第4話
血の気が引きに引いた顔色の珠紀はネオンの色に溶けてしまいそうだ。彼女の精神は着実にすり減っている。
最初から疑っていなかったが、彼女はこれを夢だとは思えなかった。肌を撫でる空気は日本のものではないし、建物の造形も近未来的でSF映画の中でしかお目にかかれないようなもので、現実味はこれっぽっちもない。それでも、自分が現実に立っている実感が珠紀にはあった。理解できない異常があるのはここが生まれ育った世界ではないからだ、といわれれば、理解はできずとも納得はできた。
(意味が分からない……)
一緒にここへ連れて来られた先輩は妄言を突き通して機械人形とともに消え、対峙する胡散臭いアンドロイドは訳の分からない話ばかりをする。
現実逃避もしたくなるというものだった。目の前の現実は決して珠紀を逃がしてはくれないだろうが。
なけなしの気力でどうにか立っていた珠紀は一生懸命に思考回路を働かせた。答えが出ない疑問ばかりが積み上がっては崩れ、また一から積み上がる。どうして、どうやって、なんで、思考に体積があったなら彼女は今頃破裂していたことだろう。
「タマキちゃん? 聞こえてる?」
聞こえてはいる。ただ、聞こえていたら何だというのだ――、疲弊した思考はとんでもない方向へねじ曲がろうとしていた。
そんな彼女の意識を正すように、行動を促すように、運命を分かつ衝撃がネオンに照らされる機械の都を襲う。まさしく、強襲。
耳を塞ぎたくなる轟音に振動する地面。強い風の音と地面から空へと上り立つ土埃、青と白を塗りつぶす赤と橙。爆ぜる火花に金属の溶けるにおい。そのすべてが一瞬にして畳みかけてくる。
爆発だ。この路地からほど近い場所で大規模な爆発が起きた。
「わっ……!?」
建物の隙間を縫って押し寄せた爆風を受け、珠紀はその場に転倒する。対して、エミリオは服の裾をはためかせながらも仁王立ちでやり過ごした。笑みを湛えていた表情は無になり、「何事だろう」と冷淡な声を響かせる。
エミリオの視線が珠紀から外れたーー。
珠紀は自分の意思に反して一歩を踏み出していた。気づいたときには、体が勝手に立ち上がっていたのだ。次の足が出て、さらに次の足が出る。数歩ののち、珠紀は袋小路から火事を背にして走っていた。全力疾走のさらにその上、命のための激走である。
決死の覚悟は強制的に決まっていた、決めざるをえなかった。
そんな彼女の逃走を後押しするように景気よく爆音が響く。打ち鳴らされたのは祝福の鐘ではなく新たな崩壊の騒音であるが、今の珠紀の背中を押すには必要なのはこちらだ。こちらの方がふさわしい。
「……、あらら」
「エミリオ! 侵入者だ!」
珠紀と入れ違いに、どこからどう見ても粗雑な造りの機械がエミリオの元へと近寄る。人形とも呼べない、移動装置のついた金属の塊。それなのに、彼――と呼称するのが正しいのかも分からない物体は焦っていた。まるで感情のある生き物のように。抑揚のない平坦な電子音声であるのに、緊急事態であることは嫌というほど伝わってくる。
「三番倉庫が――」と続いた言葉は追加の爆発音にかき消された。
「三番倉庫ね。分かった。今から行くよ」
「あれは放っておいていいのか? クソ天使の娘だったんだろ?」
「うん。随分なお人よしみたいだ。あの頭のおかしな友人がこっちにいる限り、一人でどこかに逃げたりはしないよ」
エミリオの考察は当たっている。
ほとんど衝動で逃げ出した珠紀に明確な逃げ先はなかった。どこへ行くかの考えもなく、とにかくこの場所から離れることだけを目的としていなくなっただけ。そして、この場所から離れたところで一息がつけようものなら、彼女の頭に浮かぶのは元の世界へ帰り道ではなく、自ら商品部屋へ飛び込んでいった片桐の姿というのも事実と相違ない。
「人間の考えることは分からねえ、逃げられるわけないのにな。苦痛を先延ばしにするだけだろ」
「はは、まあまあ。いいじゃない」
殺すべき相手に逃げられたというのにエミリオは余裕綽々の様子でいる。逃げられた、という認識ではないようだ。
「ああいうのが人間らしいっていうんだろうし。勉強になるよ」
エミリオはサングラスをかけ直し、珠紀が飛び込んでいった狭い路地から目を離す。先導する機械に続いて、炎と煙が立ち込める第三倉庫へと歩みを進めた。
◇
走る。地面を蹴る。走る。狭い道へ。走る。人目のない場所へ。珠紀は自ら深淵に飛び込むように狭い路地を進んでは、明るいネオンの光が届かない暗がりへ向かっていく。
しばらくして、行き止まりに辿り着いた。そもそも通路としての役割を持った場所ではないのだろう、敷地と敷地の境目でしかない隙間だ。
「はっ……、は……」
珠紀の足が止まる。
途端に汗が吹き出し、息苦しさと腹痛を覚えた。崩れ落ちるようにその場にしゃがみこみ、冷たい地面に手をつく。左胸を押さえればどくどくと鼓動が暴れているのが分かった。寿命を食いつぶす心臓はなかなか落ち着こうとしない。
(生きてる)
深く息を吸い込み、長く息を吐き出す。肺の中身を何度も何度も入れ替えて、一緒に雑念も吐き出していく。
耳鳴りがするほど静か、物音の一つもしない。
一人きりになれる場所まで来たものの、珠紀は逃げ切ったなどとは微塵も思っていなかった。エミリオが想像していた通り、まず彼女の頭に浮かんだのは一緒に攫われてきた片桐のこと。あのままにはしておけない、と考えるのは自分のためでもあった。仲間は多いに越したことかない。片桐は身元がはっきりしていている相手だ。疑心暗鬼に無用な駆け引きをする必要もない――はずである。
珠紀は汚く散らかってしまった思考を徐々に整理していく。いや、しようとした。
「静かに」
背後から聞いたことのない男性の声。
はっとして振り返った珠紀の口元に男の人差し指が乗る。温かな体温は人間のそれで、冷え切っていた珠紀には熱すぎるほどだった。言葉を制止するように置かれた指は珠紀が叫ばないと確認するとすぐに離れていく。
「怪しくしか見えないだろうけど、俺は君の敵じゃない」
珠紀の目に見える要素は彼が人間であることを主張している。瞳はエミリオのレンズとは違い、みずみずしい緑の色で暗い路地でもぎらりぎらり輝いて見えた。
この暗がりから次の暗がりへ誘うような色の髪は、珠紀の髪と似た色であるがどことなく違う。光に焦げた髪はそれだけで快活さを印象づけるものだ。
「俺は君を助ける。だから、君に俺を助けて欲しい」
男は真摯な態度で訴えかけてくる。
また取引か、と珠紀の顔が険しくなった。すでに嫌な記憶として分類されてしまった先ほどの出来事が思い起こされる。