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まずは手を離さないこと、それから  作者: 真名瀬こゆ
パラダイムスクラム
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第1話

「内海さん、大丈夫?」


 ゆっくりとした瞬きから一転、はっとしたように目を見開いた珠紀は慌てたように体を起こそうとして失敗した。貧血のようにくらりときて、体が言うことを聞かなかったのだ。ずしゃり、と間抜けな音とともに再び地面に伏せる。

 青白い光に照らされた暗がり。舗装しているとはお世辞にも言えない地面には大小の石ころ、元のかたちも分からない金属片。遠くに騒がしい音は聞こえるが、それを認識できるほどに周囲は静寂に満ちている。

 珠紀は自分の心音で耳が潰れそうだった。知らない空気で肺が膨らみ、知らない空気を拒絶するように吐き出して何とか呼吸が成立する。


(ここは、私は……、私を掴んだあの機械の手は一体……)


 珠紀は目を白黒とさせて記憶を手繰り寄せた。頭がずきずきと鈍痛を訴えるほどに意識が覚醒していく。

 会社からの帰り道、人通りの多い駅前、それは突然現れた。


「内海さん?」


 浅い呼吸を繰り返し、冷や汗を流す焦燥の珠紀に反して、かけられる声は柔らかく穏やかなものだった。

 珠紀はこの声の主を知っている。会社の一年先輩である片桐の声だ。ゆっくりと顔を上げれば、彼女の思った通りの人物がそこにいた。そうして、珠紀が覚えている限りの最新の記憶に彼女の姿もあったことを思い出す。偶然、退勤時間が一緒になって駅までの道を並んで歩いていたのだ。

 珠紀は見知った顔にわずかに安堵した。心配そうにする先輩に対して、大丈夫、と口を動かしたものの乾いた吐息が漏れるばかりで声にはならない。


「おはよう、ご機嫌はいかがかな」


 珠紀の声でも、片桐の声でもない。

 いつからそこにいたのだろうか。もう走ることは叶わないだろう年季の入った大型の車両の上、猫のような目を楽しげに細めた男が彼女ら二人を見下ろしていた。

 派手な民族衣装を着ていることを除いても、奇妙な雰囲気の男だった。

 白皙の肌は血の通った生き物には思えない。二十代にも三十代にも見えるのに、好奇心に彩られた瞳は幼子のように煌めいている。目の動きから伝わる素直な心情を少しでも覆い隠すようにかけられたサングラスは、暗がりのここでは不要のものだ。それが彼の胡散臭さを助長していた。


「顔色が悪いね。大丈夫?」


 月も星も見えないが昼時ではないと断言できる暗い空、そんなのお構いなしに輝く数多のネオン。高いビルが目隠しをするように乱立し、珠紀たちのいる荒廃した行き止まりを囲っている。

 珠紀の知っている場所でない。それどころか、生活をしていた日本国内だとも思えない。


「おーい。酔っちゃった?」


 間延びした声。気遣いの言葉であるが、本心からのものではなさそうだ。

 珠紀は自分がここにいる原因が目の前にいる男ではないかと疑ってかかった。違ったとしても、手放しで信用はできない。危険視するなという方が無理な話である。

 彼女が目を覚ます前――意識を途切れさせる寸前の記憶は、巨大な機械の手に掴まれる瞬間のこと。パーツやコードが飛び出した無骨なそれは行く手を阻むように何もない場所から現れた。そして、珠紀と片桐をまとめて掴んだのである。何もかもが異常、何もかもが突然。珠紀は直感で死んだと理解して、気づけばこの路地裏で気絶していたのだ。


「すごい、すごいすごい! ねえ、内海さん! これって夢じゃないよね!?」


 はしゃいだ黄色い声は緊張した空気を壊すには十二分。少なくとも、珠紀には今ここに爆弾を投げ込まれるよりも衝撃だった。

 血の気が引いた顔色で俯き、命の危機にすら怯えている珠紀に対して、片桐はなぜが色めき立っている。そんな先輩の調子に眉をひそめた珠紀はこそこそとした声で「片桐さん、ここがどこか分かるんですか? あの人のこと知ってます?」と尋ねた。片桐は大きく頷く。


「ここは異世界! 彼は私をここに呼び出した人!」

「……は、い?」


 先輩の自信満々の断言に後輩は呆然とするしかなかった。絶句といってもいい。少しでも珠紀に余裕があったなら怒鳴り散らしていたかもしれない。続けて、心の底から申し訳なさそうに「巻き込んじゃってごめんね」と謝罪が告げられる。珠紀は満を持して閉口した。

 そして、一つの結論を得る。片桐は自分が守るしかない、と。

 以前からふわふわした先輩だとは思っていたが、彼女はこの不測の事態に完全に舞い上がっている。どんな凶事にも繋がりそうな状況であるのに、悪い想像なんてこれっぽっちもしていなさそうなのだ。


「ハハ、元気だねえ」


 のんきな調子で笑声混じりに頷く男の目はちっとも笑っていない。むしろ、茶化しているようにしか聞こえなかった。

 男は改まったようにわざとらしい笑みを浮かべる。


「名前、教えてくれる?」


 警戒心の欠片もない片桐が自己紹介を始めてしまう前に、と珠紀は先んじて「嫌です」と声を張り上げた。掠れて緊張している声に威勢などはなかったが、意思の強さははっきりと感じられる。

 男と片桐はきょとんとした様子で珠紀を見やった。


「あ、あの、ここはどこなんですか、あなたは――」

「待った」


 ぴりり、空気が張り詰める。響いた声はさっきまで適当な言葉を投げかけていたのと同一人物とは思えない冷たさだった。


「もう一度、言って」


 繊細な文様の描かれた長い袖がひらりと揺れる。男はわずかに身を乗り出していた。獲物を見つけた捕食者のように標的から目を逸らさずに身構える。

 珠紀はまとわりつく死の予感に息苦しさを覚えていた。恐怖。一歩でも踏み間違えれば、すべてを失って奈落へ落ちていきそうな得体の知れない感覚。


「……、ここはどこなんですか、あなたは誰ですか。何の目的があって私たちはここに連れて来られたんですか」


 先ほどとは違い、珠紀の声は真っすぐに響いた。ただし、強がりであるのは誰の耳にも明らかである。彼女の顔色はまるで死人のようであり、ちょっとの刺激で卒倒しそうなのをどうにか気力だけで持ち堪えていた。

 繰り返された言葉に男は静かに口角を吊り上げた。


「見つけた」

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