからだな」
「えっ? 魔法じゃないんですか?」
「癒すってのはな、土の中の命も大事にするってことだ。基本から教えてやるよ、“お師匠様”としてな」
「……!」
ミナの顔が、一気に明るくなった。
「はいっ! お師匠様!」
そう呼ばれた瞬間――
胸の奥で、何かが静かに溶けた。
もう、仲間たちはいない。
だけど、誰かの未来に、少しでも癒しを渡せるなら。
「……よろしくな、弟子」
それが、俺とミナの、最初の一歩だった。