第8話
「……これはこれはウルくん。キミのようなお方がこんな掃き溜めにどんなご用件だろう?」
おどけたように尋ねる声はどこか引きつって聞こえた。機械らしく表情こそポーカーフェイスを保っていても、内心の動揺が伝わってくる。内心なんてものがあるかも知れないが。
驚きを露わにしたのはエミリオだけではない。ウルの背中に隠れていた珠紀は驚きに目を見開いていた。ウルがエミリオのことを認識している口振りだったのは把握していたが、まさか顔見知りだとは思っていなかったのだ。
「単刀直入に言う。珠紀から手を引いて欲しい」
「いくらくれる?」
視線をぶつけ合う二人はどちらも仮面のような笑みを浮かべていた。珠紀が口を挟む隙はない。
「ウルくんは”彼女の価値”を誰よりも分かってるでしょ?」
「ああ。だから俺が出てきたってロットーなら分かってるだろ?」
それぞれが意見を一方的に投げつけていて、譲歩なんて選択肢とは無縁のようである。
腹の底を探り合う緊張感、ぎすぎすとした空気感。弱気になった人間から脱落していくような、精神の強靭さを問われる戦場が出来上がろうとしていた。
「金を払うつもりはない」
「黙って手を引いてくれって? キミ、そんなに話の分からない人だったっけ?」
「代わりに――」
長いまつげに縁取られた緑の瞳に映るのは不満げに口を曲げたエミリオ。ウルは不敵に口角を上げた。
「ロットーを使徒に推薦する」
珠紀にはウルの提示した条件が何だか分からなかった。ただし、それが最高の切り札であることはウルの顔を見ずとも分かる。自信満々のようだ。
その裏づけをするように、ずっと笑みを浮かべていたアンドロイドはぽかんと大口を開けていた。サングラスの向こう側に見えるレンズがきりきりと揺れている。
「今、ここで決断してくれ。断るならこの話はなしだ。二度と同じ条件は出さない」
どうやら、話の主導権はウルの手元に来たらしい。
ウルから条件が出された瞬間からエミリオの言動はどこかぎこちない。驚愕と呆然。思いもしなかった展開にどぎまぎしているように見える。表情を隠すように口元に手を添える姿は、万人が思い浮かべる考える人の姿だ。
「……断ったとして、タマキちゃんは返してくれるの?」
「もちろん、このまま連れて逃げる」
珠紀は誰にも聞こえないように静かに息をついた。
珠紀とウルが信頼関係を築くには時間も情報も足りていない。お互いの利害が一致はしたものの万が一、という悪い想像が彼女の頭の中には常にあった。しかし、目前でぴしゃりと断言するウルの姿を見て、それも急速にしぼんでいく。
「…………」
「さ、決断してくれ。ロットー」
「…………」
無言になってしまったエミリオは、つい十数分前の珠紀を彷彿とさせる。思考回路を巡らせ、自分がどうすべきかを必死に考えている。生きるために――。
ほんの一瞬、世界のすべてが静止したようだった。
火事のにおいも、煙がくゆる光景も、橙に染まる空も、爆風に荒れた小道も、煌々としたネオンも。世界を構成する何もかもがエミリオの返答を待ち構えている。
薄く開いた唇から乾いた空気が漏れた。
「……契約書は書いてもらうよ」
そう言うが早いか、エミリオは鎮座していた車体から飛び下りる。つかつかとヒールの高い靴で金属の地面を叩き、急ぎ足でウルたちとの距離を詰めた。
「喜んで」
「あとから有耶無耶にされたくないし」
「そんな不義理はしないって」
「ボクからもいくつか条件を出させてもらう」
「それは内容次第だな」
さっきまでの殺し合いが始まりそうな空気感は霧散していた。エミリオは背後に控えていた機械人形に声をかけ、さっそく契約書の準備を始めている。
ここに来る前にウルが宣言した通り、珠紀が負担することはなにもなく、ウルが怪我をすることもなく、簡潔で素早い幕引きとなった。
電光石火の解決は珠紀からすれば喜ばしいはずであるのに、彼女の表情はどうも浮かない。
「……あの、ウルさん。契約書なんていいんですか? 私のせいでなにか面倒なことをあなたに押しつけてしまっていませんか?」
「気にすんな。君のこととは別件でロットーのことは監視下に入れておきたかったから」
契約書を作成したところでどれだけの効力があるか分からないが、契約が成立するということはお互いが納得する対価を出し合うことになる。
「……、使徒ってなんですか?」
「うーん、なんて言ったら伝わるんだろ。神の手伝いをする役職? 庭師というか、秩序を正すというか」
「かみって、神様の神?」
「そ。なろうと思ってなれるもんじゃないし、条件も厳しいんだけど。今度の裁判は箱庭の命運が決まる大事な裁判だから、取れる手段は出し惜しまない」
珠紀は考えた。そして、分からなくなった。
「……ウルさんって何者なんですか?」
「ウルでいいって」
話を逸らすにしたって、もっと上手くやる努力を見せたっていいものだろう。ウルの視線には穏やかながらもどこか畏怖を覚える冷徹さが垣間見える。これ以上の詮索は許されないようだ。