第5話
珠紀の恐怖はもはや麻痺していた。取引を持ちかけられたことよりも、何も持たない彼女はまず自身の生死を心配すべきだ。そんなことも判断できず、目先の事象にだけ注視してしまっている。これを急速な順応といっていいのか、無謀な開き直りというべきなのか。
青年は殺伐とした様子の珠紀を一瞥して、困ったように眉尻を下げた。
「どこから話すかな」
威圧的な態度や物言いは感じられない。エミリオと比べれば幾分も好青年に思える。まあ、かのアンドロイドを比較対象にするならば、大抵の人間が好印象に思えるかもしれないが。
珠紀は言葉を探すように唸る男を黙って見上げた。
見目は同世代に見える。仕立てのよい民族衣装を着ていたエミリオとは違い、動きやすさを重視した軽装はまるで狩人のようだ。腰に巻かれた太いベルトには中身の見えないホルスターがいくつか、その並びにナイフの柄も見える。裾のぼろになった外套はよっぽど長く着込んでいるのだろう、ほんの少しのみすぼらしさを感じさせる。履き潰したブーツにお似合いだった。
手練れの狩人か、放浪の旅人か。なんにせよ、この機械の街にはあまりにも不釣り合いな男だ。会社帰りでスーツを着ている珠紀の方がまだ馴染みがある。
「助けてくれるんですか?」
もはや異常の精神状態に陥っている珠紀は考えもなしに口を開いた。
ぱちり、男は小動物のように瞬く。そして、彼もまた考えることもなく口を開いた。
「俺を助けてくれるなら」
一瞬の静寂の後、珠紀は訝しげに、ただし流暢に「……私があなたを? 助けられることがあるとは思えないんですが」と本心のままに返答する。右も左も分からない立場で彼の依頼に応えるのが難題に思えたのだろう。眉間にはくっきりとしたしわが寄っている。
男は日和ることもなく頷いた。一字一句の聞き漏らしを許さないように「詳しい話は安全な場所に行ってからするとして」とはっきりした発音で言葉を返す。
「突然で理解しがたいかもしれないが、君は命を狙われてる。今はロットー――さっきのアンドロイドの一派だけだろうが、ロットーが仕留めそこなったとなれば間違いなく他の悪党どもにも狙われることになる」
男の言った前置きの通り、珠紀には理解しがたい話だった。
「さっきのって……、見てたんですか?」
「俺の仲間がな」
「仲間?」
「ああ、派手に暴れてただろ?」
仕方がなさそうに肩をすくめて、呆れた調子で「ロットーの注意を引くためとはいえ、あそこまでやる必要なかったよな」と共感を求めた。
あそこまで――、珠紀に思い当たる事件は一つ。逃走する背中を押してくれた大爆発だ。何度か爆発音を轟かせては炎と煙の柱を乱立させていた。一大事である。
(どうして爆発……?)
あれが男の仲間の仕業だというのなら、その目的は何なのか。因果関係が分からずに言葉を詰まらせた彼女を助けるように、男の朗々とした声が「元から君を助けるつもりだった。いつになるかは分からなかったけど、君がここに来ることになるのは知ってたから」と話の流れを促す。
珠紀はさらに眉間のしわを増やした。
不意に絶望の袋小路で披露された片桐の妄想が、思いのほか的を射ていたのではないかと気づく。王子も救世主もないが、意味があって自分はここにいるのではないか、と。
「……あなたは何を知ってるんですか?」
「全部。全部、知ってる」
深い闇の広がる暗がりの中、男の声はどれだけ秘めやかにしても筒抜けになってしまう明朗さがある。新緑の瞳は何色とも判別できなくなってしまった顔色の珠紀を真っすぐに見据えた。
「君には”楽園”で開かれる裁判に出席して欲しい。証人というか証拠として」
美しく鮮やかな緑には期待と同情、そして、少しの罪悪感が滲んでいる。
「さ、裁判?」
「そ、裁判」
それ以外に聞くことがあっただろうに。珠紀はこの機械の街でも裁判があるのか、と現実から目を背けた心の声を音にしていた。裁判が裁判だからといって裁判にしかならない。問題はそこにたどり着く過程である。
「あなたが何を言っているのか分かりません」
「だろうね」
一貫して男の態度は柔和だ。知らぬ存ぜぬな珠紀の言動に対しても寛容的で否定や非難はしていない。
そんな彼の雰囲気にのまれてか、珠紀の口は随分と軽くなっていた。
「私は命を狙われる覚えなんてない。元居た場所――、私が生活していたあの場所に帰りたいんです」
「俺が責任を持って帰すよ。ただ、すぐには帰せない、というか、裁判が終わるまでは君の安全を考えて帰らない方がいい」
「なんでですか?」
「帰ったところで、またロットーに呼び出されて同じことになる。堂々巡りさ」
またあの袋小路に戻るのなんてごめんだ。ついでに、この路地裏に居座るのもごめんだ。しかし、自分の命は何が何でも守らなければならない。
ここらの危険度はどれくらいだろか、そもそもどんな理由があって自分が呼び出される対象になったのだろうか――。そうした思案の末、珠紀は「ここはどこなんですか?」と最大の疑問を投げかけた。